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ありがとう、私の太陽
登場人物一覧
その古本屋には屋号も無ければ店舗も無い。
或る日突然、自由気ままな蜃気楼のように現れる。
ラサのバザールにある砂岩の階段を書棚にして、古書の群れが並んでいた。
強い日差しを遮る羊皮紙色の天幕は微睡む賢老にも似て、飴色に染まった空間にはゆったりとした時間が流れている。
一人の客が立ち止まり、古書の表紙に白手袋に包まれた指を滑らせた。
上品なメイド服に身を包んではいるが、そこかしこに滲む所作は戦う者のそれだ。
黒い砂除けの布に隠された中性的な美しい相貌は男とも女ともつかず、本を見下ろす気だるげな瞳には思慮的なアメジストが宿っている。
黒い狼の耳が微かに動く。
深く煎った珈琲豆を思わせる甘い黒革の背表紙には『翡翠の眠る丘』と掠れた金文字が刻まれていた。
本を特別探していた訳ではないが、何となく題名に惹かれて手に取ってみる。
見た目の薄さに反してずしりと重い。
乾いた音と共にクリーム色のページが捲られる。紙面に踊る飾り文字は花や蔓を象り、画材に宝石が使われているのか、角度を変えると星光のように輝いた。
水晶の生えるオアシス、砂の薔薇園、迷いの嵐。
そしてたどり着いた白い砂丘。
ほう、とミザリィ・メルヒェンは人知れず息を吐いた。
ページ一面に広がった青い空と白砂の砂丘。その中央には瑞々しいエメラルドの湖が幾つも描かれている。
「願いの叶う、白い砂……」
「その絵、キレイだなぁ」
ミザリィの心を代弁するかのように少年の声がした。
「エドワード」
隠すように本を閉じてミザリィは振り返った。その表情は変わらないが雰囲気が春のように和らいでいる。
「言われた通りに着てみたんだけど、どうだ?」
エドワードと呼ばれた少年は笑顔でくるりと回った。
焔色の髪には砂除けの装身具が巻きついている。冬の焚き火よりも鮮やかな緋色の布地は勇士のように勇ましく、縁には金糸で太陽の加護紋が縫いつけられていた。
「よく似合っています」
「へへへ、ありがとな。ミザリィの見立てが良いお陰だぜ」
強い陽射しの中を長時間歩きまわっていたせいか。少年の雪のように白い頬は汗ばみ、薄らと桃に染まっている。けれども疲れを見せない瞳は黄金よりもなお眩く、本の中身を見てその輝きを一層強くした様子だった。
「その本に描かれてるのって『白雲の砂丘』だよな?」
「恐らく」
ミザリィは戸惑うように瞳を左右にゆらすと、ゆっくりと頷いた。
――
エドワード・S・アリゼが受領した依頼書の目的地であり、二人が目指す地だ。
傭兵で千夜紡がれた物語であると同時に貴重な素材が眠る純白の砂丘。
砂丘を構成する雪のように白い砂の正体は微弱な魔力を含んだ水晶体の鉱物だ。地下に眠るそれが長い年月を掛けて自然の力に研磨され、蓄積し、広大な砂丘となった。
微弱な魔力を持つその特性ゆえ、砂丘の周囲は止むことの無い砂嵐で覆われている。
外縁部には磁力を放つ別の鉱石が生成され、その領域に入ればたちまち方位磁針が道を失う羅針盤泣かせの道。
太陽と星の運行と仲間に恵まれ、幸運と砂漠の両方に愛された者だけが純白の世界に到達できると云う伝説の砂丘。
「特徴は一致していますが、このエメラルドの湖についての情報はどこにも存在していません」
ミザリィは本の表紙を撫でる。
「砂丘にたくさん湖があるなんて不思議だよなぁ。泳いでみてーっ!」
「そうですか」
くすりと花のような笑い声が聞こえた気がして、エドワードは慌ててミザリィを振り返った。いつも通りの無表情だ。
「準備ができたなら何よりです。パカダクラの手配と、水と携帯食の買い出しは終わっています。荷物も纏めておいたので、いつでも出発できますよ」
するりと元の位置に戻された本をエドワードは目で追った。そのまま不思議そうな、何かもの言いたげな視線でミザリィを見つめる。
「……なにか?」
「その絵本、買わねぇの?」
さも当たり前といった声色で問われたので、一瞬ミザリィは返答につまった。
「重いので荷物になります。それに値段も高い」
「うわっ、結構良い値段すんのな!?」
それでもエドワードは本を手放そうとはしなかった。
「なぁ、ミザリィ。割り勘でこれ買わねぇか? もしかしたらさ、本の中に砂丘を見つけるヒントがあるかもしれねーし」
それに、と爽やかな午後に似た笑顔でエドワードは続けた。
「思い出になるじゃん」
ミザリィは考える。冷静さを保ち続ける表情とは裏腹に、感情のほうは戸惑いと喜びがごちゃまぜだった。
「……エドワードがそう言うなら」
黒い尾が優しく揺れる。
再びミザリィの手元に戻ってきた物語は掌にしっくりと馴染んだ。
●
ミザリィは裡に生まれた感情や言葉を表に出すのが苦手だ。
むしろ誰かに知られることを、近づくことを恐れていると言い換えても良い。
「今日は、お誘いありがとうございます。エドワード」
パカダクラの背に揺られながら、先を進むエドワードに声をかける。
たったそれだけの事に、勇気を振り絞らないといけない。
不安なのだ。
ミザリィの進む道の先にはいつだって暗雲が立ち込めている。
一人でいれば、傷つくのは一人で済んだ。
けれど二人なら……。
いけない、と不安に染まる思考を払うようにミザリィは頭を振った。
最初に冒険へ行こうとエドワードに声をかけられた時には耳を疑ったものだ。
ミザリィは断ることも出来た。だが、そうしなかった。
本で見た砂漠。本で読んだ景色。
そこに行くのだと高まる鼓動を押さえ、エドワードの足手まといにならぬようにと砂漠越えの準備をして。
ミザリィには言葉が足りない。
けれど行動で補うだけの、努力家としての一面をエドワードはよく知っている。
だからエドワードは旅の道連れにミザリィを選んだ。
料理上手で仲間想いな賢狼を。
この冒険が、互いを知る機会になれば良い。少しでも心の距離を縮めて、ミザリィの心を曇らせる問題を解決できれば良い。
白い砂丘を一緒に見つけたらミザリィは喜んでくれるだろうか。
きっと喜んでくれるはずだ。
自分の直感を、エドワードは大切にしている。
初めて目にした本物の砂漠に目を輝かせ、そんな自分を恥じるように瞳を翳らせたミザリィ。
(この冒険が終わった頃には、もっと仲良くなれているといいな。いや、なってみせるぞーっ!!)
前を進むエドワードは楽しい未来を想像して朗らかに笑った。
嬉しさを滲ませた瞳で振り返ると、揺れる細身に向かって最大限の感謝をささげる。
「こっちこそ今日は来てくれてありがとな。砂漠越えの準備もミザリィがしっかりしてくれたから心強いぜ!!」
「いえ、私には」
それしか出来ないから。
ダァァ→カァァ↑
山羊のように震えたパカダクラの甲高い鳴き声がミザリィの言葉を遮った。
「なんだぁ?」
「エドワード、あれを」
「オアシスか!! お前たち、よく見つけたな〜。えらいぞぉー」
「ダ↑↑カ↑↑〜〜」
得意げに鳴くパカダクラの頭の向こうに、青々と繁る椰子の葉が見え始めていた。
「よしよし。お前たちとはここで一旦お別れだな」
「ダ〜カ〜……?」
「心配すんなって、白雲の砂丘を見つけたら戻ってくるから」
睫毛の長いパカダクラの憂いを帯びた顔をさすってやりながら、エドワードは手早く二匹の手綱を近くの椰子の枝に結び付けた。
ここなら餌や水に困ることは無いだろう。
青々とした湖には水晶のような瑞々しい透明感があり、周囲に生える草木に生命を漲らせている。
「お前ら白雲の砂丘を探してんのか?」
「いいね、いいね。それでこそ冒険者だ」
先にオアシスで休息を取っていた隊商のメンバーが囃し立てるように口にする。
「おっちゃん、こいつら大丈夫かな」
「この辺りには地下に水脈が通ってる。一度雨が降れば、そうそうこのオアシスが干上がることはないぞ」
「それにパカダクラは頭が良い。数日で勝手に飼い主の元に帰るよ」
「お前等も西側に行くなら気をつけろよ。でっかい砂嵐が来てるからな」
砂嵐と聞いて、エドワードとミザリィは顔を合わせた。
「じゃあなーっ、おっちゃんたちも気をつけて帰れよ」
「はは。砂漠で俺等の心配するなんざ、百年早えよ」
「二人とも、歩いて進むなら気をつけろ」
エドワードは両手を大きく振り、ミザリィは丁寧に頭を下げて彼らの帰路を見送った。隊商の列に手を振るエドワードをミザリィは尊敬のこもった眼差しで見つめる。
あっという間に隊商の警戒をほどいたエドワードは、挨拶代わりに値千金の情報を仕入れてしまった。誰にでも真似できることではない。相手の心を開くエドワードだからこそ、できたことだ。
そんな彼の隣に、自分は居る。誇らしい気分だった。
黒い砂除けの装身具で全身を覆ったミザリィは手早くパカダクラの背から荷物を下ろして背負子のなかに纏めていく。
水、携帯食料、毛布、寝袋、テント。
……迷った末、黒い表紙の本も持って行くことに決めた。
エドワードから冒険に誘われた時、ミザリィの心は花咲くようであった。
絵本でしか見た事のなかった太陽の暑さも、風に舞う砂の匂いも、生きた命の溢れるオアシスも、すべてが本物で新鮮だった。
だから、失敗できない。
鬼気迫るほど力のはいった真剣なミザリィの横顔を、エドワードは見つめていた。
●
西へ、西へ。
パカダクラ色の乾いた大海原を進んでいく。
隊商から聞いた砂嵐の目撃情報は確かだった。近づくんじゃねえぞ、という忠告も。
黒と緋、二色のバンダナが横風に殴られ旗のようになびく。視界を塞ぐ象牙色の砂が露出した肌を容赦なく叩き、酸素を奪う鋭い強風に呼吸も満足にできないでいる。
あれだけ強かった太陽の光は砂嵐に覆われ、周囲の光景を灰色がかった朧げな世界へと変えていた。
どれほど歩いたのだろうか。一時間か、それとも半日だろうか。
時間も意識すらも曖昧になりがちな世界で、前を歩く朱色の力強さだけが変わらなかった。
「……すげー砂嵐だ。先もほとんど見えねーし、コンパスも役に立たねぇ……っとと!」
「エドワード!」
荒れる風と柔らかい砂に足を取られ、小柄な緋色が飲み込まれるように傾いた。よろめいたエドワードの背を支えようとミザリィは手を伸ばし、ふれる直前ではたと引き戻す。
「やっぱり足元が柔らかいと歩きにくいよなぁ」
「……」
「ミザリィ?」
「……っ」
見つからない焦りだろうか。
俯いたミザリィの顔が、バンダナの影に隠れて見えない。
握りしめるように胸元の布をつかんだ指先は強く、流砂のような皺が寄っていた。
ミザリィの胸に再び不安の澱みが滲みはじめる。呼吸が苦しい。あれだけ準備したのに。
――幸運と砂漠の両方に愛された者だけが純白の世界に到達できる。
その伝説が真実ならば。見つからないのは、もしかして。
「ミザリィ、大丈夫か?」
立ち止まったミザリィに、エドワードは叫ぶように声をかけた。しかし風の音で聞こえていないのか。焦点を結ばぬ虚ろな紫が砂に埋もれたブーツを見下ろしている。
砂丘が見つからないのは、それはきっと、自分のせいだ。
「……だめ。無駄になってしまう。私が、私のせいで、ぜんぶ、だめに」
そうだ。
いくら努力しようと、必ず報われるわけじゃない。
どんなに頑張っても、必ず実を結ぶわけじゃない。
(お前がいるのに見つかるわけ無いじゃないか)
鏡写しの私が囁く。言葉の枷が身を縛る。血の気が引いていく。
世界は残酷だ。どんなに抗ってみても、どんなに願っても、救われないモノがいる。
(そんなに誰かを絶望させるのが怖い?)
怖い。
世界の不条理を受け入れてしまうほどミザリィは絶望を経験したから知っている。
(引き摺りこんでしまえば良い。流砂のように、お前の不幸のなかへ)
「だめ、だめだ」
私に関わると、エドワードまで不幸にしてしまう。
だって私は。私は。私の正体は。
「なぁ、ミザリィ。オレのこえ、聞こえるか?」
埋もれそうな雑音のなかで、掬い上げるように自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
人形のようにゆっくりと顔を上げたミザリィの瞳が見たものは、眩いばかりの友人の笑顔。
「手、繋いでこーぜ」
「え?」
「ほら」
視界にかぶさった光と影は柔らかく、その人は幽かな太陽の光を背中にして手を差し伸べていた。
彼の掌を見て震えてしまった身体を、差し伸べられて恐怖した心を、悟られてはいないだろうか。
「こうしときゃ道に迷ってもはぐれねーし、なにより……仲間やともだちとこうして繋がってると、いつもよりちょこっとだけ頑張れるんだ」
「なかま」
「そう、なかまだろ。オレたち」
ゆっくりと告げられた言葉を繰り返す。
エドワードの、燃えるようなオレンジ色の瞳が自分に向けられていると理解した時、霧が晴れるようにもう一人のミザリィの姿が消えていく。
「だからさ、ほら」
ミザリィの腕が自然と動いた。
手袋に包まれた己の掌を握り、確かめるように開く。
大丈夫。
この手は、ひとのかたちをしている。
震えはまだ止まらないけれど、誰かを傷付ける鋭い爪はついていない。
綻んでいく心に合わせて、深く、大きく息を吸い込んだ。
「お願いします」
耳障りな砂嵐の音が遠ざかっていく。
指先がふれる。芽吹いた指先が、掌が、力強く握り返される。
「エドワード、離さないでください」
エドワードがどう応えるのか、すでにミザリィには分かっている。けれども心が叫び続けてきた声を、願ってきた思いを、口に出さずにはいられなかった。
「私は自分を信じられない。けれどもエドワードなら、信じる事ができる」
真っすぐに見つめる瞳に負けじと、迷いを振り切った紫玉が前を見据える。砂が口の中に入るにも関わらず、生まれたばかりの願いを強く謳う。
「私が逃げてしまいそうになっても、どうか離さないでください」
誰かに触れるのが怖いのだと、かつて
不器用で優しい友人は言った。
泣きそうな顔で微笑むミザリィの手に、エドワードはふれる。
「まかせとけ!!」
輝きを失わぬ太陽は差し出された手を強く握り返した。
その瞬間、風が、止んだ。
「ん……?」
「砂嵐が晴れてきた……な……」
上へと舞い上がる風の流れは嵐と表現するにはあまりに爽やかで、まるで生き物のようにするすると砂を空へと運んでいく。
そうして二人揃って見上げた空で、白青の光が花火のように弾けた。
「くっ」
「わっ、まぶしっ!」
白光が世界を覆いつくす。耐えられず、エドワードとミザリィは片腕で顔を覆った。しっかりと握られた手は互いを離すことなく、しっかりと結ばれたまま。
●
さらさらと、砂を撫でる波の音が聞こえる。
「んっ」
ミザリィは恐る恐る、顔を覆っていた腕を下した。顔に打ち付ける砂の痛みも、肌を裂く風の鋭さも感じない。
「ここ……!」
驚くエドワードの声に導かれるまま瞼を開けると、そこに広がっていたのは快晴の空。
二人で砂丘の上に立っているのだと気づくまでに少しの時間が必要だった。
先ほどまでの嵐が嘘のように穏やかだ。見わたす限りの白い世界。雲の上に浮かんでいるかのような錯覚すら受ける。そして眼下には宝石のように透き通った数多の湖が静かに水面を波立たせていた。
「白い砂と、エメラルド色の湖」
絵本で見た景色と同じ世界が、そこには存在していた。
「白雲の砂丘。本当にあった。辿り着けた……」
「すげぇ……」
放心したように呟くミザリィの隣で、エドワードもまた興奮が隠し切れないでいた。目の前の光景を記憶に焼き付けるべく見つめていたが、ふれた掌の温度を確かめるように引っ張った。
「きらきら光って、まるで宝石の山みてーだ……んでもって、これが、エメラルド色の湖! 行ってみようぜ、ミザリィ!!」
「え、エドワード!?」
「あはははっ!!」
「わっ、あっ、ひゃっ……ふふふっ」
坂道を転がり落ちるように駆け抜ける。
つないだ手を離しても、きっともう大丈夫。
風になった二人は白砂を巻き上げ、笑い、息をきらせて白い世界を走った。
「これ、地下水かな、下から湧いてるみてぇだ」
「そのようですね。魚や生き物が見当たらないということは、常にある湖では無いのでしょう。エドワード、何をしているんですか?」
「ん? 泳ごうと思って」
湖の底から、小さな気泡がシャボン玉のようにぷくぷくと湧き出ている。話しながらエドワードは背負っていた荷物や顔を覆っていた布を外し、砂まみれのブーツを脱ぎ捨てた。ミザリィが止める間もなく、盛大な水飛沫があがる。
「えっ、エドワード、服を着たままそのまま飛び込むなんて……!」
「大丈夫だって。ここならすぐに乾くだろ?」
「それはそうですけれど」
冷たい水飛沫が火照った皮膚に心地よい。
すいすいと魚のように泳いだエドワードは振り返り、慌てた様子のミザリィに向かって手を振った。
「気持ちいーーっ。ミザリィも来いよ〜っ、すげー気持ちいーぜ!」
「わ、私は足だけでいいですよ。耳や尻尾が濡れるのはちょっと……」
ぺしょんと下がったミザリィの耳を見れば、無理に誘うのは気がひけた。
「そっかぁ。気が向いたら、ミザリィも一緒に泳ごうなー」
「そうですね。気が向いたら」
エドワードに倣ってブーツを脱ぎ、巻き付けていた砂除けや手袋を外す。
解放感と吸い込んだ空気の美味しさに、緊張でつめていた息をゆるゆると吐いていく。
風の穏やかなこの空間には、ミザリィとエドワードしかいない。遠慮など必要ないだろう。
歩き続けた足を湖に浸す。ひんやりとした冷たい湧き水に溜まっていた疲労が溶けだしていくようで心地良い。
どこまでも白い世界。青い空。首飾りのように湧き出した冷たいエメラルドの湖。
――太陽と星の運行と仲間に恵まれ、幸運と砂漠の両方に愛された者だけが純白の世界に到達できると云う。
「まさか、ですけれどね」
ミザリィは黒い表紙の絵本を開くと、その一文をなぞった。
おとぎ話はどこまでが真実か分からない。もしかしたら全部が虚構かもしれない。
けれども今日の冒険をふりかえると、白雲の砂丘にまつわる不思議な伝説はあながち嘘ではないのかもしれないと、思ってしまうのだ。
小さな風紋が辺りに白薔薇に似た模様を描いている。
遂に白雲の砂丘にエドワードとミザリィはたどり着いたのだ。
「な、ミザリィ。今日の冒険、どうだった?」
ちゃぷちゃぷと水面を揺らしながら、頬杖をついた太陽の子が問いかける。
「オレは最高にワクワクして、楽しかったぜ!」
濡れた赤い髪が額に張りついている。長い髪が水面に揺蕩う。
あれだけ過酷な目にあって、それでも疲れ一つ見せず快活に笑う。それがエドワードという少年だ。
「……私も、楽しかったです」
ミザリィは幽かな微笑みを浮かべた。
風が吹けば消えてしまいそうな、それでも花のように美しく喜びに満ちた笑顔だった。
エドワードは満足そうに無邪気な笑みを深くした。
「そっか!」
檸檬色の太陽の光を浴びて、瞬く粉雪のように世界が輝く。
「これは、今日の記念な」
エドワードから差し出された小瓶をミザリィは手のひらで受け取った。
指先が触れあっても、怯えたように震えることは、もう無い。
ころりと転がるのは幸運の白砂が入ったコルク瓶。赤い紐で結ばれた羊皮紙のラベルには文字が書けるように空欄になっている。
「この白砂って願い事が叶うんだろ? だからミザリィにプレゼントしようと思ってさ」
「まさか入れ物まで用意してるなんて」
「ひひ。だって折角来た記念に、持って帰りてーじゃん」
この砂が高値で売れる素材だとエドワードも知っているはずだ。なのにミザリィに渡した分しか求めず、辿り着いたこと事態を報酬にする。
どこまでも無欲で純粋な冒険者。
「だから、砂丘も認めてくれたのでしょうね」
「ん、何か言ったか?」
「いいえ、大した事ではありません。が、そうですね……強いて言えば、あなたはそういう人だと確認をしていただけです」
エドワードは最初から、ミザリィと一緒に白雲の砂丘にたどり着けると信じて疑っていなかった。
その自信が嬉しくて、どこか面映ゆくて。ミザリィは普段通りのジト目を気取ってみる。
聡い友人にはきっと本心がバレているのだろうけれど、それでも。
「またさ、一緒に冒険しようなっ」
「ええ。また一緒に」
ミザリィが次の約束を恐れることは、もう無いのだろう。
「ありがとうエドワード」
小瓶を見るたびに今日を思い出せる。
差し伸べてくれたてのひらの温かさも、どんなに困難な道にあっても私を照らしてくれた眩しさも。全部、心のなかに残っている。
「では代わりに。今日の記念にこの絵本はあなたが持っていてください、エドワード」
ミザリィは黒い絵本を差し出した。
「いいのか? それ、気に入ってるだろ」
「はい、気に入っています。だからこそ、あなたに持っていて欲しい」
ミザリィの尻尾が自然と揺れる。
「そうしたら用が無くても会いに行く口実ができるので」
くすんだ金の髪が、言葉が、皮肉を置いて、真っすぐにエドワードを見つめる。
「はははっ、分かった。じゃあ預かる形でもらっとく。それでいいか?」
「はい、そうして下さい」
驚くような景色に、砂漠の大冒険。幸運をもたらす白い砂に透き通ったエメラルドの湖。
困難を乗り越え絆を育み、まだ見ぬ世界の一端を目にする。
エドワードの憧れる、望む冒険とはそう言うものだ。
今日は正しく、楽しい冒険だった。
心強い友人が精一杯の我が儘を言ってくれた記念日でもある。
絆をつないだ白い砂丘のことを、エドワードは忘れないだろう。
蓮のように水に浮かび、ぷかぷかと漂う。
傍では岸に座ったミザリィが戯れるようにぱしゃりと水を蹴った。
「帰りはどうすっかなー」
「一泊、してから帰りましょうか」
狼は控えめに夜を提案した。
以前なら考えられなかった発言だ。
「……テントも持ってきています。きっと星が綺麗ですよ」
おまけSS『白雲の砂丘観光ガイドマップ』
・イメージ
天空と砂漠の絵本
アラビアンナイト的オアシス
歩み寄る友人/願い
太陽と狼
ラベルのついた白砂入りの小瓶
・イメージ風景
真珠のような白と鮮やかなエメラルドの世界
異世界や異なる星に似た神秘さ
エジプトのハーン・ハリーリ市場。
トルコのパムッカレ。
ブラジルのレンソイス砂漠。
ボリビアのアタカマ砂漠。
・イメージ楽器
ケーナとバンジョー
鈴とオカリナ
太鼓とストリングス