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夜半ほつれる
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グラスに注がれた安酒を煽るようにしてリュグナーは頬杖をついた。氷がからりと音を立てたそれは近くに来客の訪れを予期するかのようであった。
早々に依頼に繋がる情報収集を終えた彼は此度の仕事は中々に骨が折れそうだと小さくぼやいた。無論、その言葉には返る言葉はなかった――筈だ。
「へえ、そりゃあおっかねぇな」
そう、上から降った言葉にリュグナーが顔を上げる。「おや」と漏らした言葉と同じく、彼の表情には困惑の色は浮かんではいなかった。
「珍しい所で会う事もあるのだな。どうした。暇になって散歩でもしていたか」
「そりゃ、こっちの言葉だろ。こっちも適当な仕事をこなして、その勢いで安酒でも煽るかとやって来てみりゃ、知った顔があるんだ」
リュグナーの言葉に何気なく返した縁は「リュギーがこんな場所に居るなんざ想像してなかったが、一杯どうだ?」と軽い調子で隣を指した。
久方ぶりの再会とはなるが、早々再会を喜ぶという訳でもないと言うのがこの二人だ。
「海洋での活躍の噂は耳にしたが……地上の歩き方を忘れた訳ではないようだな」
傍らへと腰掛けて、同じ酒をとオーダーしながらリュグナーが告げたその言葉に縁はわざとらしい調子で肩を竦めて見せた。
「そりゃ、こうやって飲み歩くのが唯一の楽しみだってのに、歩き方を忘れちまうわけにはいかねぇさ」
それが皮肉である事など縁は百も承知であった。情報屋として足を武器に活動を続けるリュグナーとは対照的に海洋での仕事を中心に引き受ける縁。ローレットに所属する冒険者の活動領域は多岐に渡る――それこそ、隣国である海洋は勿論のことだが、閉鎖的であったという深緑なども活動領域のひとつだ――のだが縁が主に活動するのは海洋だ。
「そうか。歩き方を忘れた訳でないならそれでいい――が、海の傍ばかりでは干からびてしまうのではないか?」
「いや? 案外、海に足でもつけりゃ潤って困るって具合だろ。
リュギーこそどうだ。歩き回って脚が棒にでもなってるんじゃないか?」
からり、からり、とグラスの中で揺れる氷を眺めながら「そんな具合に」と縁が冗談めかしたそれを飲み干す様にしてリュグナーは「成程?」と彼の横顔を見遣った。
リュグナーにとって縁という男は『文字通り』底知れない男だった。ふらりふらりと言葉を躱し、心の底を見せる事はしない。本心ここに非ずと称したならば大抵の人間が嫌がるのかもしれないが、リュグナーにとっては心地の良い存在であった。心の底が見えず、本心が透けて見えないからこそ信頼ができる。
情報屋たるリュグナーの『眼』を通したとしても『分からない存在』だからこそ、他人に簡単に情報を漏らす事をしないのが彼なのだ。
だからこそ、リュグナーにとっては非常に興味深い存在であった。情報屋でさえも分からない存在ということは未知の領域だ。未知を知り、未知を解き明かす事こそが情報屋という存在だ――リュグナーが視線を下げグラスを見詰める縁の横顔をじつと見遣る。
その視線を受け止めて縁は「もう一杯頼めるか」とカウンターへと声をかけた。
「それで? 海の傍はどうだ。海が綺麗で楽しいというのは訊いてはいないぞ。」
「さあね。海は相変わらずだろう。か弱い海種なモンで、海が近くにねぇと落ち着かなくてね」
さらりと躱したそれ。そうされる事位『当たり前』であると言う様にリュグナーは「へえ」と小さく返した。
本音を語らない縁にとっては、実の所海洋以外は『どうでもよかった』のだ。幻想が崩壊しようと、深緑とラサの和平が崩れようと知った事がないと言うのが本音なのだろう。
『一応』という建前を与えれば自身の住まう海洋王国に関しては救いの手を差し伸べるが、自身に刻まれた痕がどうにもその気持ちを削いでいくのだ。過去、美しい女を殺めた事がある――それは、夫を亡くした美しい女であったが、彼女が失意の中に立って居た頃に懺悔と喪失感だけを引き摺り続けた彼にとって『世界など滅びを迎えればいい』と考えていたのだ。
神託の通り、緩やかに、死に向かう。そう考えていたというのに、世界はどうにも救いを求めているのだから。
「最近――最近は何かあったかね。……そういや、天義の方がゴタついてたって風の噂で聞いたな。
情報屋としちゃあ“商品”の仕入れには困らなかったんじゃねぇかい? 面白い事がありゃ、酒の勢いで語ってもらいたいってもんだ」
さり気なく、酒の肴とする様に話題を転換した縁にリュグナーはほうと小さく呟いた。
天義と言えば、記憶に新しいのが『黄泉返り』事件だ。死者が一人で歩き出す――それは、死を後悔する者の許へと訪れたひとつの狂気のかたちであり、ひとつの『救済』だったのだろう。
冠位魔種ベアトリーチェ・レ・ラーテの手によって引き起こされた天義の一連の事件ではその身を反転させる特異運命座標が現れた事を口にしながらふと、リュグナーは縁をちらりと見遣った。
「黄泉がえり? へえ……それはあれかい。腐った屍骸が命を持って『墓場から起き上がる』って?」
「いいや。そんなもんじゃなかった。それよりももっと生々しい事だが……
生前の様に『生き返った』かのような死者たちが歩き回るだけだ。
嗚呼、それに――もう一度殺さねばならぬ狂気のアンテナであった彼らが死ねど土塊。
彼女(にんぎょう)達は本人ではないが、『本人であらんとするような』行動を繰り返していたな」
その言葉に縁の表情が僅かに凍る。酒の肴というには余りにも奇妙奇天烈な話ではないか。
グラスを見下ろして「そりゃあ怖ろしいこった」とグラスを揺らす手を僅かに止めた縁が目を伏せる。
その仕草、リュグナーは見逃がすことなく口角を釣り上げた。感情は深海へと収める様に肩を竦めて見せる縁の僅かな動揺――きっと、彼は隠したつもりだが情報屋は小さな変化にも気づいてしまったと些細な違いを確かめる様に唇を開いて――に「で?」とリュグナーは続けた。
「十夜。貴様には、生き返って欲しい者はいないのか」
その言葉に縁は「練達じゃ流行りのゾンビ映画ってやつじゃああるまいに」とジョークを交えて笑った。
「……リュギーこそ居ないのかい。
俺と違って商品の為に世界を渡り歩いてるんだろう。それなりに出会いもありゃ別れもある」
「さて、な」
今度は言葉を濁すのはリュグナーの方であった。自分自身の事を応えるのはどうにも彼は好まない。情報はギブアンドテイクだと言われても持ち得るものを出すだけで自身の事を詳らかにするつもりはない。
「十夜、貴様の中では世界を歩む事を美しい想像をしている様だが、ローレットの仕事は想像以上にハードだ。
片や幻想では市民が暴走し、片や離れた天義じゃ死者が蘇る。最近と言えば深緑の幻想種達を奴隷売買の胤にしているという話まで出ている」
「はっ! 物騒な世界だこって」
リュグナーが口にしたのは世界のあらましであった。縁にとっては『知り得ない』事ではないのだが、上手にシャットダウンし続けたそれは他人事のように聞く事が出来る。
「海洋が戦禍に巻き込まれたらどうする?」
「その場合は、まあ、家くらいは護るさ」
「狭い範囲だな?」
「……言ってろ。広々歩き回るのはおじさんには堪えるだろ」
冗談めかした縁に「貴様の海に爆弾でも落ちれば上がってくるか」とリュグナーも冗談めかす。
「その場合は爆発に巻き込まれて陸地に打ち上げられるんだろな。魚だってそうだ、ビチビチ息も出来ずにのたうち回ってるだろ」
「は。貴様がそうなる? 凡そ貴様ならビチビチのたうち回る前に爆弾を投げ入れた奴の所にいくだろう」
「買いかぶりすぎだろ」
笑みを見せた縁から浮かぬ感情を伺う様にリュグナーは相も変わらず口の堅い男だと認識した。
彼は此処迄冗談を交えて会話していても『自身の感情』や『自身の本音』は語らない。だからこそ軽口に応じ、軽口を叩くのだとも考えられた。
リュグナーはしかし、これこそ好機だと踏んでいた。きっと、彼は天義の話から目を逸らしている。先程よりも口が回るようになったところがそうだ、と情報屋のカンは告げていた。
成程、ならば、と一歩踏み込む様に「天義は収束した」とリュグナーは縁の横顔を見遣る。
「そりゃよかった。情報屋も一躍有名かい?」
「さて、な。事態は収束し、これから再建に向かうだろうが――気になるのは七罪だ」
「幻想のお嬢さんみたいなもんか」
「ああ。『強欲』のベアトリーチェ。大いなる業の女だというが……
その技能足るネクロマンシーは非常に興味深い。そうだろう? 中々見る事が出来ない」
屍骸を動かすのではなく死者そのものが蘇った様に踊っている様子など、禁忌中の禁忌でありお目見えすることはないとリュグナーは告げた。
縁はその言葉をじっとりと聞いている。手にしたグラスの中で氷が解けてからりとなったそれを聞きながら。
リュグナーの言葉を伺う様に「リュギーはどう思った?」と静かな声音で問い掛けて。
「愉快だ」
「そうかい」
「『またとない』事だろう」
死者の黄泉返りも、大いなる業の女も。
――そして、この秘密主義の男の感情を揺さぶれるという事さえも。
「大罪人たる七罪――『強欲』の女は失せた訳だが。
今後、そう言う事がないとも言い切れまい」
――死者が蘇る可能性。
そらは誰もが危惧し、白き都にとっての禁忌であっただろうが、死者が蘇る事こそ縁にとってはタブーであった。
背負った公開を思い返しながらもその感情を浮き彫りにしないまま「死者か」と口にする。
「近所のばあちゃんが蘇ってくるって考えりゃ、葬式に行ったことさえ可笑しなことに思えるな」
「ああ。見知った者が『生きているかのように振る舞って日常に戻る』というのはある意味で堪えがたい事だというな」
リュグナーの言葉に縁が片方の眉を上げて「と、いうと?」と興味深そうに伺かった。
彼が語るのは常に誰かの話だ。そう思えばこそ、エンタメ性に優れるというものだ。
「曰く、『死を受け入れたのに生きているとなれば、その気持ちすら反故にする』という。
死したという事実を否定して、死者と日常を送ることこそが彼らの精神の安定に繋がってるとなれば――」
「ああ、二度と手放したくない、か」
そりゃ道理だ、と縁は手を叩いた。よく見るラブロマンスなんかでも冥府に分かたれた恋人を取り戻すなんて話が見受けられる。神話や寓話でだって語られる事だ。人間の心理なんてものはそういう風に成り立っているのだろう。
――死した者が戻ってくる。
――もう一度、日常を繰り返す。
それは、絶望にも似た色をしているように縁は思えた。空になったグラスを見遣ったリュグナーが「次は?」と問うそれにメニューを眺めながら静かに息を吐き出した。
死者が戻ってくる。死者。繰り返し脳裏に反芻させながら縁ははあと息を吐いた。
「……そいつは、ぞっとしねぇ話だね」