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SS詳細

君に捧げる一輪の花

登場人物一覧

エドワード・S・アリゼ(p3p009403)
太陽の少年

●幻の花を求めて
「ここが深緑かぁ……」
 背負った荷物を担ぎ直しながら、エドワードは改めて自然の神秘を目の当たりにした。
「ほんとにすげー森だな」
 エドワードには、森で生きている何もかもが神聖に見えた。
 太陽の光を湛えた湖も、眠るように朽ちる丸太も、生き生きとした葉が茂る梢も、風にそよぐ一面の銀花も。
 全てが当たり前のようにそこにいて、エドワードに静かな感動を与えてくれる。
 薔薇色の頬の下で励ますようにペンダントが揺れた。胸元のそれを大切に握りしめ、エドワードはこれから赴く冒険への期待に胸をふくらませる。
「……よし。行ってきます!」
 背負った荷物を担ぎ直す。
 生命の循環と共に歩くような、そんな不思議な感覚を覚えながらエドワードは緑の世界へと足を踏み入れた。

 深緑のとある地方には、霊樹の魔力で育つ花があると言う。
 魔力が尽きれば塵と消える、そんな儚い花。
 故に与えられた名は脆性フラジール
 極稀に、フラジールの花は凝縮された高濃度の魔力を宿す。
「膨大な魔力そのものと化したフラジールの花は半永久的に咲き続ける、か」
 知るきっかけとなったのは、幻想の街で歌う吟遊詩人の一節からだった。

 嗚呼、久遠なる夢。不滅の虹。
 大樹の膝で微睡む、儚くも美しき護りの花、フラジールよ。
 天使の如き無垢なる香りは心を癒し
 玻璃にも負けぬ輝きは心を守護し
 彩なる天上色は幸運を齎す。
 嗚呼、柔風に薫るフラジール、清楚なる幻よ。

 エドワードが探し求めている枯れないフラジールの花は誰も見たことがない。
 しかし詩として残っている以上、完全に幻とも言い切れないと吟遊詩人は告げた。
『それにフラジールの花は聖獣が守っているからね。認められた者じゃないと花の場所まで案内してもらえないんだよ』
 内緒だけど君は見所がありそうだから、と吟遊詩人は酒に酔った顔で付け加え、これ美味しいねとエドワードの運んできた料理に満足そうに舌鼓をうっていた。

「はぁ〜〜〜〜」
 湖のほとりで足を投げ出し、木陰で一休みしながらエドワードは大きく声を出した。
「そう簡単には見つからねーよなぁ。幻の花だもんなぁ」
 森で見つけた野苺を摘まんで、疲労で乾いた喉を潤す。
 オレンジや濃赤に色づいた苺の味とすっきりとした酸味は濃厚なチョコレートケーキのソースに合いそうだ。
「ガトーショコラ、気に入ってくれたみてーだけど、もっと上を目指せると思うんだよなー。この苺、いくつか持って帰って研究してみっかなぁ」
 青空の下でそこまで考え、向上心溢れる菓子職人はいけねっと首を振った。
 今日の目的はそれじゃない。オレはウェイターじゃなくて冒険者。
 木陰で小さな白百合が揺れている。風に乗ってきた甘い香りが優しい記憶をくすぐった。
 エドワードがフラジールの花を探す理由は単純だ。

 相方エアへの贈り物プレゼント

 フラジールの花を選んだ理由も単純だった。
 その花が相方の魔力と同じ色エンジェルオーラクォーツを宿していると思ったから。
 吟遊詩人の証言を頼りに本を探し回り、ようやく深緑の植物図鑑の中からそれらしき花を見つけた時、エドワードの胸は高鳴った。その美しい花の挿絵と相方である少女の笑顔が重なったからだ。
「これ贈ったら、きっとビックリするだろーなっ。喜んでくれっかな」
 エドワードはそっと胸元のペンダントを取り出した。
 小さな太陽のペンダントはどんな時でもエドワードの勇気を奮い立たせてくれる、大切な相方からの贈り物だ。
 純粋さは時として金剛石よりも強い力を発揮する。
 膨大な魔力にも目も向けず、莫大な褒賞のためでもなく、ただ相方をほんのちょっぴり驚かせて、喜ばせるための返礼品。
 それだけの理由でエドワードは幻の花を探している。
「どこに咲いてんだろーなぁ。深緑なのは間違いねーし、大樹の膝で微睡むってくらいだから、でっけー木を探してたら見つかるかな? 結構時間かかりそーだよなぁ」
 白百合のような少女を思いながら、太陽のペンダントを空に向かって振り子のようにかざした。
 自分の名前を呼ぶ時の奏でるような微笑みを思い出し、エドワードはペンダントを仕舞うと自分の頬を叩く。
「いけねー、いけねー! オレが弱気になってちゃダメだよなっ。どうせならすっげー土産話ごとエアに持って帰って、楽しませてやらねーとっ」
 待ってろよ、フラジール!!
 そうやって、決意も新たに見上げた視線の先。一際大きな樹のてっぺんが青空に浮かんでいる。

「よっ、はっ、と。このでっかい木の根っこ、下まで続いてんのか」
 こんなに大きいのに、どうして今まで気づかなかったのだろう?
 木の枝や盛り上がった根を飛び移りながらエドワードは大樹を見あげる。翼を持たない者が頂上まで昇るのに果たして何年かかるのだろうか。考えただけで目が眩みそうだ。
「下はどんなふうになって……」
 あっと驚きの声を出した時には遅かった。
 前傾姿勢をとろうとした瞬間、体重を預けた靴底が苔に覆われた泥濘の上を滑ったのだ。体全体を覆った浮遊感にエドワードはぞっとしながら下を見た。ぽっかりと空いた穴は深く、終着点が予想できない。
「っわぁぁーーっ!?!?」
 ガサガサと小さな音を立てる衝撃が容赦なく全身を叩いていく。穴の中にも枝葉や根が生えているのだ。蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれらが鞭のようにしなってエドワードを打ち据えている。
 頭上で舞う若葉の雨や木漏れ日のダンスを楽しんでいる余裕など無い。
 直滑降、即ち命の危機。
 エドワードは片腕を顔の前に構え、何とか片目を開けた。天から射しこむ薄らとした太陽の光はまだエドワードを見捨てていなかった。片方の腕を伸ばし、目の前にぶら下がっていた木の根をつかむ。革紐のような弾力をもったそれはのヨーヨーのように弾んで、エドワードの自由落下を食い止めた。
「ふぅ、焦ったぜ……」
 安堵の息を吐いたのも束の間。汗をぬぐう間も無く、ミチミチと何かが引きちぎれていく嫌な感触がエドワードの手に伝わった。
「げっ」
 落下の衝撃を受け止めきれなかったのだろう。根の繊維が引きちぎれようとしている。
 エドワードは素早く辺りを見渡した。他にぶら下がれそうな根や枝はない。やや下の方に、暗闇に埋もれて巨大なうねりが見えた。
「蛇か!?」
 しかも相当大物だ。あの大きさなら、エドワードなど一口で喰われてしまうだろう。しかし握った木の根も限界だ。
「傷つけちまってゴメンな」
 彼は自分の判断を迷わなかった。つかんでいた根に謝罪を告げると手を離し、薄らと見えた足場に向かって跳躍する。
「うぉっ!?」
 蛇と思われたのは、黒々とした太い木の根であった。一本で滑り台ほどの太さを持ち、飛んできたエドワードの体重を荷物ごと受け止める力強さもあった。
 普段のエドワードならその巨大さに感動し、興味津々で観察を始めただろう。
 しかし、そうはならなかった。エドワードの靴底が再び彼を裏切ったのだ。
 いや、もしかしたら導いたのかもしれない。
「あっ」
 着地の瞬間、エドワードはバランスを崩した。樹皮に足を取られて滑ったのだ。そのまま強かにお尻を打ち付ける。
「またかよぉぉぉぉー-!?」
 痛みを感じている暇もなく身体が下へと落ちていく。悲鳴にドップラー効果がかかって遠くなる。
 エドワードは、地下へと続く強制ミステリーツアーへの覚悟を決めた。
 大自然が生み出した滑り台の安全性にケチをつけることもない。
 耐久性や到達点に不安もあるが冒険者なので「こういうこともあるよな、うん」と潔く諦める。
 暗闇の中を信じられないような高速でつるつると滑っていく。普段なら恐怖を感じる場面ではあるが、エドワードはこの地下へと続く道のりを楽しんでいた。
「どこまで続いてるんだろうなぁ……でっ!?」
 エドワードは背中に強い衝撃を受けた。
 暗闇に包まれていたため、根の終わりに気づかなかったのだ。あいてて、と涙目でさすりながら背負った荷物からカンテラを取り出す。装備一式と、ぐにゃぐにゃとした地面が緩衝材となったおかげでエドワードにダメージは無い。代わりに非常食用のビスケットが数枚、犠牲になっていた。
 ぼうと音を立てて紅茶色の炎が灯り周囲を照らす。上を見上げても太陽の光がない。ということは、相当下の方まで落ちて来てしまったのだろう。
「うおっ!?」
 柔らかな地面と思わしき場所を照らしてエドワードは叫んだ。
「何だ、これ……牛か? それとも亀?」
 それは甲羅を纏った、巨大な動物の皮だった。
 もしかしたら深緑特有の魔物かもしれないが、今のエドワードには判断するための情報がない。
 見分するように身体に手を当てていると、切り裂かれたであろう傷を見つけた。
 骨まで届く鋭い四爪。この巨大な牛亀に似た生物を絶命させる。そんな爪を持つ生き物が、まだ近くにいるのだろうか。
 飛び降り、観察を終えたエドワードはほっとした。この生き物は死んでから随分と時間が経っているようだ。肉が無い死体というのは珍しいが、この地下では何か理由があるのかもしれない。
「んおっ!?」
 エドワードに興味があるのか、それともそういう存在なのか。
 いつの間にかエドワードの周りには発光物が集っていた。よくよく見ればマリンスノウに似た小さな粒子だ。それがふわふわと漂っている。
「どっから来たんだ?」
 エドワードが触れようと指を伸ばすと、ビックリしたようにパッと散る。
 しかし残りの半分はエドワードに興味があるのか、一定の距離と時間をおいてはフワフワと後をつけてきていた。
「ははっ、かわいいヤツらだな」
 少なくとも生き物が生息できる環境であるようだとエドワードは安心する。
「ここ、洞窟だよな?」
 確かめるように触れた岩壁は湧水で湿っており、細い木の根が模様のように絡まっている。大樹の下に広がる洞窟という冒険心をくすぐる状況にいても、エドワードは冷静さを手放さなかった。
「取り敢えず水を確保しねーと」
 自然に生まれたであろう水の路を見つけたエドワードは辿っていこうと決めた。

●不思議な地下世界
 洞窟の闇に慣れてきたエドワードの目は、マリンスノウたち以外にも驚くほど様々な生き物を見つけた。
 ふわふわと空中を浮かぶクラゲのような生き物もいれば、細いシダの葉が壁付け燭台のように岩肌から生えていることもある。
 真っ白な巨大蟻と視線が合い、どちらともなく頭を下げてすれ違った。
 不思議なことに、出会う生き物はどれも薄ぼんやりとした寒色の燐光を纏っていて、蛍のような明るさを保ちながらエドワードの視界を照らしては、別の何かと入れ替わるように消えていくのだ。
「挨拶でもされてるみてーだなぁ」
 これらの邂逅をケラケラと笑い楽しめるのは、心の強いエドワードならではと言えた。
 たった一人で見知らぬ洞窟に落ち、それでも希望や明るさを忘れない心というものは、それだけで武器となる。
 華奢な外見を持つ彼ではあるが、その心の臓は根っからの冒険者気質なのだ。
「……ん?」
 洞窟の突き当りから光が零れている。
 よくよく観察してみれば、発光する生き物たちはその光の先から気まぐれにやってきて、風の流れに乗ってその光の中へと帰っていくようだった。
 エドワードはカンテラの灯りを消した。空いた両手を数度握っては離し、何が起こっても良いように括りつけた愛用の盾の位置を確認する。
 強い光に目が眩んだのは一瞬の事。目の前の光景にエドワードは言葉を失った。
 建物ほどもある巨大なキノコに古代種を思わせるゴツゴツとした植物。
 一斉に飛び立っていった白い鳥のような生物には目が無く、代わりに触覚のような長い羽根が生えている。
 先ほどまでの一本道も驚くべき出逢いに満ちていたが、この空間はその比ではない。
「な、なんだ、ここ……」
 言うならば自然が作り出した巨大な生命のドームだろうか。
 そう表現するのが相応しいようにエドワードには思えた。
 ちょろちょろと流れていた水の細道が幾筋も重なり、いつしか立派な水路となっていた。その傍らをエドワードは歩いていく。
 水晶のように澄んだ水辺には見た事もない草や虫ばかりだ。コケケケケと聞こえる奇妙な音は何かの鳴き声か。それとも悪戯妖精の笑い声か。
「本当に地下、だよな?」
 疑問を聞きとめる者はいない。答える者もいない。けれども口に出す事で、すとんと自ら放った疑問を飲み込むことができた。
 何よりも不思議なのは、この場所がほとんど外と変わらぬ明るさを保っていることだった。
 その明るさを放つ天井は巨大な円蓋で覆われている。
 否、自分は光を放つ巨大な樹木の根の中にいて、下から見上げているのだとエドワードは気づいた。
「でっけぇマングローブみてーなもんかな?」
 根が発光する植物など聞いたこともないが、この場所の異質さ、巨大さに比べると些細な問題に思えた。
 天井を支えるように岩面を走る盛り上がった柱は張り出した根か。
 一本の根がこんなにも大きいのなら、上にある幹の太さは如何ほどか。

 外と同じように自然があり、外と同じように生き物が暮らしている。
 この時のエドワードの頭からは帰り道のことや、フラジールの花のことは抜け落ちていた。
 ただ純粋に、自然の不思議に感動していた。
「よっと」
 背丈よりも巨大なゼンマイやワラビを足場にしてエドワードは青いキノコの上へと飛び登る。
 すると柔らかなカサに足がめりこみ、ぼふんと音を立てて胞子の代わりに綿毛が外に飛び出していった。
「ははっ、おもしれー!!」
 先程見たクラゲのような生き物は綿毛の胞子だったのか。知っているようで知らない世界にエドワードは夢中になった。
 にゃあと鳴く三角耳のついた魚に、鈴のようにリンリンと鳴るブドウ。
 地上から見た景色は白や翠、黒ばかりだったが、キノコの上から見下ろした景色はもっともっと鮮やかだ。
「あっちには何があるんだろ」
 キノコから飛び降りた先には六角柱の色彩が固まっていた。
 水晶の迷宮というよりも、水晶の森といった方がしっくりとくる。
 地面から生えている柱状結晶は色も大きさも様々だ。苔玉と見間違うほど小さい物から、巨大な紫焔と見間違うほど巨大な物もある。
 風が吹く度にグラデーションの濃さを変え、風の通り道にホルンに似た美しい調べを鳴らしていた。
 近くで、ごうごうと鳴る水の音を捉え、エドワードはそちらへと足を向けた。
「キレーだなぁ」
 乳白の水晶柱に鮮やかな火色がちらちらと過ぎる。
 それが自分の髪色を映しとったものだとエドワードが気づくまでに、少しの時間がかかった。
 三メートルはあろうかという滝壺はネモフィラの花のように美しい青を湛えていた。
 周囲に生えるアロエのような肉厚の葉には色が無い。しかし滝の水飛沫を浴びると、磨り硝子のような透明な葉は橙に染まった。その度にぽん、ぽん、とスティールパンに似た不思議な音で歌っている。
 滝の傍で幻想的な自然の音色に聞き入っていたエドワードは、背後から近づく黒い影に気がつかなかった。
「グルァァァ!!」
「!?」
 穏やかな空気を一瞬で麻痺させる獣の咆哮。咄嗟に、エドワードはその場から大きく跳躍した。
 その判断は正解と言えた。切り裂かれた草が宙に舞い、青草の汁が辺りに点々と散らばる。
「わっ、わっ」
 それは獅子のような鬣を持つ、白い巨獣だった。白濁し、血走った藍色の目はエドワードへの敵意で満ちている。
 四連の黒爪が宙を薙ぐ度に、長い鬣が白煙のように左右に揺れる。
「ちょっ、まっ、落ち着けって!」
 バックステップで距離を取ろうとするエドワードを鋭い風刃が追いかけた。
 何もしねーよと突き出したエドワードの掌を無視して、獣が突進する。
「うわぁっ」
 返事をする代わりに、苛々とした獅子の片眼がエドワードを捉えた。朽ちた老木を粉砕した剛腕が、のしり、とその向きを変える。
「オレはっ、花をっ、探しに来ただけ……でっ!」
 エドワードは逃げ続ける。致命的な傷は回避し続けているが、代わりに皮一枚を抉った掠り傷が増えていく。
 ピリリと鋭い痛みは獣から受けたものだけではない。落下した際に打ちつけた腰や肩のダメージも、まだ完全には癒えきってはいないのだ。
 じりじりと後方に追いやられていると理解しながらも、それでもエドワードは獣に語りかけることを止めなかった。
「オレは、お前の敵じゃねぇんだって!」
 こいつを攻撃すべきではない。
 理由は分からないが、エドワードの直感がそう告げている。

●出逢いと別れ
 ならば相手が冷静さを取り戻し、こちらの話に耳を傾けてくれるまで待つべきだ。
 普通であれば獣と人間が言葉を交わす可能性は零に等しいだろう。それでもエドワードは荷物に結いつけた太陽の盾を手に持とうとはしなかった。
 ここまでの冒険に耐えてきた四肢が、疲れを思い出し痺れ始めている。
 エドワードの様子をさぐるように獅子の黒尾がゆるりと持ち上がる。
 そこに存在したのは白い双眸、エドワードの太腿ほどもある巨大な蛇だった。獅子と同じように威嚇音を発しているが、その音はどこか弱々しい。
 違和感。それが何だか分からないが、無視するべきでは無い。エドワードは後ろにもう一歩踏み込もうとして。
「しまっ」
 踵に固い感触が当たった。背に岩壁が当たる。
 いつの間にか逃げられない場所まで追い詰められていたのだとエドワードは悟った。
 恐らく左右どちらに逃げたとしても、あの巨大な爪の速度からは逃れられないだろう。黒い影が頭上を覆う。
 白い獣は自分を踏み潰す気でいるのだ。
 エドワードは腕を頭上で交差し、振り下ろされる爪撃の衝撃に備えた。

「……、……?」
 しかし。
 いつまで経っても覚悟していた衝撃が来ない。
 エドワードは恐る恐る目を開けた。
 獣は倒れていた。
 ぜいぜいと荒い息を吐く姿には今しがたまでエドワードを追い詰めていた荒々しさなど欠片も無い。
「なんだ、お前」
 今にも風に飛んで行ってしまいそうな、弱々しい生命の炎が、今まさに消えようとしている。
「どっか体、悪いのか……?」
 エドワードは一歩、獣に近寄ろうと足を踏み出した。
「グ…ルッ」
 獣は頭をもたげて牙を剥く。
 だが、その怒りと憎しみと、警戒のこもった視線を受け止めた時、エドワードは決意した。
 この獣は、きっとここを護る王さまなんだ。
「怪我したヤツを放っておけねえよ。ちょっと、見せてみろよ」
 差し出した掌に、頬に、血が滲む。
「痛っ!」
 エドワードの二の腕を黒爪が深く抉った。その時始めて、獣はひるんだような声を出した。
 それは自らの行いに対してか、傷つけても揺るがぬエドワードの信念に対してだったのか。
「……大丈夫だって。変なことしねーから」
 痛みを見せず、にぃっと笑った顔の中に獣はちいさな太陽を見た。
 エドワードは知らないことだが、地下で育ったこの神獣は太陽を見た事が無い。
 だが知識として知っていた。憧れていた。
 幼き頃、この場所を訪れた耳の長い種族に教えてもらった。
 あれの歌を獣は好んだ。あれの運んできた匂いが獣は好きだった。
 そうだ、太陽の匂いだ。地上の匂い。
 濁った視力ではもう見えないが、この子供からは太陽と同じ……いや太陽に愛された匂いがする。
 獣が腕を下したのを見て、エドワードはその意味を正しく受け止めた。
 すぐさま立ち上がると獣の傍に膝をつき、異変を探し回る。
「ひでー切り傷だ」
 そしてすぐに見つけた。
 元からあった深い傷が化膿したのだろう。
 どうしてあれだけ動けたのか、何故生きているのか不思議なくらいの傷だった。
 強いこの獣に深手を負わせた相手が此処に居るのだろうか。
 エドワードはクッションとなった牛亀の死体を思い出していた。
 あそこに残されていた傷跡と、この獣の爪痕はよく似ている。
「確かバッグの中にとっておきの薬草があったよな。これで……」
 薬草を石ですり潰し滲んだ汁を傷へと塗る。獣はぐぅ、と苦しげに鳴いたがエドワードの手を払い除けようとはしなかった。
「しみるのか? そうだよな、もうちょっとの辛抱だからガマンしてくれよな」
 全部の薬草を使って傷口をすっかりと覆い、巨体をぐるぐる巻きにしたおかげで予備でもってきた包帯まですっかりと無くなってしまった。だがエドワードは満足だった。
「よし。これで良くなる筈だからしばらく大人しく……って、どこ行くんだよー!?」
 のそり、と巨体を持ち上げた白い獣は先ほどよりも老いて見えた。
 その眼差しから獰猛な光は抜け落ちている。しかし達観した識者にも似た鋭い眼差しが、擦り傷に塗れて血が滲んだままのエドワードを観察していた。
 この老いたる獣は最後の力を振り絞って襲い掛かってきたのだろうか。

 ――着いてこい。

「えっ、いま喋っ!?」
 エドワードの声が聞こえているのか、いないのか。のそのそと壁伝いに歩いていくと、二メートルほどの岩穴が見えた。
「なぁ、なぁってば。ここがお前の家なのか?」
 獅子の頭は答えず、エドワードを一瞥すると身体を屈めて穴の中に入ってしまった。
 蛇の尾は、ついておいでと言うように小さくエドワードに頷いている。
「お、おじゃましまーす」
 暗いのは一瞬だけ。すぐに全身を打ち付けるような痺れが全身を奔った。
「……ここって」
 輝く白の世界がエドワードを迎えた。
 その色は全て白い花によるものだった。
 花弁どころか茎も葉も水晶のように透き通った、天使のように美しい花が一面に咲いている。
「ここに咲いてんの、全部フラジールの、花……? こんなにたくさん……」
 呆然と呟いたエドワードの背中を生暖かい何かが押してくる。
「わ、ちょ、押すなって!」
 エドワードの静止の声など聞こえないかのように、白い獣はぐいぐいと湿った鼻でエドワードを押し、一際美しく輝く一輪の前へと導いた。
「これって」
 儚くも美しき護りの花、フラジール。
 月虹色に輝く花の前に吟遊詩人の歌が浮かんだ。
「オレにくれんのか?」

 ――好きにしろ。地上には向こうの壁から出られる。

「やっぱ喋れるんだな!?」
 白い獅子はプライドが高いのか、エドワードの質問からフイと顔を逸らした。その後ろで蛇の尾が優しく一度頷いてみせる。
「はは。これであいつにも胸張って贈り物……って、おい。急にどうしたんだよ?」
 獣は輝くフラジールの横で身体を丸めた。面倒くさそうに残った片目の瞼を持ち上げると、深い深い溜息を吐く。蛇の尾も器用にくるりと丸まると、満足そうに花畑の中に身を横たえた。
「眠いのか?」
 エドワードはすっかり萎びてしまった老獣の鬣を撫でてやった。白くて柔らかく、細い。獣は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「でもさ。せっかく仲良くなれたんだ。もうちょっと話そうぜ」
 エドワードは聞きたかった。知りたかった。
 この場所のこと。この片目の獣のこと。
 仲良くなれたのだから、もっといっぱい知りたかった。
「なあ」
 呼びかける。
「なあ……」
 獣の寝顔は静かだった。
 
 エドワードは黙したまま、獣の傍らに座って撫で続けた。
 まだ温かい。擦ってやれば、また目を覚ましそうだ。
 鼓動を失くした身体に寄り添う。
 風が吹く。
 フラジールの花は魔力が尽きると塵のように消えると言う。
 それは半分正しくて、半分間違いなのだろう。
 常春の森に暖かな雪が降る。白銀の燐光が獣の体に集い、桜花ように風に溶けて崩れて逝く。
 何れ時間をかけて、この巨体も大樹に還っていくのだろう。
 エドワードはフラジールの花の色と、獣の体色がよく似ている事に気がついた。
 あぁ、だから咄嗟に攻撃できなかったのか。
 慈しむように微笑んだ。せめて名前だけでも聞いておけば良かった。


「この花」

 両手で握りしめた儚き久遠フラジール
 古き護り手から託された花はこれから外の世界へと旅立つのだ。
 少年は老いた霊獣に別れを告げる。

「……ありがとな」

 どうか良い夢を。


  • 君に捧げる一輪の花完了
  • NM名駒米
  • 種別SS
  • 納品日2022年02月25日
  • ・エドワード・S・アリゼ(p3p009403
    ※ おまけSS『繊細な花の愛で方』付き

おまけSS『繊細な花の愛で方』

・イメージ風景
冒険、白い花畑、木の根で出来た洞窟、硝子の植物園

・イメージ楽器
ピアノ、スティールパン、アコースティックギター

・イメージ宝石
エンジェルオーラクォーツ/ムーンストーン/ロッククリスタルの

・霊獣
鵺/ヤーヌス
白い獅子と黒い大蛇
頑固爺と好々婆
力と知恵
霊樹の守護者

・牛亀
霊獣に傷を負わせた相手
数年前に地底怪獣大決戦が行われていた






 此処から先は蛇足の話じゃて、知るも知らぬも、信じるも信じぬもお主の自由。
 ほっほ。儂の場合、蛇の足ではなく蛇の尾じゃがの。
 あの小僧がどんな噂を聞いてやって来たのかは知らんが、フラジールの花は霊樹の魔力が花の形に結晶化したもの。
 植物とは似て非なる存在よ。
 この場所に偶然着いたと言うておったが、恐らく運命が小僧を選んだのじゃろう。
 常春に訪れた冬は、儂らと霊樹を酷く痛めつけた。
 神獣たる儂の傷が回復しないのも、霊樹が枯れるのも、寿命が来たにすぎぬ。
 いかに長寿とは言え、植物は永遠に生きられぬ。
 だから小さな太陽よ。どうか気に病んでくれるな。
 
 しかしの、フラジールは違う。
 あの子は霊樹の種。まだまだ若い。
 生まれた時から空を知らず、太陽を知らず、偽りの風しか知らぬ哀れな花よ。
 小さき冒険者よ。どうかあの子に外を見せてやっておくれ。
 まだ見ぬ風竜の子よ。どうかあの子をよろしく頼む。
 さて、儂もそろそろ眠るとしよう。あんまり遅いとあの人が拗ねるでな。

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