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軸違いのクライン
登場人物一覧
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幻想のとある領地。その都市部に隣接する小さな森を抜けると、一見では海と間違えかねない大きな湖がある。
暦の上では夏も終わりを迎えているのだが、太陽はまだまだ微睡むことを知らない。生活圏と程良い距離にある為に、この辺りも納涼客で賑わっている筈だった。
しかし、その日に限っては様相が異なっている。まるでカレンダーからぽっかりとその日付だけが抜け落ちたように、避暑客の姿はひとりとして見当たらない。代わりにそれらとはまるで似つかわしくない男がひとり居るだけだ。
男は異様な姿だった。全身を攻撃的な大鎧に包んでいる。或いは、この大鎧こそが彼そのものであるのかもしれないが、誰も彼に回答を求めはしないだろう。彼は獅子や羆にも似た、不用意に近づくだけで命が損なわれる危険性を纏っている。人生が惜しければ、不用意に触れていい相手ではなかった。だが。
「長閑な湖と鉄騎種の大魔人。あまりにも不釣り合いですね、今はまだ」
その彼に声をかける者が居た。
どれ程腕に自信のある人物かと思えば、まだ成人もしていない少女である。
怖いという感情を知らないのか、それとも好奇心が恐れを超えたのか。彼女は男の放つ空気にまるで気圧されることなくそこに立っている。
「人間、どこから来た?」
男が少女に反応する。それは鎧の中でくぐもったとも、機械的な何かで発声したものとも取れる音だった。
「『幻想ナトロン湖化計画』ですか。成功すれば確かに素敵でしたが、凶悪過ぎて彼らの反応も過剰になったんですよね」
「どこから来たのかと聞いている」
まるで見てきたかのように準備段階の作戦を語る少女に、男は意を介さない。知っているのだ。これがそういうものだとわかっているのだ。
「Z軸までの観念では、観測の難しい事象もあるものですよ」
「遥か高次元の存在だとでも言いたげだな」
「いえいえまさか、そんな大それたものではありませんよ」
少しだけ剣呑になった男の空気に、少女はわたわたと手を振り、彼の言葉を否定する。代わりに少女が名乗ったそれも、眉唾に近いものではあったが。
「ヨハナはただの、預言者です。どうですかフォボスさん。ヨハナを雇いませんか? 『幻想ナトロン湖化計画』はまた彼らに邪魔をされて失敗します。私なら、彼らがどこで介入をしてきたのか、とっても詳しいですよ」
「何故だ?」
まだ初動段階にも入っていないというのに、少女――ヨハナはそれを上手くいかないものだという。失敗がわかっているのだという。作戦そのものに無理があるのではなく、邪魔立てするものが居るのだと。
「そりゃあ視覚的な変化が激しいわけですから、察知されるのも早かったですよ。生活圏も近いですし、湖が真っ赤になるなんてすぐに報告が上がっちゃったんですよね」
「そうではない」
どうして計画に邪魔が入るのか。そう受け取ったヨハナの判断をフォボスは否定した。邪魔が入る可能性など考慮の内だ。既に幾度も、アレらには邪魔をされてきた。
「何故、余に協力をしようというのだ?」
ヨハナの意図が読めない。フォボスの最終目的は混沌世界そのものの掌握である。その達成を支援することが、この少女にとってどのようなメリットになるというのか。まさか、純粋に感銘を受けた支援者などと言うことはあるまい。
「ああ、そういうことですか」
ヨハナは「えーっとですね」と指を顎に当てて思い浮かべるように空を見上げながら、その理由を吐き出した。
「フォボスさんの計画はその過程でたくさん死にますよね。うん、じゃあ協力しない理由がありませんよ。みんな幸せになるのに、それを助けないなんて嘘じゃないですか」
それは言葉遊びではない。命を軽視し、弄ぶ悪童ではない。彼女は善意から、多大な人々の未来が失われる結果を『誰にとっても』喜ばしいものだと受け止めている。幸福を分け合えるのだと信じている。輝かしい将来であるのだと賛美している。
これもまた魔種。これもまた狂人。フォボスはそれ以上を掘り下げようとはしなかった。覗けば覗く程、その深淵は意味不明に捻子曲ったものが顔を出すだけだろう。狂人は理解されず、その精神はひとつで完成しているのだ。他者の介入も後援も協調も、不要とすら思っていないのだ。
「どうやったらバレたかを知っているので、巧妙に隠しましょう。どうやったら負けたかを知っているので、作戦を練りましょう。どうやったら壊れるのかを知りたいから、違う未来を行きましょう」
手を取り合ってはいけない。何時如何なる時、彼女が敵に回るのか予測できない。彼女の理屈は、彼女にしかわからないのだから。
「未来は変えられる。絶望の世界が待っている。ヨハナと一緒に、混沌に破滅を齎しましょう」
それでも強力な武器だ。持ち手がどちらにあるかわからない、諸刃の剣であったとしても。
フォボスは差し出されたその手を――
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「――という感じでしたよね。ヨハナ、みんなの幸せな破滅の為に頑張りますよ」
幻想のとある領地。その都市部に隣接する小さな森を抜けると、一見では海と間違える程大きな湖がある。
暦の上では夏も終わりを迎えているのだが、太陽はまだまだ微睡むことを知らない。生活圏と程良い距離にある為に、この辺りも納涼客で賑わっている筈だった。
しかし、その日に限っては様相が異なっている。まるでカレンダーからぽっかりとその日付だけが抜け落ちたように、避暑客の姿はひとりとして見当たらない。代わりにそれらとはまるで似つかわしくない男がひとり――――居ない。
「――あれえ?」
居ない。ここに鉄騎の男が居る筈なのだ。フォボスという、秘密結社の総帥が居る筈なのだ。
それが居ない。彼と手を組み、未だ準備段階である『幻想ナトロン湖化計画』を支援しなければならないのだが、日時を間違えたのだろうか。いいや、それではここに人っ子ひとりいない理由が説明できない。間違いなく彼らが人払いをしているのだ。その筈だったのだ。
「退屈な湖と狂人。釣り合ってはいないな」
後ろから声がかかる。慌てて振り向くと、そこに目当ての男がいた。フォボス・ナンイドナイトメア。攻撃的な大鎧の姿をした、鉄騎の魔人。混沌世界を支配しようと企む、秘密結社ネオフォボスの総帥その人。
「――――何時から、いました?」
その質問に意味はない。だが聞き返さずにはおれず、聞いてしまってから失敗したと臍を噛んだ。
どうやって。考えても答えは出まい。尋ねても応えは出まい。如何なる手段を用いてか、この男はヨハナの現れる時間を知り、時空を越えて意趣を返してきたのだ。
「使ってやろう、ヨハナ・タイター。余の計画に加わるが良い」
結果は同じだ。ヨハナとフォボスは協力体制を得る。だが、してやられたという気持ちがどうしても胸の内で渦巻いていた。
「W軸の観念では観測できまい」
「……結構、意地が悪いですね」
感情を表に出すつもりはなかったが、我慢できずヨハナは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。