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Fool Feel Fall
登場人物一覧
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ふわりと舞う薔薇の花弁が、甘やかに風を香らせる。
カランコロンと耳に心地よい音を奏でる鐘は、白き尖塔の頂きに。
鐘が揺れる塔を見上げながら、迎え入れるように開かれている重たげな鉄門をくぐれば、あちらこちらで少女たちの声が生まれたてのシャボンのようにパチリパチリと弾け合う。ごきげんよう、ごきげんよう。本日もあなたにとって素敵な一日でありますように。
此処は、穏やかな薫風が少女たちの髪を揺らす、乙女たちのための学び舎――私立イチカーノ女学園。重たげな鉄門は、今日も乙女たちのために開かれている。
艷やかな
朝に会える時は少し特別だ。あの人が白衣を着ていない。職員室で白衣を纏う彼は、校門を開ける当番の時だけは少し寄れたスーツ姿。今日は良い日になりそうだ。
「ごきげんよう」
「先生、ごきげんよう」
「ああ、おはようさん」
乙女の園では『異質』である
怠そうな彼の態度に先生眠たそうね、なんてくすくすと友人たちと話しながら昇降口へと向かう少女たち。その背中を男性教師よりも後ろから見送った蜻蛉(p3p002599)は花唇にくすりと笑みを佩いた。
(せんせはいつも”そう”やよ?)
朝だけじゃなくて、ずぅっと。
お腹の奥に響きそうな掠れた重低音は、お天道様が頂上で煌めいたって、鴉が寝床に帰る時間になったって、ずぅっと”そう”。
解ってないなぁと思う。けれど教えてあげる義理はない。十夜 縁(p3p000099)先生のことは蜻蛉が一番多くを知っていたいし、教えるだなんてそんな労力を割きたくもない。
ブレザーの胸元に手を当て、呼吸を整える。この気持ちは彼には伝わってほしいけれど、他の人に知られてはいけない。少女は『生徒』で、彼は『教師』なのだから。
生徒たちは昇降口へと消えていくが、教師である彼が向かうのは教師用玄関だ。
「せんせ、ごきげんよぅ」
鈴を転がすような声に、傍らを通り過ぎ様に薫る香。その日受け持つ授業内容を頭の中で思い描きながら、他の生徒たちへ返す時と同様に「ああ、おはようさん」と眼鏡の位置を正しながら縁は口にして――薫る香りに少しだけ硝子の奥の瞼を持ち上げる。
教師用玄関へと向かうべく曲がり、自然さを装って振り返ると、真っ直ぐな黒髪が昇降口へと飲み込まれていくところだった。
三年A組、出席番号十番。蜻蛉という少女は、模範的な生徒である。二年の後半からは茶道部を預かり部長を務め、後輩からの信頼も、部活の顧問からの信頼も厚い。言葉遣いは柔らかく、態度は努めて穏やかで、授業態度も良好。
……というのが、縁以外の教師陣から見た彼女の印象であり、評価であった。
というのも、縁にとっては
縁は自身が蜻蛉にとっての『特別』であることを知っていた。
彼女が入学してからずっと、思い知らされて来た、と言っても良い。
最初は少女らしい一時の
しかしそうではない事を、この二年と少しの間に思い知らされてきている。
蜻蛉が常に縁を目で追っていること。
常に耳がこちらを向いていること。
他の教師は「先生」と呼ぶのに、縁のことは「せんせ」と甘く呼ぶこと。
蜻蛉という少女は、実に
――カラン、コロン。
放課後の鐘が鳴れば、蜻蛉は茶道部に顔を出す。季節の菓子を口にしながら各々の点前を評論しあい――洗ったばかりの茶筅をトンと立てた時には、下校時刻も近い。茶室の鍵を職員室へ返しにいき、白い尖塔が夕日に染まるのをそっと眺め――ふと気がついた。
生物準備室の、窓が開いている。
揺れるカーテンのその奥で、きっと彼が隠れて煙草を喫っている。
「せんせ、一緒に帰らへん?」
急いで生物準備室へと向かいひょこりと覗き込めば、思った通りコポコポと音を立てる水槽の前で縁が煙草を吹かしていた。ウィーディーシードラゴンへと餌をやる彼の姿を見るだけで愛しさがこみ上げて、瞳は自然と弧を描く。
「お前さんは生徒で、俺は教師だぞ」
「それって、卒業したらうちをお嫁さんにしてくれるってこと?」
「……どう捉えればそうなるんだよ、嬢ちゃん」
生徒と教師、子供と大人。
それがどうしたの、恋の前では関係ない。と子供は思い、その枠を乗り越えようとするだろう。
けれどその枠組は、常に後者に責任が問われる。大人は大人としての対応が求められる。
……解っている。それが解らないほど、蜻蛉は『子供』ではなかった。
けれども、もし。
もしも、甘い嘘をひとつ零してくれるなら。信じて浸り、恋の甘さに落ちて居られるのに。
そう思わずにはいられない。
先生のいけずと笑って、勝手知ったる準備室内を横切り、窓へと向かう。窓枠へと背を預けて、揺れるカーテンを何の気無しに手遊んで、室内の『悪い大人』に視線を向け――そうして外へと視線を向ける。
いつまでこうしていられるだろう。この恋は、きっと期限付き。
ずっとずっと側に居たいけれど、蜻蛉はもう三年生だ。別れの時が迫っている。
卒業しても蜻蛉は彼の事を想っていられるけれど、きっと彼にとってはそうじゃない。
だから、戯れでも良い。
――カランコロン、カランコロン。
下校時刻を報せる鐘が鳴る。
鐘に驚いた鳥たちが一斉に飛び立って、揺れるカーテンの向こうに影が落ちた。
それを、彼の肩越しの、視界の端に捉えた。
……何故だろう。
窓に背を預けていたはずだったのに――。
小さく、息を飲んだ。思考が追いついていない。
顔が熱い。掴まれて引き寄せられた手首が熱い。熱を持った瞳が潤んでしまいそうだ。
事務机の上から、絹糸のような髪がさらりと零れ落ちる。
その髪を一房掬い上げ、口付ける彼の顔が近い。
瞳が嗤い、告げている。
教師の時間は終わりだ、と。
「せん、せ」
お魚が狼に変身するだなんて、生物の授業では教えてくれない。
捕らえようとしていたのに、気付けばひっくり返されていて。
ピンで止められた蝶のように艷やかな黒髪が事務机に広がっている。
捕らえられていたのは、一体どちらが先だったのだろう?
「ずるい」
いつもと違う彼の態度に、蜻蛉は林檎のように赤くなることしかできない。
「俺は大人だからな」
化けの皮を被るのも、牙を隠して罠を仕掛けるのもお手の物。
『いい先生』を脱ぎ捨てた狼が、赤い林檎に顔を寄せて囁いた。
――牙を立てても文句は言わねぇよな、嬢ちゃん。