SS詳細
デイ・ドリーム・ヴィリーヴァ―。或いは、陽だまりの愛し方…。
登場人物一覧
●ある昼下がり
しゃらん、と鞘の内側を刃の奔る音がした。
頬を朱に染め、照れくさそうな薄い笑顔を浮かべたままに、フラーゴラ・トラモント (p3p008825)の呼吸が止まる。
白く細い首筋に、横切る赤い一線は傷口から滲む血の“朱”だ。
肉と骨とが音も無く断ち斬られ、推定5キロの小さな頭部が重力に引かれて床へと落ちる。一拍遅れて、長く豊かな白い髪がばさりと辺りに散らばった。
「……ぇ」
声を出せないままに彼女は、パクパクと数度、口を動かす。
ごぽ、と空気の零れる音は口と首の断面と、どちらで鳴ったものだろう。
呆けたように開かれた、小さな唇から膨大な量の血が溢れた。
ゴトン。
顔面から床に落ちたフラーゴラの頭部は、弾みで十数センチほど転がって動きを止めた。天井を見つめる黄色と青の瞳からは、既に光が失われている。
まるでガラス玉のような虚ろで冷たい彼女の瞳に、誰かの顔が映り込んだ。
それは、口角をあげた不気味な笑顔を浮かべた鏡 (p3p008705)の顔だ。恍惚に潤んだ瞳に、上気した頬。けれど、その笑顔はどこか歪で、見るものには今にも泣きだしそうな印象さえもを与えるだろうか。
とはいえしかし、今、この場において鏡の表情を見ることの出来るただ1人の存在は、たった今しがた物を言わぬ肉の塊に変わったばかりだ。
そうして、数瞬……首から噴き出す熱い鮮血が、床を壁を鏡の顔を紅色に染めていく。
床に散らばる白い髪も、フラーゴラの白い頬も、ガラス玉のような2つの虚ろな瞳も、朱に、朱に、朱に……どこまでも紅に染まってしまった。
●君は見果てぬ夢を見た
空は快晴、空気は冷たい。
ある冬の日の昼下がり、ところはラサ、砂の都。フラーゴラの治める領地の彼女の邸宅。
白木のテーブルを挟んで座るフラーゴラと鏡の話題は、もっぱら“恋”についてであった。
トークの共には、苦くて熱い珈琲と、ほんのり甘いビスケット。
血と硝煙に塗れた日々を送るイレギュラーズとはいえ、休日はこのようにいかにも年齢相応に女子らしい時間を過ごすのだ。
「それでね……領地の名前を“アトさんとフラーゴラの愛の巣”ってつけようと思ったんだけど……領民の皆に反対されちゃって」
その時のことを思い出してか、フラーゴラはふふと小さく笑みを零した。
そんな彼女の様子を、鏡はじぃと愉しそうに眺めている。時折、片手で持ったマグカップを口へと運び、珈琲でもって唇と喉を癒しながら、フラーゴラの“惚気”を聞くこと早数時間。
昼を少し過ぎた頃から始まった乙女2人のティータイム。
ゆっくりと、過ぎていく、まるで眠りの縁のような心地よく、そして逃れがたい幸福な時間。
「それでね……その話をアトさんにしたらね……“領民には感謝するべきだ”なんて」
果たしてそれが本心なのか、照れ隠しなのか。
鏡には判断できないが、想い人の名を口にするフラーゴラの表情は、とても幸せそうだった。それだけで鏡の胸中には、抑えがたくも狂おしい感情が湧き上がるのだ。
その感情を“愛”と呼ぶのは正しいか。
それとも“殺意”と呼ぶべきか。
コトン、と硬質な音がした。何の音かと手元を見やれば、そこにはテーブル上に置かれたマグカップ。半ばほど残った珈琲が、まだ暖かな湯気を燻らせている。
思いがけず大きな音が鳴ってしまった。
鏡は無意識のうちに、マグカップを置いていたのである。
なんて、状況を理解した鏡は「あぁ」と小さな呟きを零す。
胸中で首をもたげた感情を抑えきれなくなったのだ。
そう理解した瞬間に、鏡は椅子から立ち上がっていた。
「うん? 鏡さん?」
音も立てずに、フラーゴラの眼前へ。
きょとんと鏡を見上げるフラーゴラの瞳は、きらきらと輝いて見えた。
まるで宝石のような輝きに、魅了させるかのように。
鏡はそっと手を伸ばし、フラーゴラの頬へと添えた。
ひやりとした肌の感触。
くすぐったそうにフラーゴラは目を細める。拍子に揺れた長い髪が、ふわりと鏡の指先を撫でた。
ぞくりと、背筋に甘い痺れが走る。
「どうしたの?」
フラーゴラはそう問うた。
返事をするべく、鏡は唇を開き……けれど衝動は言葉にならず、ただ熱い吐息が零れただけ終わる。
見開かれたフラーゴラの丸い瞳に、鏡の顔が映っている。
蕩けたような笑みを浮かべた鏡の顔。
一方で、細められた鏡の瞳にフラーゴラは映っていない。
どこまでも深く暗い虚ろな眼差し。
ドロドロとした感情の坩堝。
するり、と。
鏡の手は、腰の刀へと伸びていた。
フラーゴラは“それ”を何度も見て来たはずだ。
けれど1度も“それ”を見ることは叶わなかった。
神速の居合。
しゃらん、と刃の鳴る音が耳朶を震わせた時には既に手遅れだ。
鞘鳴りの音は、死神の足音と同義である。つまり、その音が聞こえた時には、誰かの命が失われるということだ。
例えば、それは敵に背を向け逃げる盗賊。
例えば、それは飢え渇いて獲物を襲う巨大な魔物。
そして、今回は……白く豊かな髪を伸ばした小さな獣。
心臓を突き刺すような強い殺気を感じた瞬間、フラーゴラは無自覚の内に脚へ力を込めていた。
鏡が自分を斬るつもりだと気付いた刹那が、その凶刃から逃れる唯一の機会であった。
それを理解してなお。
死にたくないと思っていてなお。
友人を相手に暴力を行使するという決断を、遂には下すことが出来なかった。
だから、斬られた。
痛みはない。
一瞬の浮遊感。
ふわり、と身体が浮く感覚。
否、浮いたのはフラーゴラの頭だ。
首から下は、既に無い。
激しく揺れる視界の端に、鏡の姿が映っていた。
脳裏を過る愛しい人の、何処か皮肉気な笑顔。
死の間際、人はこれまでの人生を思い出すと誰かが言った。
走馬灯と呼ばれるそれは、なるほどどうやらデタラメだった。
これまでの人生どころか、ほんの数ヵ月さえも、思い返すだけの時間も得られないまま、フラーゴラの意識は闇の底へと沈む。
ゴトン。
真っ暗な世界で響いたそれは、自分の頭が床に落ちた音だった。
血だまりの中、友人が横たわる。
小さくて、細い身体。
首から上は、少し離れた位置に転がっている。
ふわふわで、良い香りのする豊かな髪は、すっかり血に濡れていた。
物言わぬ死体となったフラーゴラ。
正確に言うなら、ついさっきまでフラーゴラであった肉塊。
それを見下ろし、鏡はほぅと吐息を零した。
床に転がるフラーゴラの瞳には、感情の欠片さえも見当たらない。首が落ちるその瞬間、彼女の表情は確かに揺らいだ。最後に彼女が抱いた感情は、驚きなのか、諦めなのか、恐怖なのか、悲しみなのか、それとも憎悪だったのか。
結局、その感情が表情に乗る前に彼女は事切れてしまった。だから、最後の瞬間に、彼女がどんな想いを抱いたのを確かめる術はない。
その機会は永久に失われてしまった。
ほかならぬ、自分の手で摘み取ってしまった。
「あぁ、勿体ない」
ポツリ、と。
唇から零れた言葉がそれだった。
友人の死を悼むでもなく、友人を手にかけたという事実を悔いるでもなく、勿体ないとそんな風に思ってしまった。
彼女の笑顔が好きだった。
彼女の声が好きだった。
幸せな未来に想いを馳せて、紡ぐ言葉に耳を傾ける時間は幸せだった。
日に日に綺麗になっていく、彼女の姿が愛おしかった。
あと10年……否、数年も待てば、きっともっと、彼女は綺麗になっただろう。
「勿体ない。勿体ないことをしましたねぇ……本当は、もっと美味しくなってから食べるつもりでいたのに」
なんて。
後悔しても、手遅れだ。
●午後の寓話
「鏡さん? どうしたの?」
耳朶を擽る甘い声。
二度と聞くことの無いと思っていたフラーゴラの声に、鏡は正気を取り戻す。
頬に手を触れ、身じろぎひとつしない鏡をフラーゴラは心配そうに見上げていた。
「あ……いいえぇ。何でもありませんよ、フラーゴラちゃん」
なんて。
努めてゆっくり手を引いて、鏡は小さな吐息を零す。
どうやら自分は、寸でのところで堪えたらしい。けれど、無理矢理に欲求を抑圧したせいか、意識だけは思い描く結末を勝手に想起していたのだろう。
白昼夢。
そんな言葉が脳裏を過る。
「フラーゴラちゃんがあまりにも可愛かったから、つい悪戯したくなっちゃっただけですよぉ」
誤魔化すようにそう言って、フラーゴラを斬った感覚が残ったままの右手をそっと胸元へ引いた。
がさり、と懐に忍ばせていた油紙が音を鳴らす。
そういえば、と鏡が取り出した油紙には束になった折り紙が収められていた。
「ところで、こんなものを持って来たんですけどぉ。フラーゴラちゃんは何か折れたりします?」
束から1枚抜き出して、差し渡したのは銀の折り紙。
それを受け取ったフラーゴラは、数瞬、銀の折り紙を……折り紙に映る自分の顔を覗き込む。
「ふふ……ピカピカしていてまるで“鏡”……鏡さんみたい」
独り言、なのだろう。
囁くようにそう言って、フラーゴラはゆっくり、丁寧な所作で折り紙を折る。そうして、たっぷりと時間をかけており上げたのは薔薇だった。
出来たよ、と。
嬉しそうに笑った顔を、きっと鏡は生涯忘れはしないだろう。
午後の日差しを受けながら、花の開くように解けた綺麗な顔は、鏡の“核”の一番深い場所に刻まれたのだから。
「……上手ですねぇ。よかったらそれ私からのプレゼントって事で貰ってもらえますかぁ?作ったのはフラーゴラちゃんですけど。お守りです」
彼女が戦場で命を落とすことがないように。
自分がいつか、彼女を摘み取るその瞬間まで、誰にも奪われることのないように。
そんな願いを込めたお守り。
或いはそれは、ある種の“呪い”とでも呼ぶべきか。
「いつか、私が終わらせる日まで……」
愛しき友を守り通すと、鏡は誓いを立てたのだ。