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うみへ、おちる
登場人物一覧
――海へ、落ちる。
産みへ、堕ちる――
ある所に有り触れた生活を送るリーデル・コールというおんなが居た。
ただ、有り触れて居なかった不幸と言えばコール姉弟は早くに両親を亡くし姉が一人で弟を育てる事になった事だろうか。
しかし、深緑の一般家庭に生まれ育ったリーデルは弟を立派に育て上げた。
ある日、彼女は幻想貴族に見初められた。そこに芽生えた愛は確かなもので故郷の森を離れることとなった事には僅かな切なさを抱いたが、愛しい旦那様と共に歩むと彼女は決めたのだ。
母の形見のイヤリングを弟へと差し出し、嫁いだまでは細やかながらも幸福の時だっただろう。
ただ、順風満帆な人生。よくある女の幸福な一生ではないだろうか。
手塩に掛けて育てた弟とはまた会いましょうと誓い合い、愛しい旦那様の手を取った。
それを幸せと呼ばずに何と呼ぶか。
ああ、けれど――けれど、世界の歯車が軋み始める。
愛しい旦那様との間に一子を設けたその刹那、事故で愛しい旦那様はこの世を去る事となる。
突然の出来事にリーデルはその心に影を落とし、赤子と共に海洋へと静養に向かったのだ。
潮騒が聞こえる街で出会った青年は優しかった。縁と名乗った彼は親切にもリーデルの世話を焼いた。
「ふふ、良いのかしら」
「ああ、いいんだ。リーデルも産後間もなくで疲れてるだろ? ……のんびりしてくれよ」
縁にとっては仄かな恋心であったのかもしれない。然し彼から向けられる親切にリーデルは癒しを求めるように凭れる事にした。
リーデルは疲労した心を癒すように彼の隣に寄り添った。ただ、他愛もない――『傍に居るだけ』の関係性。
縁とリーデルの間には甘ったるい感情を酌み交わすこともなければ、それを吐露することもない。
「ふふ、縁。この子はどういう子に成長すると思うかしら?」
「アンタの旦那さんは良い人だったんだろ? なら、この子だって立派に育ち、旦那さんの跡を継ぐ素晴らしい領主になるさ」
そうかしら、と幸福そうにリーデルは笑う。その長耳に飾られた雫石のイヤリングが揺れている。
「そのイヤリング、綺麗だな」
「そうでしょう。母の形見なの。……故郷に残した弟がきっと片割を持っているわ。
いつか――いつか、また会えるように、と渡したの。そんなの、夢物語かしら……?」
いつかまた。
その言葉を口にした彼女の表情は只、只、切ないものだった。
早くに両親を亡くした不幸。
生後間もない乳飲み子を残して逝去した夫という不運。
家を離れはるばるやってきた海洋でこうして縁に出会えたことは確かな奇蹟だったのかもしれないとリーデルは思って居た。
誰かの心に寄り添い、誰かの助けを得ながらでも愛しい子を守り育てることができる。
母にとっての子供は確かな宝物なのだから。
「縁。私はとても幸せだわ。
不運ばかりだったこの世界だけれど――けれど、まだ救いの手が伸ばされたのだもの」
この子を育てることこそが、私の責務。
この子が生きてることこそが、私の存在意義。
レーゾンデトールは余りに儚い。
母とは『子を護り育てる』ために生きている。その腕にそっと抱き締めた小さな赤子の泣き声を聞いてリーデルは目を伏せた。
儚い――
儚い、日常だった――
ぽちゃん、と。
その音は彼女の中に何時も鳴り響く。
ぽちゃん。
それは偶然なる事故で、不幸としか呼べやしなかった。
急に吹いた大風がその腕から子供を攫ったのだ。恵みと煌めきの海へとその体が落ちていく。
「待って」と呼べど、「助けて」と叫べど、もはや間に合うことはない。
小さく、そしてまだ何も自身ではする事のできなかった赤子は鮮やかな海洋の海へと沈んていった。
幻想種たる彼女に取って海に飛び込めど、救いを差し伸べる程の泳ぎの技術はなかった。
「ッ、」
ごぽり、と息を吐く。彼女を救う手は届かない。
必死に救いの手を伸ばし掻き抱いた軽いからだ。その美しいおくるみにくるまれた白い肌が蒼褪めていく。
「――――!」
名を呼んで、リーデルは振り返る。縁、助けて、縁、と。その名を何度も何度も繰り返して。
もう、その小さな躰からは鼓動は聞こえない、何のいのちの気配も感じられない。
「縁ッ―――!」
叫ぶようにして、そう言ったリーデル。
濡れた髪の儘、彼女は冷たいシーツに埋もれ只、泣いた。
泣き疲れ、眠りから起きた夜半。ふるりと体を震わせたリーデルは周囲を見回した。
べとりと頬に張り付いたままの金の髪を払いながらリーデルはシンと静まり返った室内をそろりと歩く。
「縁……?」
扉を開く。只、のんびりと過ごしていただけの居室。清潔感の漂い、縁が居ることが当たり前になったその場所。
揃いで購入したマグカップの中に残された温い珈琲。
手を付けられていない食材に、皴の残らぬシーツ。
「縁……、どこ……?」
リーデルの形の良い唇が戦慄いた。
愛しい主人に先立たれ、今、その残された愛しい子供も失った。
最後の寄る辺であった『助け』の彼さえもその姿を消していた。
そんな――そんな、不幸が、ここに在ってもいいものか。
その胸を絶望が占める。何度も名前を繰り返した。愛しい人たちの、リーデルの世界の名前を。
「どこ……?」
誰もいない。誰も、残されてはいなかった。
人の命は重すぎて、罪の意識にすり替わったのか。
助けてくれた青年の姿は掻き消え、その中には一人きり。只、一人で失った命を背負えるほどにリーデルは強くはなかった。
そこから、彼女は覚えていない。
埋葬することもなかった赤子の体を掻き抱いて、ぜいぜいと息を切らす。
この子が死んだ場所――あの、海の見える小高い丘。
――世界が私を愛さないのならば、私も世界を愛さない――
世界は不幸だけを与えた。愛なんて其処には存在してなかったのだ。
「私の何が悪かったの?」
答える声はない。
「どうして、私からすべてを奪うの?」
答える声はない。
「愛しい人も、大切な赤子も、かけがえのない友人さえも」
答えることはない。
「どうして、」
――どうして、神様。
だから、彼女の世界には常に『ぽちゃん』という音が付きまとったのだ。
女は飛んだ。
その背に翼など無く、泳ぐこともできないのに、只、海の中へ。それでもよかった。
飲まれてしまえばと思って居たから。
愛してくれない世界なんて、もう、いらなかった。
ざあ、と海の音がする。
「縁――?」
唇から、聲は出なかった。ぎりり、と首を絞める掌がある。
錯乱しきった恩人は海に身投げしたリーデルの首を絞めつけた。かは、と息が漏れる。
リーデルを救いたくて、救いたくてと駆けつけた縁の掌が首をきつく締めあげる。
縁、戻ってきてくれたの。
そう、唇を動かしたつもりでリーデルは微かな酸素の気配に「けは、」と息を吐いた。
どうして、その手を緩めたのか。
そんなことすると、愛しい旦那様の許にも、あの子の許にも行けないのに――!
ヒュウ、と、肺に空気が満たされた。
視界が白黒と変わっていく。
そのうちに、首筋に添えられた指先が離れた。何時か一度だけ触れた骨張った指先が遠ざかる。
――
―――
――――
ざあ、と海の音がする。
どうして『私は生きている』の?
死に損なったのだと、気付いた。一人きりで、ただ、この世界に残されたのだとも。
首筋に触れれば、微かな指の跡がある。
殺してさえもらえなかった。世界は生きろと選択したとでもいうのか。
神様?
ああ、残酷な、神様だわ。
手探りに掻き抱いた愛しい我が子の亡骸。
変質したその姿も、彼女の瞳には生前の儘に映っていた。
その刹那から、彼女は狂っていたのかもしれない。
唇を戦慄かせて、どうして、と繰り返すだけの一人のおんな。
気高くも美しい気品ある幻想種の姿はそこにはない、只、全てを失った女だけがそこにいる。
「嘘だわ」
唇から漏れた乾いた笑いは以前の彼女からは想像がつかなかった。
「ふ、ふふ――ふふ……」
聞こえる、聞こえる。どこかから。
両親を亡くし、夫を亡くし、子を亡くし、そして、助けの手さえなかった。
すべてがすべて、不幸に塗られたこのいのちならば。
生きながらえてしまったならば、それは復讐劇の始まりだった。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
残響が――残響が響く。
聞こえる、聞こえる。その『声』が呼んでいる。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
――その躰は海へ、落ちる。
そうして不吉を産みへ、堕ちる――