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舞台裏
登場人物一覧
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世間一般と乖離していると自認している場合、必ずしもそれと殉教する覚悟ができているものだろうか。
この場合、一般とは何かを論じるつもりはない。その女は自らの信仰のために多数の人間を誑かし、明確な意思を持って人を消し去り、邪魔者は殺害を持って対処してきた。それを世間一般かと議論する余地もないことは自明であり、彼女自身もそれを理解していた。
しかし、彼女は止まらない。自身が異物であることを自覚しながら、それを止めることも休めることもしなかった。信仰の故に、とは言い切れない。狂信の果てに、とは言い切れない。
なぜなら彼女はその信仰を持って他者を誑かすことで少なくはない金銭を得て、また快楽を感じるほどに信望を受けていたからだ。
信仰、とだけ言うにはあまりに不純。俗、というならばこれほど世俗的なこともないやもしれない。しかし彼女はその俗さ故に今、生きている。生き延びている。
ことの発端は、彼女が運営する信仰集団が、儀式と銘打った何かで使用する『秘薬』をさる術士に奪われたことであった。
外道の術を持って精製されたその秘薬は、彼女からすれば、惜しくないわけではないものの、他に代えられぬものでもない。また同じ、外法の術を持てば作れなくはなかった。
しかし、彼女がついた嘘が、彼女自身を追い詰めることになる。その秘薬は彼女らの神から賜ったもので、この世界では存在させることすら難しいものなのだと、信者らにはそう吹き込んでいたからだ。
いまさら、非道の限りを尽くせば精製は可能なのだと論を変えるわけにもいかず、彼女は自分が誑かした者たちの強い希望により、それを奪い返し、また奪ったものに天罰(そう言うしか無い)を与えようとせざるを得なくなったのだ。
それが、すべての終わりだった。
向かわせた暗殺者は尽く失敗し、先日、立てていた隠者も術士らに捕まったという。
信者には全てが順調であると伝えてあったが、いずれ報復を受け、名目も、場所も、栄誉も、すべて破壊し尽くされることは目に見えていた。
ならばせめて、せめてだ。人も名誉も土地もかなぐり捨てて、金品だけを覆い隠し、自分の命を守るしか無い。
本拠としている教会に、術士の手のものが入り込んだのは察知できていた。自分のテリトリーで目を瞑る術士がいるものか。
そして彼女は起こるだろう大殺戮を察して、安くはない宝石に変えてあった自身の財産を掴み、自分だけが知っている裏口からこっそりと、その場を離れたのだった。
笑いだしたくなる。すべてが上手くいったと、彼女はほくそ笑みながら、今やごうごうと燃え盛る教会を振り返ることなく道を駆けている。
このあたり、道は広く、地面もなだらかであるのだが、地下に空洞があるせいで、時折大きな穴が空いている。
明かりをつけたいところだが、万が一にも術士らに気づかれたくはない。息を潜めて慎重に、落ちないように気をつけながら、それでも一刻も早く、この場を離れようとするしかなかった。
だがそれ故に、彼女もまた、それの潜伏に気づかなかったのだ。
どさりと、彼女はその場に転がった。蹴躓いたのではなく、急に足が動かなくなったような、そんな転び方だった。
地に手をついて、現状を疑問に思うが、その考えも長くはとどまらず、拡散する。痛みがやってきたからだ。
動かなくなった脚に、強烈な痛み。彼女も修羅場を知らないわけではない。それが何かに切られたものであることは、瞬時理に理解できた。
だが、誰に。
術士らの刺客は、教会での残党処理に集中していることだろう。周辺の探索をするにしても、まだ当分余裕はあると思っていたのに。
「なんとも、詰めが甘い。逃げ場のない拠点を、術士が作るわけないじゃろうに。のう?」
声をした方に、顔を向ける。それしかできない。脚が動かないのだから、体を向けることは容易ではない。
言葉も出ない。それは、まさしく『秘薬』を奪い去った術士本人であった。
女が築き上げた信仰を、信者を、信望を、台無しにした張本人。根刮ぎにした大筆頭。
彼女にとって、諸悪の根源とも言えるべき存在が目の前にいる。
しかしそれを見て、女がとった行動は、復讐ではなく逃亡だった。
冗談ではない。真っ向から術士として競り合い、圧倒できるというならとうにそうしている。術謀を張り巡らせ、罠にかけられるというならとうにそうしている。
敵わないから自分が出向くことをせず、手駒を減らすだけとわけっていても行動だけを見せ、こうして抵抗もせずに逃げ出してるのだ。
戦ってはいけない。立ち向かってはいけない。命が惜しいなら、そういうことをしてはいけないのだ。
それを信者共はわかっていない。嗚呼、あの、狂信者どもめ。信仰のためなら命を投げ出せるなど、死を怖がらないなど、理解できない。
女は自分が唆したことも棚に置き、胸中で悪態をつきながら、それでも襲撃者から離れようと、動かぬ脚は忘れ、腕だけで少しずつ、少しづつでもその場から動き出していた。
ほら、脚の腱を切っただろう。地を這うだけの哀れな女に見えるだろう。だから助けてほしい。この場は見逃してほしい。生きていれば、確保している金があれば、何度でもやり直せる。そうしてまたひと目のつかぬところで、誰それを誑かし、地位を築けばそれで良い。
ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きじゃくるような声を出しながらその場を微々たる速度で離れていく。謝意などない。哀れさを誘うためのそれに過ぎない。だが、辛い悲しいという声を出すのは難しくなかった。足の痛みが脳で悲鳴をがなり立てているのだ。
だが次の瞬間、痛みは手に現れた。
ずるりと、生暖かいもので地面が滑る。何事かと確認すれば、彼女の両手から、すべての指が失われていた。
呆けたような声を出し、思考が止まる。だが続いて顔を出した激痛に、彼女は今度こそ真実の悲鳴をあげ、その場で泣き叫ぶことしかできなくなった。
どうしてだ、なぜだ。まとまらない思考の中で、そのような言葉だけがリフレインする。どうしてこのような目に合わなければならない。私が一体何をしたのだ。
だがわかっていた。そんなことを理解できぬほど、間が抜けては居ない。自分を襲うその人。その人の家族に刺客を放ったのだ。殺そうとしたのだ。だから報復を受けている。
至極まっとうな、誰だって理解できる、まっとうな行いであった。
だから思考は、次第にそこへと流れていく。
死にたくない。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない」
もはやうわ言。懇願の声ですら無い。痛みにより、顔を涙でぐちゃぐちゃにして、それでも死にたくないとだけ口にする。
その体が、ごろりと転がった。蹴り飛ばされたのだと、理解できた。蹴飛ばされて、転がされて、嗚呼と思うまもなく、地面に空いた穴に落ちていく。暗く暗い底へと落ちていく。
ころがりながら、ちらりとだけその顔を見た。笑っても怒ってもいない。虫を見るかのような目をしていた。
衝撃。暗転。
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水の音で、目を覚ました。
目を、覚ました。
その事実だけで、微睡みなど吹き飛び、脳が冴え渡る。
飛び起きたかったが、足が動かないために、それは叶わない。
どうやら足の腱を切られ、穴に落とされたことは夢ではないようだ。
慌てて手を確認するが、やはりそこに指はなく、しかしすでに血は流れていなかった。あの混乱の中、無意識下で止血の術式を発動させたのだろうか。そうであるならば、生存本能のなせるわざである。
水の音からするに、どうやらこの地下を川が流れているらしい。地上からは聞こえなかったが、そうとうの高さを落ちたのだろうか。見上げても、遠くて見えないのか、それとも日が沈んでいるからなのかはわからなかった。
だが、生きている。
心のなかで歓喜に噎び、あの襲撃者に悪態をつく。
詰めを誤りやがって。ざまあみろ。ほら、生きている。生きているぞ。生き残れば次がある。金も獲られちゃいない。どうとでもなる。馬鹿め、あんな目で見てくれやがって。
ひとしきり罵って。次の行動を起こすべきだと考え始める。
痛みはもう無い。だからまずはここを出て―――どうやって?
女が落ちた穴。それ自体は、けして広くはない。暗闇でわかりはしないが、その先がどこかに続いているということはない。出口は遥か天井の先と、川の流れの行末にしかないだろう。しかしこの脚で、この手では、登ることは叶わず、泳ぐこともままならない。自分から水に入って、そのまま溺れ死ぬことは容易に想像できた。
誰かに連絡を。とろうにも手段がない。金目のものだけを持って出てきたのだから。
時間が立てば誰かが探しに来てくれる。いいや、もう全員が焼け死んだ。
望みが無い。その事実だけが思考を染めていく。死んでいないだけで、終わっているのだと、脳が理解し始める。
だからもう、叫ぶしか無かった。
誰か。気づいていくれ。助けてくれ。救い出してくれ。
あらん限りの声で、力の限りを尽くし、音だけは派手な術も織り交ぜて。
気づいてくれない。誰も彼女に気づいてくれない。
そんな思考が耳元で幻聴のようにささやき続けている。
いつしか懇願は慟哭に変わり、術式は霧散して無意味となり。
足元には、幾ばくかの宝石が転がっていた。