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【鏡写しの泉】私が私であるうちに
登場人物一覧
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黒の帳を引き裂くような青白い月光が降り注ぐ夜の事でした。
『電子の海の精霊』アウローラ=エレットローネ(p3p007207)は、星の光が反射する煌びやかな泉を見つけ、何時まででも眺めていられる風景に心を奪われておりました。
嗚呼、なんて心が洗われる風景なのでしょうか。
鈴虫が鳴き始め、夏の終わりの静かな足音を間近で感じているようです。汗ばんだ肌も、泉から注がれるような涼しい風に撫でられていきます。
アウローラがこの泉を見つけたのは、偶然でありました。
何故こんな所に来たかなんて理由は今更ではありますが、誘われるように、または引き寄せられるようにアウローラはこの泉の畔に独り立っていたのです。
「帰りたくないなあ~!! もうちょっと見ていこうかな!」
それは冗談で言った一言でした。
だって、こんなに心落ち着く場所に出会えるなんて、人生にそんな無数にあるものではありませんから。絶対に何時かは帰るのでしょうが、暫くこの場所から離れたくないのです。
ふと、アウローラは顔を上げました。
「あれはなんだろう??」
アウローラは、泉の中央に人影があるのに気づきました。
でも、おかしいことです。
先程まではあそこに人の影なんてありませんでしたし、それを別としても自分以外の人の音(と)がした覚えはありません。例えば足音が無くて、空を飛べる種族がそこにいるのなら、羽音ひとつあってもいいのですから。
「もしかして、魔物!?」
言葉を換えれば、その人影は、突然あそこに出現したというのが正しいのでしょう。
だからこそ、アウローラは警戒しました。喉に流れていくツバを力強く飲み、いつもは元気でいっぱいの顔の表情を、強かな仮面に付け替えたのです。
その影は、足の先の水の面(おもて)に波紋を広げながら、少しずつ輪郭を持っていきました。
それはまるで、その姿はまるで。
「――私?」
アウローラは瞳から認識した情報を疑いました。
いえ、でもあれは紛れも無い自分の姿でした。
ただ、違うのは。美しい蒼穹の空のような色をした髪色をしている自分と違って、あの影が持っていた髪の色は燃え盛るような紅蓮の炎の色でした。
対極的な自分の姿が、目の前にあったのです。
「アウローラちゃんがもう一人!?」
『ああ……何も分からない子供が鬱陶しい』
「む、アウローラちゃんは子供じゃないもん!」
『その舌ったらずな言動も何もかもが目障りだわ……』
どうやら、アウローラとは何かしらの縁を持った物体のようです。今現在聞きだせた情報はそこまででした。
自分に似ている。それで少しだけですがアウローラの警戒心は解けました。
それ以外に何かしらの情報があるといえば、アウローラ自身はこんな状況でも笑顔を絶やさないような女性であったのですが、対して紅蓮の女はあの髪色に反して、とても冷たい凍った表情をしていたのです。
だから、アウローラは思わず言いました。
「なんだか……悲しそう」
『なんですって――?』
「だから、悲しそうって言ったの! そんな表情ずっとしていたら、えと、可哀想……」
『なんて小娘なの、こんな奴が私の×××だなんて』
「今、なんて言ったの――?」
どうやら、紅蓮の女はアウローラへ腹を立たせているようでした。
ですがそれはアウローラが色々と喋ったからという訳ではありません。もともと、アウローラの事を全て否定するような女のようです。ですからきっとこんな会話が無くても、紅蓮の女はアウローラを軽蔑するような表情を止める事は無かったでしょう。
でも、アウローラからしてみれば、目の前の鏡のような自分がどうしてそんなに軽蔑するような瞳で見てくるのか、さっぱりわかりません。
だから、話をしたくなりました。
何を言えば、笑ってくれるのか考えました。
何を言えば、そのぴりぴりとした雰囲気が解けてくれるのか、頑張って考えたのです。
ですが、その努力は報われません。何故なら、紅蓮の女はアウローラへと攻撃を仕掛けてくるからです。
破滅を育む絶望の四色が、アウローラのすぐ隣を疾く駆けていきました。それが戦闘開始の合図でした。
咄嗟に朗らかな顔を、驚きの表情に変えたアウローラは叫びました。しかし槍のように、剣のように破滅の音色は飛んできます。こんな音色、アウローラには出せないものです。こんな、悲しい音の曲は絶対に――!!
「どうして攻撃してくるの!? アウローラちゃん何か悪いことをしたの!?」
『ええ、知らないという特大の罪を犯しているわ』
「知らないって――何を!!」
四色の絶望が紅蓮の女の紡いだ魔法陣から放たれる度に、アウローラは転がり駆けまわって逃げました。
反撃を考えました。ですが、その隙をなかなか与えてくれません。
その間、紅蓮の女は泉の面を滑るように浮いて近づいてきます。
彼女の姿を随時見つめながら、色々な情報を整理しているだけで、アウローラの頭の中はパンクしそうになりました。
何故、何故。
どうして、どうして。
アウローラちゃんは何を忘れて居るの。
アウローラちゃんは何をしたの?
疑問が沢山頭の中をぐるぐるしていきます。
気づけば、躰中が掠り傷でいっぱいになっていました。傷口からは血ではなく、電子の妖精ならではの静電気が散っております。
紅蓮の女は、どうやらアウローラの疑問に全て答えられるような余裕の笑みを浮かべておりました。いえ、表情は冷酷なままなのですが、その能面のような無表情が、とっても残酷に笑っているように見えたのです。
それがアウローラにとって、とても気持ちが悪く、そして恐怖にさえ思えました。
思い出してはいけないような。
知ってはいけないような。
知ったら、今までの自分を全て破壊してしまいそうな。
それは、とっても嫌なことです。
電子の妖精として生まれ、今まで紡いできた想い出や出来事を否定するような、裏切るような事をするのは、アウローラにとっては絶対にやってはいけない事だと自らプログラムしているのですから。
アウローラに出来る事とはなんでしょうか。
あの紅蓮の女は何をしたら止まってくれるでしょう。
アウローラはいっぱい考えて、考えながら逃げました。
その間にも、周囲を焼く勢いで術を敷いてくる彼女には容赦はありません。敵わないまでも、ここまで防戦のスタイルを変えないあたり、アウローラも頑固を貫きました。攻撃してくる彼女と、防御をし続ける私。
この勝負はどうやったら終わるのでしょうか。
ただ、その間にアウローラは気づいたのです。本当の事に。
嗚呼。
「あなたは、私」
『私は、あなた』
真なる自分。自分なる影。
だって、あの紅蓮の女の戦闘スタイルはとっても自分に似ているのです。
距離も、紡ぐ魔法陣も、詠唱も何もかも知っている通りです。ただ違っているのは、彼女は魔種のように攻撃の精度も、戦闘の仕方も強烈でした。だから確信しました。
「アウローラちゃんの、もうひとつの姿――!!」
『馬鹿ではないところも、むかつく』
地団駄のような足音がしました。そしたら地面が割れて、裂け目から槍のように岩が飛び出しアウローラは傷ついて転げました。
痛みを感じながら、でもそれでも精一杯の聲で語り掛けました。
「どうしてアウローラちゃんの邪魔するの!?」
『何も覚えていない癖に鬱陶しいったらありゃしない……』
「アウローラちゃんの何を知っているの!? もしかして、記憶を失った部分をしっているの!?」
むしろ、何故知らないのか――そう語り掛けてくるように紅蓮の女の瞳が細くなりました。
どうやら、紅蓮の女はアウローラ自身の記憶を失った部分を知っているようです。
それはある意味、アウローラにとってのパンドラの箱のようなものなのでしょう。開けてみたら何が起こるかわかりませんが、希望だけではない。きっと絶望もある。逆をいえば、もしかしたら希望があるかもしれない。
でもそれは博打のようなものなのでしょう。
「答えて!!」
それとは別に、疑問は晴らしたい気持ちもありました。問いただしたいことばかりなのです。
でも何を質問しても、紅蓮の女は真新しい魔法陣を描くだけで、何も応えてくれません。大事なところはきっと教えてはくれないのでしょう。なんとなくではありますが、それが、紅蓮の女の優しさのようにさえ感じました。
知らないほうがいいことはある。
でも知らない事に腹を立たせている。
それは矛盾していることです。
恐らく、紅蓮の女も色々と迷っているのかもしれません。
例えば目の前にいる女が、アウローラの反転してしまった自分の姿であるとして、自分が反転することを望むか望むまいかはわかりません。でももし、『嫉妬』という特性を持った魔種(デモニア)であるのなら、望んでいなかったとしても自分に嫉妬してしまうのは、お腹がすいたからご飯を食べるような自然な流れになのでしょう。せめて、そこだけは理解するべきであると、アウローラは優しい心を輝かせておりました。
だからこそか、アウローラは一切攻撃を返しませんでした。いえ、返せなかったというのが正しい表現かもしれません。魔に落ちた自分は過酷なものを背負ったのでしょう。傷つき過ぎた自分に更なる攻撃を加えられるものか、今のアウローラには答えが判りません。
ふと、そこでアウローラは気づきました。足を止めて、両手を横に広げました。
紅蓮の女はとっても疑問でした。何故こんなところで足を止めたのでしょうか。
『死ね』
紅蓮の女がやることは、変わらないのです。
紅蓮の女は魔法陣を紡ぎます。それはアウローラが見た事がないような攻撃でした。恐らく、反転したからこそ会得した攻撃なのでしょう。
改めてアウローラはつばを飲み込みました。でも、そこから一歩も動きません。
代わりに、歌を歌いました。鈴鳴る美しい声で。
アウローラが歌う歌を、紅蓮の女は知りません。
もしかしたら、紅蓮の女はそこでアウローラと自分は別のものになっているのに気づいたのかもしれませんでした。
何度か躊躇った紅蓮の女の指先でありましたが、やがて攻撃が過ぎ去りました。瞳を閉じたアウローラでしたが、驚いたことに紅蓮の女の攻撃はアウローラの身体を傷つけることは無かったのです。
「どうして……?」
『どうしては、こっちの台詞だ』
「攻撃を受けようと思ったの、だって……」
アウローラは視線を後ろへと持って来ました。緑が柔らかく生い茂る畔で、泉のそこで住んでいる水鳥の巣があったのです。巣には、親鳥とひなが震えていました。
もし、アウローラが攻撃を回避していたらこの親子たちは今頃大変な事になっていたのでしょう。それは、電子の妖精たるアウローラでさえ理解できることです。
だから、アウローラはもうそこから動くことをやめたのです。
『そんな、たかが、命のために』
「同じ種族じゃなくても、同じ命だから。それに、可愛いし!」
どうやら、紅蓮の女はすっかり意気消沈してしまったようです。いえ、呆れられたと言った方がいいのかもしれません。でも、それくらいでいいのです。アウローラはそういう小さな幸せが大好きな女の子に成長しているのですから、傷ついて狂ってしまった紅蓮の女が呆れるくらい安寧に生きるべきなのです。
勿論ですが、紅蓮の女は嫉妬に満たされた雰囲気が消えることはありません。だって、反転から戻すことはかなわぬ事なのですから。
でも攻撃を止めて下さったのは、何か理由があることなのでしょう。
紅蓮の女は、また滑るように泉の中央へと滑って飛んでいきました。その後ろ姿を、アウローラは何か言いたげに呼び止めるのですが、紅蓮の女は止まることはありませんでした。
『忠告よ、練達には近寄らない事ね……』
ですが、やがて振り向いたかと思ったときに紅蓮の女はそう言い残しました。
それってどういう事なのでしょうか。聞き返そうとしたときには、紅蓮の女は少しずつ泉に溶けるようにして消えていきました。
あとには、元の静けさと共に鈴虫の鳴き声が響き渡る泉へと戻っておりました。
元から天高くあった月光は、角度を変えて空を飛んでおります。
それは、それは、不思議な夜でありました。
「……アウローラちゃんは、練達に帰っちゃダメなの……?」
ただ。ただ。大きな謎を遺したまま。