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染み付いた顔
登場人物一覧
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その日はギルドの仕事もなく、特に急ぎの発注がかかっていたということもなかったので、なんとはなしにぽっかりと予定が空いた日となった。
店は開けてあるのだが、朝から客の脚はひとつとして見当たらない。半ば開店休業の有様ではあるが、かと言って役割を放棄するわけにもいかず、売棚の整理を始めたのだ。
腕を伸ばし、自分の頭よりも高いところにある紙類の並びを変えようとしたのだが、そこで右手の甲に硬貨よりも少し大きい程度の色染みを見つけた。
インク棚を片付けた際に付着したのだろうか。それは打ち身痕のような青紫をしており、大小の丸がふたつと歪な直線で出来ていて、下手な顔の絵のようにも見えた。
紙類を相手に塗料が零れていては商品が台無しになってしまう。腕や衣服を確認したが、他に付着した様子はない。念の為に棚の方も確認したが、こちらも問題は見当たらなかった。
どうやら付着したのはここだけのようだ。手の甲を確認する。そこで、小さな違和感を覚えた。先程見たよりも、少し手首に近くなっている気がしたのだ。左手で擦るが、インクが落ちる様子はない。これは石鹸を使う必要がある。
ひとまずはインクを落とすよりも、零れたのであろうインク棚の確認を優先することにした。どの道、そちらの具合如何によって汚れはこれだけで済まないのだから。
しかし、インク棚を見ても綺麗なものだ。インク壺のひとつひとつを手にとって確認したが、零れているものも、蓋が開いているものも見当たらなかった。
では、この色染みは一体なんなのだろう。もう一度眺めようと手首に目をやったが、おかしい。染みが見当たらなくなっている。
まさか左右の手を間違えたはずもなく、手首をくるりと回したところ、肘の裏側あたりにその染みがあった。
(移動している……?)
インクではなく、生物のようなものなのだろうか。しかし軽く爪を立ててみるものの、反応はない。強く擦ってみても、自分の肌が痛むだけだった。
こうなると、これが何か良くないものなのではないかという懸念が大きくなってくる。顔のようだと感じていた染みが、これは本当に顔なのではと思えてくる。
痛みはないため、本能的な危機感が湧き上がってくることはない。しかし何者かからの悪意ある攻撃であった場合、その認識は危険極まりないものだ。
ひとまず、念を入れてギルドに相談するべきか。天井を見上げて対策を思案する。顔を戻すと、今度は二の腕にまで移動していた。
手の甲から手首へ、手首から肘へ、肘から腕へ。
(狙いは脳か心臓……?)
確信はないが、そうなると多少なりとも不安を掻き立てられてくるものだ。自分だけでは対処できない。一般的な医者も効果はないだろう。早急にギルドへ相談しなければ。姫様は何処にいらっしゃるのか。今すぐにでもかけつけてかの方を――何だ今の思考は。
目眩を感じて頭を振る。今明らかに思考が異常なものか。騎士として姫をお守りするのは当然の責務である。卑劣な裏切りに会いはしたが、忠誠が失われては感情をおしこめる。色染みは首にまで移動している。
(意識が乗っ取られて、いや、混ざり合って……?)
最早誰それに相談している時間もない。一刻も早くこの色染みを除去し、姫様をお救いせねばならないのだ違う。自分は誰かを認識しろ。古木・文、王国に忠誠を誓った違う。染みはもう頬まで到達している。売り物のガラスペンを手にし、染みへと突き刺した。二度三度。痛みは自分に帰ってくる。しかしこれしきのことで忠誠が失われるわけではない。傷口を指で刳り、染みの付いた皮膚を剥がした。
赤いもので埋め尽くされているはずなのに、剥がした皮膚の染みだけが鮮明に見えた。顔が言う。姫をお守りするのだと。不揃いな表情を蠢かせて必死の様相で何かを訴えている。
ぐらりと回る景色。足元がおぼつかなくなり、そのまま転倒する。視界がぼやけ、それ以上の認識を拒否するように意識は失われた。
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「店員さん、店員さん」
誰かに声をかけられて、意識を取り戻した。軽い頭痛がして、思わず目頭を強く抑えてしまう。
「大丈夫かい?」
見れば、声をかけてきたのは客のようであった。二度、三度見たことがある。リピーターというのはありがたい限りだ。
問題はないことを伝えて、要件を確認する。はて、自分はどうして椅子で寝ていたのだろうか。ぽっかりと空いた時間であったから、日頃の疲れが吹き出てしまったのかもしれない。
何か忘れている気もしたが、寝起きのせいだろう。まだ脳が覚醒しきっていないのだ。
「あれ、店員さん」
客が何かに気づいたような声を出した。その視線は自分の目よりも、少し上に寄せられている。
なんだろうと、首を傾げていると。
「変な染みがあるね。打ち身かい、それは?」