SS詳細
おんぼろ杖と病の物語
登場人物一覧
優しい家族の匂いがする。
それは、触れる事ができない。
それは、色を持たない。
それは、言語化も難しくて、だからこそ思い出す事が出来ると嬉しい。
忘れてしまいそうになるのが怖い。
そんな匂い。
暖炉で蕩けるように赤い焔が揺らめいて、優しい祖父の声が物語を紡いでいた。
「病の子は、そのままにしてはおけない」
「病の声は人の声ではない。気がくるってしまうから、聞いてはいけない」
立派な体格の戦士たちが、燃えるひとみで剣を持ち弓を持ち、病の子を追い立てました。
魔法使いはその子を抱きしめて矢を受け、逃げました。
森の中、子どもと魔法使いが走っていると、大きな老木がありました。
木陰に身をかくす耳には、人々の声が聞こえます。
あの魔法使いは、力が弱い。
おれたちは強いから、恐れることはないさ。
子どもは震えながら魔法使いから離れようとしました。
「ああ、こんなにくっついては、いけません。
ボクは病気だから移してしまう。あなたはまだ助かるから、お逃げください」
病気は、とつぜん誰もが罹りうるものでした。
お散歩の最中に石に躓くようなものでした。
罹ると治ることはなく、傍にいる誰かにも、病の種を撒くのです。
病人は嫌われ、拒絶されて、退治される者でした。
生きていてはいけない、と谷に落とされたり、燃やされたりするのでした。
魔法使いはその子の肩をしっかり抱いて、おだやかに笑いました。
「走っていた足を止めたら、色々なものが目につくね」
ふたりの近くには、可愛らしいお花が咲いていました。
「ボクは、殺されるのが正しいのです。あなたとこうしているだけで、危険なんです」
子どもが言った時、声に気付いた人々がふたりを囲んで頷きました。
「そうだ。それはもう人ではない。ただの害悪だ」
「魔法使いにも、病気がうつったに違いない」
「ふたりとも燃やしてしまおう」
声を揃える戦士たちに、魔法使いは反論します。病人を人と呼び、命が平等で、彼らは悪くない、とおんぼろの杖をふって守りの魔法を使います。戦士たちは、笑いとばしました。
「あの魔法使いの首を切り落とした者を、英雄としよう!」
その身にたくさんの傷を負い、けれど魔法使いは病の子を守って、人々から逃げ続けました。
「人があなたに病という札をつけたから、あなたという人物は札に隠れてしまったね」
ただ、それだけなのだと語る魔法使いは、決して反撃をすることはありませんでした。
「力に力でぶつかって蹴散らしても、もっと強い力がやってくるだけなんだ」
どうしてそこまでするんです、と子どもは驚きました。
運命は変えられない。
誰も、認めてくれない。
世界中があなたを莫迦者だと笑うことでしょう――、
魔法使いはおんぼろの杖を天にかかげて、おごそかに言いました。
あなたが問いかけてくれるから、私は私を知ることができる。
人は、認められて褒められれば、本当に幸せになれるのか。
莫迦者だと笑う声はつめたいが、あなたの体温はこんなに優しくて、思いやりに満ちている。
このあたたかさは、幸せだ。
杖先をおろした魔法使いは、病人たちが捨てられた谷底に行こうと言いました。他にも生きている人がいるかもしれない、と。
「私たちは何処ででも、どんな風に言われていても、自分次第でいくらでも幸せになれる」
そこから、新しい冒険が始まったのです。
――その魔法使いの名は、リスェンというのだよ。
「わたし?」
「わしは、お前が優しい子であれと願ったのだ」
少女はその時はじめて、自分の名前が英雄譚の魔法使いに由来することを知った。
部屋の中に二人分の咳がつづく。寄り添う体温は、あたたかかった。
この後は枯れ細る一途だと思われる優しい手が未来の可能性を宝のように撫でる。真実、孫娘は彼の光だ。死に向かう生命の慰めで、彼の生が無駄ではないと思わせてくれる救いで、なにより可愛らしくて堪らなかった。
「わたし、その魔法使いみたいになりたい」
「おお、そうか」
掠れやすく、潰れやすく、時に痛んで休みたがる彼の喉が丁寧に紡ぐ。
それは、子供に向けられた創り噺。夢物語。
箱庭に空想を遊ばせて、叶わぬ希望に手を伸ばし、雲もつかめるのだと心を励ました。
●
乾いた風が頬を撫でて、空にのぼっていく。
躰が育ち、知識が増えて、心も変化したように思う。
祖父の墓に花を捧げて、リスェンは思い出に瞼を閉じて両手を絡め、爪先を擦るように組んだ。
花の香りは控えめで、けれど優しい。
さらさらと髪が流れて、大きな帽子の影が揺れる足元では羽リスが無邪気に転がりじゃれていた。
――わたしは、物語の中の魔法使いのようでしょうか?
祖父に問えば、屹度「もうなっているよ」と優しく撫でてくれるに違いない。
けれどリスェンは、もう自分の在り方を自分で問える年齢に育っていた。
――だから、この問いを抱えて今日も明日も生きていく。