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目を閉じても道しるべは香る
登場人物一覧
冷えた空には、無数の星が瞬いている。
透き通った空気に揺らめく星々の光。ヴィーザル地方の空だ。息の詰まるほど美しい光景だとラグナル・アイデ (p3n000212)は思う。
この景色を知るものは少ない。そもそも、こんな辺境の地に来るほどの物好きなんてのはめったにいない。
なんたって、この大地には例えば鉄帝国が欲しがるような、豊かな資源なんてものはない。ただ、必死に身を寄せ合って生きている人と獣がいるだけで、よそ者にとってはつまらない場所に違いない。
だから、ここに来る人間は、内情を探りに来た敵だと思え……。
割と最近まで、心底そう思っていたような気がする。
『月香るウィスタリア』ジルーシャ・グレイ(p3p002246)はその例外。
つまり、ここまでやってきて、さらにはラグナルを友人と呼ぶ人物の一人だ。最初のうちはずいぶんなお人好しだと思っていた。けれども、いつしか、手助けを得るうちにラグナルもジルを友人と思うことにためらいはなくなっていた。
ラグナルがたき火のために枝をナイフで削るのを、ジルは面白そうに眺めている。
「面白いか、これ?」
「ええ、とても面白いわよ」
「……こんなことしなくても、”精霊さん”に頼めばすぐじゃないのか?」
「ふふ。せっかくアンタが火を起こしてくれてるんだもの。わざわざ精霊にお願いしたりはしないわ。精霊を、手足のように使ったりはしないの……ラグナルならわかる? どうかしら」
ジルの思慮深い目がこちらに問いかけている。
その目を見ると、いつもラグナルは胸が詰まる。というか、回答に窮するというべきか……。
さあ、俺は分からないよ、あんまり考えてないから。そう言ってしまうのはとても簡単だ。ジルや彼らと出会う前は、それでだいぶ済んでいたと思う。
ジルのそれは無制限に甘えを許すものではなく、あるいは失望するような色もない。あくまでも「アタシはこうよ、アンタはどう?」と投げかけるものだ。
まっすぐなジルがなんとなくまぶしくて、手元に目線を下ろす。それでもふわりとジルの香りが追ってきた。それだけで、安心するような匂い。
いや、きっと。そうしてくれている。服装を纏うように香りを纏って。気がつかないほどにごく自然に、どれだけの手助けをしてくれているのだろう。
見返りなくヒトを助けるモノはいない。
父親の教えだ。
だから、なにを差し出しているかに注意しろ、と言っていた。それは金、時には権力、あるいは恩や信頼であったりする。
「精霊を、ただ、じぶんがラクをするために使ったりはしないわ」
「……」
「でも、もしもアンタが凍えていたり、必要があったらお願いするでしょうね。……わかるかしら」
「……なんとなくは」
「ふふ」
羽毛のように毛羽立たせた小割の薪は、良い着火剤となった。
たき火の火が、複雑な色合いを持つ紫の先を輝かせていた。
例えば、一緒にいるベルカたちは、言うことをきくがパシリではないのだ。飲み物を持ってこいとか、そういうことは頼めば可能ではあるだろうけれど、しようという気にはならない。
狼がやることは、狼がやる必要があることだ。それは、狼でなくてはならない……。例えば早く雪原を駆けることであったり、獲物を仕留めることであったりする。
……たぶん、そういう感じのことを言っているのではないか、とラグナルは勝手に理解した。
ラグナルが狼に差し出すのは命令と信頼、主と従の関係。頼りがいのあるリーダーであれば、彼らに認められて、共に生きるコトができる。
たき火の中で枝がはぜ、パチパチと燃えていた。ベルカは寝そべって、時折相づちを打つように耳をピクピクさせている。
ストレルカは……寝ていた。
コイツらは交替で見張りをするから、どっちもリラックスした状態になんてのは、普通、ならない。だからこれはどこまでも
「今日はとっても寒い日ね」
ジルはなんてこともないように微笑んでいた。
自分が、よそ者と一緒に、よそ者の前で、武器も置いて、単に話している。それがものすごく不思議だ。もしも彼らに出会う前の自分だったら、……そう。いつ首を掻かれるかと警戒していただろうし、ポットから淹れてくれた飲み物だって下手には飲まなかった。本来はそういう人間だったはずだ。
「美味いな、これ」
ラグナルは、自分の見る目には全く自信を持ってはいないが、狼は別だ。
彼らは雄弁に物事を識る。コイツらは、匂いというもので、出会ったことのないものを見ている。
雄なのか、雌なのか。体の大きさや、敵かどうかですら、その痕跡からたどってみせる。
だから、初めて会ったとき。助けを求めるように彼らと自然と共闘してみせたのには驚いた。そして今になって思うのだ。やっぱり、コイツラの見る目は間違いがない、と。
それに比べたら、自分はまだ肩の力が抜けていないような気もした。信頼していないわけではない。ここで生き抜くために、長年の間に身につけてきた癖だった。
武器を手放すな。油断をするな。いつでも、裏切りの口はそこにある。カップを持ち上げたときに、かすかに緊張が走ったのを気取られただろうか。……でも、信じたい。少なくともそうしたいと思っている。
匂いは、感情すら現すのだという。だとすると、ジルには分かってるんだろうか。自分がものすごく臆病で、そのくせ、彼らが好きで。イレギュラーズを見ていたら、ちょっと背伸びしたくなってしまうようなところを……。
「ジルはさ、兄貴に少し似てるよ」
「あら、そう?」
「あ。悪い。男に似てるって言われても嬉しくないよな」
「……言っておくけど、この喋り方は趣味とかじゃないわよ? これは職業柄!」
「あ、そうなの?」
「そうよ。こんな仕事だから、「香術師」っていうのは、女の人がなる事が多いのよ」
「へぇ~」
「アタシは、アタシの心に嘘をつきたくないもの。性別とか周りの目とか、そんなこと気にして自分が本当にやりたいことができないなんて、勿体ないじゃない?」
「ジルはすごいな……」
心から出た感嘆だった。
「そういうところ、兄貴に似てるよ、やっぱ。こう、やりたいことあって、余裕もあって、誰かに手を貸してて」
よくできた兄に抱いているちっぽけな劣等感とか、それでも良い奴だった兄に対する憧憬。言い表せないような感情が渦巻いているはずだが、いったい、どういうものなのだろうか。
けれど、ジルはラグナルが、「そう、褒めてる」というと「そうなの」と言って引き取って、心の奥底を言い当てたりしない。ただ「ありがと」と言って、受け取ってくれる。
「きょうだいってどんなものかしら。アタシには、兄弟子とか、そういうのはいたけれどね。想像してみることもあるわ」
「一人っ子なのか?」
「どうかしら。アタシね、孤児院で育ったのよ」
「……そうなのか」
「そうだったの」
つらそうな気配は見えない。穏やかな表情が浮かんでいるだけだった。悪かった、と謝るのも違う気がした。
ジルは、人の不幸を天秤にかけたりしないんだろうな、と思う。きっとそんなジルだから、狼たちは『好き』なんじゃないだろうか。
そうだな、俺もコイツが好きだ。
「アンタには、いろんな世界が見えてるんだろうな」
狼たちみたいに、たくさん見えるというのは。ヒトよりも鋭い感覚で、いろいろなことを知って……知ったとして、それをヒトの為に使う気になるだろうか。ラグナルは、自分だったらどうしようもなくなるような気がする。それでもなお従い、尽くそうとする狼の気持ちが、ラグナルにはまだわからない。
「目を閉じて、想像してみて」
言われたとおりにしてみた。
ぱちり。警戒するような匂いが発せられる。目を開けると、たき火の色が変わっている。ありがとう、とジルが精霊を返した。
「アタシが使う香術……っていうのはね香りを作って、その香りを精霊が気に入れば彼らによって魔力が付与され、ただの香りではなく「魔術」を引き起こす香りとなる――そういう仕組みなの」
ふわりと漂ったのは柑橘のような香りだった。ぷし、と狼がくしゃみをして、シャボンが弾けるように、香りは消えた。
「その「精霊が気に入る香り」を状況に応じて瞬時に判断し、正確に調香できる術を持っているのが「香術師」」
狼たちが不意に立ち上がる。
「あれ、どうした!? ジルだぞ」
「ああ。違うの。この目に反応したのね」
「目? 隠れている方の目か」
「ちょっとだけ、精霊たちに好かれやすいの」
それで、ラグナルが察したのは、決して精霊にお願いして、叶えて貰うというような生易しい関係ではないということだ。精霊に気に入られるのは――おそらく相当に難しいのではないだろうか。ジルが平気で、自然に使用しているそれは、おそらく恐ろしい崖っぷちのうえにあるものなのではないだろうか――。
「……」
気に入れば手を貸して貰える、というのは、気に入らなければ手を貸して貰えないということだ。儀式と結果。魔術の仕組み。ジルが当たり前にやってきたことは、ジルでなくてはできないことだった。あまりに簡単に見えていたけれど。
「精霊たちだけじゃないの。だからね、寄ってくるコたちにヘンなのがいないか、心配したんでしょう。ね。ありがとう」
ぽんぽんと頭を撫でられる狼たちは、既に警戒を解いていた。
「なあ、ジル」
いったいどれほどのモノを背負っているのだろうか。途方もないものに思えた。
「アタシは、話したいことを話しているわ」
「なら、いいんだ」
「ラグナルの話を聞かせて?」
見返りなくヒトを助けるモノはいない。
(……タダで助けられてるばっかりじゃ、ちょっとかっこ悪いよな)
もし強い男になれたら、いつかは……ジルの力にもなりたいものだ、とラグナルは密かに思った。
おまけSS『もしもし、ちょっとおたずねします。』
ノックがもしもし、を示すように、身振りが合図となるように、匂いにもことばというものがあるのなら。
ジルから最初に香った香りは、狼たちにとっては、「もし、ちょっといいかしら」、という感じだっただろうか。
――もしもし、ちょっとおたずねします。
そういう「匂い」を嗅ぎ取って、おや、と狼たちは顔を見合わせた。
そもそもこれは自分たちに向けたものだろうか?
いや、そんな例はない。
だいたい、匂いというのはそれ自体がメッセージであるから、「もしもし」、なんて、いったんわざわざ呼びかけるようなことはない。「これ以上近寄るな」だとか、そういうのはあるけれど、こっちの反応を一回待って、良いかしら、と前置きするのはかなり礼儀正しいことである。いや、そもそも不可能なのだ。通常ならそれ以上返事をすることもできない。警戒を緩めて聞き入る姿勢を見せると、シグナルは次のように変わった。
――アンタたち、今、困ってる?
この発見に狼たちは一発目から感じ入っていたわけである。
匂いでの対話。
匂いでの挨拶。
そんなことをやった人間は、未だにいない。
きちんと挨拶をかわしたのだから。信頼しないという手はなかった。単に、敬意を払われた分、敬意をお返ししているというまでである。