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いきものというものは
登場人物一覧
大きな戦や災害の後には早急に行わなければならない事柄が存在する。
死傷兵の処理のことだ。
腐り始めた肉は虫や害獣を呼び寄せ、やがては感染症にも繋がっていく。可能であれば、遺族に向けて遺留品も届けてやらねばならない。
まして、此度の戦争は聖都そのもので行われている。近隣諸国等に放り出すことなどできはしないのだ。
しかし無論のこと、それは進んで行われる仕事ではなかった。誰しも嬉々として死体に触ることなどできはしない。やらねばならぬとわかってはいるのだが、目を背けたくなる事実は働き口の見つからない誰かに押し付けられるのが世の常だ。
だから鶫・四音がその一画の処理を自ら申し出た時、役人らは諸手を叩いて喜んだものだ。公募しても集まらない、しかし必須とされる案件である。挙げられた手は強く握りしめ、どれひとつ零したくはなかった。
ギルドに所属している以上、身許の上でも問題はないと判断されたのだろう。四音が申請をしたその日の内には積み上がった死者の山が彼女の前にあった。
悪臭が鼻を突く。夏であるということもこれに拍車がかかっており、既に死骸らは随分と腐食を進行させていた。案内をしてくれた役人はあからさまに顔を歪め鼻をハンカチで覆っているが、四音のそれは涼し気なものだ。この光景に嫌悪感など抱いていないかのように平然としている。
十二分に可憐と言える四音の容姿に庇護欲を、あるいは下心を掻き立てられるものもあったのだろうが、役人というのはたいていが懸命なものだ。彼女の様子に関わってはいけない不穏な何かを感じ取ったのだろう。早々に担当区画だけを説明すると、彼はそそくさと帰っていった。
死体の山。四音はしばらくそれを眺めていたが、やがてそのひとつを細腕で選り分けると自分の目的に取り掛かり始めた。
鎖骨の下辺りから横一文字にナイフを滑らせ、もう一片の鎖骨下から縦に下腹部まで切り裂くと、驚くほど簡単にヒトの皮膚と肉を剥がすことができる。
誰かがいれば見咎められそうな行為だが、幸いというべきか災いというべきか、彼女の仕事を監視しようという物好きはこの場に居なかった。
顕になった胸骨を指でなぞると、傷ひとつ付いていないということがわかる。顔を密接させて覗き込めば心臓に一点、細い槍で抉られたような跡があった。
「ああ、致命傷はこれで、一瞬で死ねたのですね」
手を合わせるような宗教概念は持ち合わせていない。契約通りに身許の分かりそうな装飾品だけを仕分けると、四音は次の死体に取り掛かる。
次の兵士はひどい損傷に苛まれていた。腕も足もあらぬ方向に折れ曲がり、ひしゃげ、潰れている。あらん限りの悲鳴をあげたのだろう、片目が潰れた顔で大きく口を開いたまま硬直していた。
「こんなに顔を歪ませて、ずいぶん長く苦しんだようですね」
ひしゃげた手足の向きを力任せに正していく。中を見れば関節はより歪んだだけの結果であるのだろうが、少なくともヒトらしい形を取り戻させることには成功した。
この行為に意味はない。生きた人間で行えば残虐だと後ろ指をさされるものだろう。しかしこうした方が良いと思えたのだ。これ程に苦しんだのだから、終わった後まで奇怪な姿を晒している必要はない。これ程に体現したのだから、誰に知られぬ場所でまでその役を演じる必要はない。
こんなにも物語を彩ってくれたのだから、感謝こそすれ、誰が辱めたいと思うだろう。
見開かれた瞼に手のひらを当て、閉じさせる。それでも歪んで固まった顔が戻ることはなかったが、四音は満足げに微笑んだ。
積み上げられた死者の山。そのどれもに劇的なものなど存在しない。大きな功績を上げていない。家族に国の重鎮が居るわけではない。壮絶な運命に翻弄されたわけでもない。
ただ死んでいったのだ。戦いがあって、命のやり取りがあって、殺し合いがあって、ただその大きな流れによって死んでいったのだ。
戦争は悲劇だ。勝利という言葉は美談によって語られるかもしれないが、命を奪い合う結果に終わったという事実は悲劇でしか無い。どうあったところで、今もどこかで誰かが泣いているのだ。
彼らひとりひとりによって悲劇は彩られている。彼らの命があたら失われたことによって悲劇はより深く根強いものとして形作られている。
なんと喜ばしい。
彼らはその全員が命という自身の全てを持ってこの悲劇をより輝かしく仕立ててくれた。
誰かが死ぬことはとてもともて悲しいことだ。悲劇はそれによって助長される。命が失われれば失われるだけ悲劇はより色濃くヒトの心に残り、より鮮明な記録となって世界に深く深く爪痕を残していく。
大きな物事がひとりの力で成し遂げられることはない。悲劇も同じことだ。著名な誰かの死ひとつよりも、名もなき大勢の死のほうがより完成されている。
唇の端が釣り上がるのを止められない。先程の役人の判断は正しい。見た目は彼の美的価値観に当てはまったのかもしれないが、ここに居るのは紛れもなく人間ではないものだった。
ふと、死体が強く握っているものに気づく。こじ開けて手に取ると、小さなペンダントだ。男物ではないので首を傾げながら眺めていると、裏面に名前が刻まれているのがわかる。
「ナ、タ、リィ……いえ、ナタリアでしょうか」
恋人か妻、もしくは娘の名前だろうか。戦地において死を目前にし、多大な苦痛に身を捩らせながらも最後には家族のことを思ったのだ。なんと美しい。なんと麗しい。彼は命が失われる寸前まで自分以外の誰かの為にあったのだ。そうまでに高潔な彼が、大きな悪意によって失われてしまったのだ。
ナタリア。嗚呼、彼女がこれを受け取った時、どのような顔をするのだろう。名も知らぬ兵士、彼の魂はそれを受けて何を嘆くのだろう。もしも、もしも、もしも、嗚呼ナタリア、彼女の命まであたら無残に失われてしまったとしたら。
考えて、頭を振る。今思い描いた綺羅びやかな世界を忘れてしまうように頭を振る。それ以上は許されないことだろう。ヒトの身ではなくともヒトの中で生きるのであれば、越えてはいけない一線が存在する。それを見たいと思うことさえ、あってはならないことであった。
ほう、とため息をつく。
ペンダントを回収用の革袋に入れて、まだまだ残っている積み重なった死体のそれに振り返る。
焦ってはいけない。気を急いてはいけない。まだまだこんなにも、死は残っているのだから。悲劇は隠されているのだから。
顔も知らぬナタリア。彼女と、彼女に類する人々がこれを悲劇だと語るだろう。悲しい出来事があったのだと残すだろう。それでこそ意味がある。大きな流れだけを見ていては見向きもされなかった彼らの終わりが、意味のあるそれになる。
そのどれもが、なんとも喜ばしい。
「いきものというものは、本当に愛おしいですね」
その表情は、この場所とこの思考においてなお、誰が見ても慈愛に溢れていると言えるものだった。