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ただひとつの花よ、どうか
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まだ、ジョシュアがイレギュラーズになる前のことだ。
とある街はずれにある小さな家の前で、ジョシュアはゆっくりと息を吐いた。力の入りすぎた拳を一度開き、軽く握りなおす。そうして、静かにドアを叩いた。
自分の人生を振り返ると、ひとりで過ごしているときのほうが多かったように思う。多くの者がジョシュアの持つ毒を恐れ、近くに寄ろうとはしなかった。だから、誰かと親しくなる機会なんてものもほとんどなくて、その機会が巡ってきたとしても、いつか避けられてしまうのではないか、聞きたくもない言葉を浴びさせられるのではないかと、不安に思わなければならなかった。
「こんにちは」
どうせ、好かれない。この依頼主も、いつか自分を避けるようになるのかもしれない。その時は仕事だからと言い聞かせて、苦しみを誤魔化してしまうしかない。お金が必要で依頼を受けているのは事実だ。決して、自分に嘘をついていることにはならない。
「君が、依頼を受けてくれた」
ゆっくりと開けられたドアから顔をのぞかせたのは、一人の女性だった。腰まである白い髪が、ふわりと風に吹かれる。重たそうに身体をドアに預けて、彼女は朗らかに笑った。
彼女は、コケモモの精霊だと聞いていた。だから、その鮮やかな赤い瞳が覗いたとき、コケモモの赤い果実を思い出した。
「ジョシュアです。よろしくお願いします」
「エリュサよ。よろしくね」
エリュサの纏う雰囲気は、明るく優しい。その微笑みもまたこちらを照らすような眩しさがあって、ジョシュアは再び息を吐いた。
この人なら、自分に優しくしてくれるのかもしれない。そんな淡い期待を抱いていることには、まだ気が付かないふりをした。
「ジョシュ君が来てくれて助かったよ」
ジョシュアの仕事は、エリュサの生活を助けることだった。食事の用意をしたり、部屋を整えたりと、彼女の手が届かない部分を任せられている。
彼女は、病に侵されている。残された命もさほど長くないようで、身体の自由もきかなくなってきているらしい。
彼女は最初のうち、子どもが来たことに驚いていたようだった。だが、すぐにあれこれとお願いするようになった。それほど、日常を営むのが苦しくなっているのかもしれなかった。
「ありがとう」
いえ。ジョシュアは首を振って、彼女の前に紅茶を置いた。
自分にできるのは、大したことではない。少なくとも、ジョシュアはそう思う。だから明るくお礼を言われると、嬉しさと一緒に戸惑いが湧き上がってくる。
「ジョシュ君。お菓子、どれがいいかな」
こんなに優しくしてもらえるなんて、思ってもいなかった。冷たくされなければ良いとすら思っていたけれど、ここまで温かく接してもらえるとは。
その優しさを、不安に思うこともある。いつかなくなってしまうのではないかと、怖く思うときもある。だけどそれでも、エリュサの明るさと優しさが、ひどく心地よかった。誰かと共にいて、心穏やかに過ごせる。それが心をこんなに軽くさせるなんて、忘れていた。
自分の食べたいお菓子を指さし、エリュサに何を食べたいのかを問う。彼女は随分と迷って、ジョシュアに選ぶように頼んできた。
「エリュサ様が好きなものだといいのですが」
差し出したお菓子を、彼女が笑って受け取る。その様子を見て、思わず安心した。
エリュサの側にいるようになってから、随分と時間が経っていた。
彼女は、よくジョシュアをお茶に誘う。そうして、日常に眠る小さな幸福を大切そうに語る。ジョシュアがここにいてくれることが、どれだけ嬉しいのかを教えてくれる。
彼女の優しさが自分にどこまで向けられているのか。それを不安に思ったのは最初のうちだけだった。彼女の瞳を見ていると、それが確かに自分に注がれているのだと信じることができたのだ。この温かさを、ずっと感じていたいと思った。
だけど、この生活は決して長くは続かない。
エリュサが起き上がることができない日が増えた。呼吸が苦しそうになる日が増えた。食事が喉を通らないことが増えた。
彼女の身体は次第に弱っていって、笑うことすら減り始めた。
寝台に横たわる彼女の手首の細さが、嫌なほど目につく。あまりに頼りなく弱々しいそれが、彼女の生命を象徴しているように感じられる。
「僕に、何かできることはありませんか」
ジョシュアは、毒の精霊だ。病を治してやることも、苦痛を和らげてやることもできない。だけど、人の温かみを教えてくれた彼女に、できるだけのことをしたかった。
「ここにいてくれるだけで嬉しいんだけどな」
「そう、ですか」
ほんの少し肩を落としたことに、エリュサは気が付いたらしかった。ごめんね、と小さく呟かれ、ジョシュアは首を振る。謝ってほしいわけではなかった。
彼女に見つからないように、そっと唇を噛み締める。やっぱり、彼女には笑ってほしかった。
いつか、エリュサが言っていたことがある。
珍しい花が、この地にはあるらしい。夢幻のような噂ではあるが、それは艶やかな紅い花を咲かせるという。
『誰かがついた嘘じゃなくて、本当にあるものだったらいいな』
あるなら見てみたい。そう呟いていたときのエリュサの表情が、忘れられない。だから、病を治してあげられない代わりに、綺麗な花を見せてあげたかった。
太陽が育てた土に、精霊が愛した水。空から降ってきた種子。それが、この花を育て、咲かせる条件。詩を思わせるものばかりだが、彼女がそう言っていたのだから、それに頼るしかない。
街の人に、この花について知っているかと聞いてみた。必要な材料が何であるか、本を探してみた。何の比喩かと考えて、思いつくものを手に入れては、こっそり育ててみた。
「ねえ、最近どうしたの」
「何でもないですよ」
エリュサにはまだ内緒だ。今伝えてしまえば、喜びも驚きも減ってしまうように思えたからだ。
痛みや苦しみで薄れそうになっている感情を、あの花を咲かせれば、取り戻してやることができる。そう言い聞かせて、揺れた心を落ち着かせる。
苦しいのは彼女のはずなのだ。だけど、その細くなった手首や、寝台に散らばった白い髪が、ジョシュアの心を締め付ける。本当はこちらが痛いはずがないのに、胸の奥が痛くて痛くてたまらなくなる。でもそんな様子を見せたらきっと彼女は悲しんでしまうから、もしもの理想に縋り付くしかなかった。
「ジョシュ君。危ないことは、しちゃだめだよ」
そう言葉を投げかけてくる彼女に、分かっていますと返す。だけど、危ないこととそうでないことの境が曖昧になっていたことに、今になって気が付いた。
まだ、花は咲かない。土も水も種も、いろいろなものを試してみたけれど、何も変わらなかった。噂によれば、その三つが揃えば、すぐに芽がでて、花を咲かせるという。しかし、ジョシュアが抱えているこれは、花を咲かすどころか、何日たっても芽を出さない。
彼女はどんどん弱っていく。目を離すと、いつの間にか弱った命が攫われてしまいそうで不安になる。ジョシュアを呼ぶ声が細くなっていくことが怖くて、耳を塞いでしまいたくなることもあった。
どうして、花は咲いてくれないのですか。
花が咲いたところで、彼女の命を繋ぎとめることはできない。だけどジョシュアには、それが彼女の幸福な生を少しでも長く続かせるために自分ができる、唯一のことのように思えていた。
土がよくないのか、組み合わせがよくないのか。何がよくないのか。
小さな鉢が、増えていく。生命を感じさせるものはひとつもなくて、見ているだけで泣きたくなる。
僕はただ、喜んでほしいだけなのです。笑ってほしいだけなのです。誰かと触れ合う喜びを教えてくれた人に、ささやかなお礼がしたいだけなのです。
瞼の裏に浮かぶのは、彼女と過ごした日々だった。
同じテーブルを囲んで食事をしたこと。他愛のない話をしたこと。朝日を眺めたこと。ジョシュアを、ただ一人のひととして扱ってくれたこと。側にいることを、喜んでくれたこと。そんなありふれた思い出が、浮かび上がってくる。
これほど願ったことすら叶わないのなら。一体自分は、彼女に何をしてあげられると言うのだろう。
彼女の命は、もう長くはない。この花を咲かせるための機会は、さほど残されていなかった。
「紅茶はどうですか」
「ありがとう。ジョシュ君の紅茶、好きだよ」
その日エリュサは、ジョシュアに側からできるだけ離れないようにと頼んできた。まるで死期を悟ったかのようなその言葉に、素直に頷くことはできなかった。だけど、彼女に穏やかに見つめられて、断ることもできなかった。
「本当は、エリュサ様に花を見せたかったのです」
「あの噂の花、かな」
「はい」
そっか。エリュサはそう呟いた。
「嬉しい。ありがとう」
思わず、唇を噛んだ。
彼女に、あの花を見せてあげることができなかった。何も返せなかった。与えられたばかりだ。
「あのね」
力のない手が、ジョシュアの手に添えられる。
「本当に、嬉しいの。だってジョシュ君、心から、私のために」
「ですが、僕は」
「ううん。いいんだよ」
ありがとう。そんな言葉と共に、手の甲をそっと撫でられる。その行為は慈愛に満ちていて、波のような感情が身体の奥から溢れてきた。
「本当に、いなくなってしまうのですか」
「うん」
「まだ、ここに」
しずくが溢れては、頬を伝い、顎を伝い、床に染みを作る。ぼやける視界の中、彼女の手の温かさを辿って、包み込むように握り返した。
命が零れ落ちていくのを感じる。だけど、それを止めることができない。
「最後まで、側にいてね」
彼女の言葉に、何度も頷く。せめてこの手が冷たくならなければいいと、心の底から思った。
僕を大切にしてくれて、ありがとうございます。
震える声に込めた精一杯の想いに、彼女はそっと表情を和らげた。
おまけSS『ささやかな日々』
一昨日は、天気が良くて、穏やかな日差しを楽しんだ。
昨日は、いつもと違う紅茶を味わった。
今日は、窓の外を一緒に眺めた。
明日は、何があるのだろう。
夜が近づくと、明日のことを考えてしまう。今までにあった何気ないことを順繰りに思い出して、ここでの出来事を指折り数える。
「ジョシュ君。どうしたの」
ふと後ろから呼びかけられ、慌てて振り返った。
「いえ、少し考え事をしていました」
彼女に残された命は、決して長くはない。彼女が大切にしている日々だって、さほど残されてはいない。エリュサと過ごす日常がきらめいて映るのは、彼女が残された時を丁寧に過ごしているからなのだろうか。
「そっか」
エリュサは頷こうとして、あ、と声を上げた。
「ジャム、買ってきてって頼むの忘れてた」
またやっちゃった。そう顔を赤らめるエリュサに、思わず笑みを返した。
「大丈夫ですよ。少し残っていたはずですし」
「そ、そうなんだけど。ごめん、もうこんな時間だし、明日またお願いするね」
「分かりました。僕も、覚えておきます」
「ありがとうね」
明日のいいことは、新しいジャムを開けて、二人で味見をすることだろうか。おいしいねなんて言って、紅茶に加えたり、お菓子に乗せたりするのだろうか。
「ジョシュ君。楽しそうだね」
ジョシュアは微笑んで、そっと頷いた。
このささやかな幸せがずっと続けばいいと、心の隅で思った。