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登場人物一覧
竜の領域――それは混沌世界を模倣しているが故に、仮想世界とも言うべき電脳空間ネクストで先んじて調査を行う事の出来た場所だ。
そしてシラスは知っている。『有り得るかも知れない形』でイレギュラーズがネクストのNPCとして実装されていることを。それは、自身等の親類も余すことなく、だ。
――ならば?
少年は一人、伝承の街へと降り立った。目的は調査である。それ故に、竜や普段通りの格好ではない。痩せぎすの、幾分か幼い子供としてである。
何を知れるのかすら、どうしたいのかさえも彼自身には分らない。それでも、少しばかり期待をしてしまったのだ。
あの日、壊れていった『母』が生きて、笑っているのでは無いか。まるで幼い子供のように御伽噺や魔法を信じ込んで、嘗て自身が過ごしたアパルメントの近くに通りかかる。開け放たれた窓から見えたのは見慣れぬ白いカーテンだ。別の住民が住まうているのだろうか。スラムの中でも賃料が安く定住する者は余り多くは無かったこの地区だ。母の手がかりを一つ失ったのだろうかと俯いた少年の耳に届いたのは、聞き慣れた子守歌。
其れは少年にとっては『聞きたくはない旋律』でもあった。幼い頃から母がよく歌っていた子守歌。最期とも言えし別れの時にも彼女は兄の頭を膝に乗せて歌っていた。
シラスはそろそろと階段を上がる。先程の歌声はあのカーテンが覗いた部屋から聞こえていた。ならば、きっとその部屋に……母と、自分が?
ノックを数度。「すみません」と声を掛ければ「はあい」と明るい声音が響く。ばたばたと足音が響いてからリズミカルなそれにシラスは耳を研ぎ澄ませる。一つだけ、室内には彼女しか人間はいないのだろうか。ゆっくりと扉が開かれて、やけに警戒心のない女が顔を覗かせた。
「シラス? あ、ごめんなさい。ううん、そんな事はないわね。ふふ、間違えちゃった。あの子がこんな所に居るわけがないものね……」
困ったように笑ったそのかんばせはシラスが想像していたよりも幼い――幼い頃の記憶に存在した母は徐々に痩せこけ老人のように変化し、最後は言うも無残な姿であった。長く伸した黒髪を適当に結わえてあるのだろうか、身に付けていたのは簡素なワンピースであった。それでも、自身等と過ごしたときよりはずっと良い暮らしをしているようにも見えた。
「あの?」
「あ。すみません。……その、マコさんですか? あの、俺……」
「あ、ああ。もしかして。シラスからお遣いを頼まれていたのかしら。もうそんな時期だったかしらね……? 入って頂戴」
此方が返答に詰まっている内に彼女は余り外で話せば目立つからとシラスの腕を引っ張って室内へと入った。見知った構造をしているが部屋割りは自身等と共に過ごした時とは大きく違う。一人暮らしをしているのだろう彼女はスラムと街の丁度中腹付近でのんびりと暮らしているようだった。
「シラスから『今月の暮らし』を聞いてくるように言われたのでしょう? なら、大丈夫だと伝えておいてね。
私は一人でもなんとかなっているし……最近は雑用の仕事を幾つかこなしているの。だから、お母さんに仕送りなんかしないで良いって……カラスさんにも、ね」
「カ、カラス」
「そう。カラス・ラ・トゥール。シラスのお兄さんよ。勿論、半分だけしか血は繋がっていないのだけれど」
それは現実とは大きく違う。マコにそれとなく聞き出そうとしたシラスに『彼女は何も不思議に思う事もなく』彼らのことを話した。
カラス・ラ・トゥールはラ・トゥール男爵家の跡取りだ。マコはラ・トゥール男爵家の召使いであり、男爵が戯れに手を出して生まれたのがシラスと呼ばれた弟、彼女の唯一の息子らしい。父は誰とも知らぬシラスにとって、出自が確りしている『こちらのシラス』は幸運だと吐き捨てたくもなる現実を前にして、シラスは「マコさんは、」と慣れない母の名を呼んだ。
「マコさんは……どうして、此処に?」
「ふふ。カラス様のお母様……奥様に叱られてしまったのよ。ご主人様に手を出した阿婆擦れ、って。シラスだけは家においていただけるように交渉はしたのだけれどね。
私も、ご主人様のお戯れに流されて子を宿してしまった身だけれども、後悔はしていないのよ。だって、シラスに……大切な我が子に会えたもの」
シラスは息を呑んだ。幸福そうに笑う彼女に愛された『此方のシラス』を酷く恨みそうになる。心が悲鳴を上げた。屹度、邸宅で兄と共に過ごし、母に金銭を送るだけの余裕を彼は有しているのだろう。自分が目指した『貴族』に甘んじる自分自身を思いながら母を眺め見る。
「だからって、一人でこんな所に放置する息子なんて良い訳がないだろ」
「……そう、ね。でも、カラス様もシラスを実の弟として接して下さっているから。だから、待っていられるのよ」
屹度、彼女はシラスが誰なのかを察していたのだろう。この世界のシラスではない、何処かの誰か。それでも、母は愛情たっぷりに彼の聞きたいことを教えてくれた。
領地を追われ、退職金として貰った手切れ金と時折息子が運んでくる生活費の仕送り。其れ等は全てを貯蓄して、その日暮らしをしている。
彼女は身を売るような事は無く。同様に、薬に溺れることも無いらしい。街に出て、ささやかながらの平穏を送っている。ただし、実の名を捨て、実の息子を自身を追放したラ・トゥールに置き去りにしていることは確かなのだろう。質素な暮らしを営んでいる彼女の部屋には衣服や家具は少なかった。それでも、現実よりはマシという言葉がシラスの頭には付いて回ってくる。
「……退職金を使えば、もっと良い暮らしが出来たんじゃ?」
「そうね。けれど、人生は何があるか分らないから。シラスがもうだめだって泣いて帰ってきたときにあの子に苦労させない程度にはお金を貯めておきたかったのよ」
此れは秘密にしておいてね、とマコは微笑んだ。彼女の痩せた鎖骨の上に銀色のチェーンが通っている。どうにも、質素な彼女には似合わぬアクセサリーだ。シラスがまじまじと其れを見遣れば彼女はネックレスを――それは、兄のものだったネックレスだ――見せてくれた。『ご主人様』は随分とマコの美しさに入れ込んでいたらしい。彼の寵愛の証とでも言うようにラ・トゥールの紋章が刻まれたそれを母は大切に握っていたのだ。
「自分をこんな場所に追いやった男のネックレスだろう?」
「けれど、私もご主人様を愛していたのは確かなの。……今? 今はね、シラスがのびのびと暮らしてくれてるならそれ以上は無いわ!
もしもシラスを不遇に扱ってたら、嫌いになってしまうかも知れないけれど! ふふ、……けほっ、ああ、ごめんなさい。すこしだけ、最近ね……」
咳き込んだ彼女は体調が余り良くないと呟いた。この辺りは空気は余り良くない。シラスは流行病等に罹らぬ様にとマコに気遣ってから、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、また」
「ええ。……また、会えますように。『お遣い』さん」
――シラスはゆっくりと扉を開く。名残惜しい気持ちをこらえて振り返れば、この世界の母は、彼女は優しく微笑んでいた。
「それじゃあ、またね。『あなたも幸せになれますように』」
母の言葉に全て『何となく悟られていた』事を気付いてからシラスは唇を噛んだ。