SS詳細
無我無宙
登場人物一覧
夢なんて、見たくない。
●
眠りの、拒絶。
酷く甘い夢を見る。何度も、何度も。けれども、酷く心を乱されるのだ。知りたくない。思い出したくない。なら。夢なんてみないようにすればいい。眠らなければいい。
起き続ければいいのだ。眠らなければもう、夢なんて見なくていい。
なんとか片付けた部屋の中。引っ越ししたてのようなからっぽの部屋。ボロボロになって、摩耗して、独りぼっちで擦り切れていく。
「体調悪い? すっごく顔色悪いよ?」
わかるものか。
夢が見たくないからなんて言ったところで、笑われるのはとうに理解している。しているのだ。
苦しいのだ。夢なぞ見たくはないのだ。けれど。そうだ。
だから、平気なふりをする。いつもよりも色味の強いファンデーション。血色を良くするためのチーク。隈を隠すためのコンシーラー。罅割れた唇を隠すグロス。それから。それから。
シンプルなメイクを好んでいた筈なのに、次第にどんどん化粧が濃くなった。厚化粧? 否、これは盾だ。悟られぬように。気付かれぬように。それがただの誤魔化しであると理解していたとしても。
ふさぎこんでしまう。
カーテンの隙間から零れ落ちる陽光を恐れた。日の下を歩き、仲間と依頼をこなす当たり前を恐れた。自分が『鹿ノ子』であると信じていたかった。けれど、世界はそれを許さない。気絶と同時に繰り返される恐れていた夢。刻まれる現実。
――お前は『鹿ノ子』なんかじゃない!
否定したいはずなのに。壊したいはずなのに。
オルゴールの音色はそれを許さない。ベイビードントクライ。涙など、とうの昔に枯れ果てた。泣けないと、喚くことすら叶わないとわかっているのに、足掻く方が愚かしい。馬鹿馬鹿しくて、反吐が出る。
眠れぬまま日々を過ごす。日々悪化する体調。眩暈、ふらつき、倦怠感。立ち上がることすら億劫で、家の中でぼんやりとしている方がちょうどいい。
気絶と覚醒を繰り返し、心も身体もとうの昔にぼろぼろだ。眠ることなんて不必要だ。涙の代わりに眠りを奪ってくれたならよかったのに。
夜は長く、昼は長く。一日を繰り返すかのような毎日。次第に何もかもが面倒になった。
何度も通ったカフェ。新作を確認するのが面倒になった。
お気に入りの洋服の店。そういえば、もう季節ものは入れ替わったのだろうか。
郵便ポスト。あれ以来返事を書く気にもならない。忙しいのだとごまかした手紙。出した気がするけれど、わからない。
あやふやになっていく記憶。救いようがない全て。壊れて、壊して。その繰り返し。
気絶を拒むように目を覚ます。跳ね起きたのは午前四時。カーテンを開ける。まばらな灯り。笑みが零れた。どうしてこんなにも自分は、愚かなのだろう。
口角を上げた反動で唇が切れた。鏡台の前に置いたリップクリームの元へ、秒針のテンポで足を進める。薄く伸ばそうとして、鏡に目をやる。気付いた。
ぼさぼさの髪。隈の酷い顔。不健康そうな姿。そして。
「あ、れ……」
乾ききった、笑顔とも言えない『
「こんな顔、だったっけ」
彼が言ってくれた。笑顔が、大好きなのだと。
――それにな。鹿ノ子にはこれからも隣で笑っていて欲しいのだ
どうして? どうして笑えないのだろう。あの日のように。彼が好きだといってくれたあの笑顔のように。どうして。どうして。どうして。どうして!
頬を触る。笑ってみる。それでも、どうしても歪んだ笑顔鹿出てこない。お前は『鹿ノ子』ではないと自らが証明するように。
「違う、違うッ――違う!!!」
オルゴールはクローゼットの奥にしまっておいたはずなのに、それなのに、頭の中で流れるその旋律。酷く気持ちが悪かった。
あの日の自分は偽物なのだろうか? だとしたら、本物の自分は?
癇癪を起こして物に当たり散らして暴れた、あの日の自分が本物なのだろうか?
そうだとしたら、今ここに立って呼吸をしている自分はいったい何者なんだろう。
わからない。わからない。わからない!
鏡を覗く。揺れた瞳孔。乱れた呼吸。張り付いたままの笑顔もどき。なりそこないの笑顔。
最後に風呂に入ったのは何時だっただろうか。
最後に神威神楽へと向かったのは。
最後に、大好きな彼に会ったのは。
いつ、だっただろうか。
指折り数えても、何も、何もわからない。とうの昔に忘れてしまったのだ。何もかも。
「あ、あ、あ、ああ」
震える身体を抱きしめる。気持ちが悪い。苦しい。
その間にも、他の子が彼の傍に行っているのかもしれない。
神威神楽で必要とされることはなくなってしまうのかもしれない。
そしていつか、誰もから拒絶されてしまうのかもしれない。
そんなことはただの考えすぎだ。そう、普段の鹿ノ子なら理解することができただろう。けれど今の『彼女』は正気でもなければ冷静でも無かった。口に出して頼れるような仲間も、友達も、家族も、傍にはいなかった。
たった一人。独りぼっちだったのだ。
「あああああああああああああああ!!!!!!!!!」
いけないことだ。わかっている。それでも、もう何も見たくなかった。
鏡を割って。割って。割って。そうすることでしか、冷静になれなかった。そうすることでしか、救われなかったのだ。
小さな握りこぶしは血まみれで、破片が刺さって、酷く痛むのに。それなのに、涙は流れやしない。その事実が。その現実が、酷く憎たらしかった。
布団に戻る余裕もなく、その場に崩れ落ちる。後に残ったのは、割れたガラスと、死んだように眠る女の姿。
●秋の鹿は笛に寄る
泣いているいつかの自分を慰めていた優しい声。
髪を撫で。頬を撫で。涙をその温かい掌で拭う。いつもの夢だ。
まるで今もなお自分をあやすようにぐるぐると頭を回るその声。見たくないと。頭ではわかっているのに、夢だから拒めない。
思い出すのは一度だけ垣間見た、琥珀色の瞳、夜を映したような翼。
「どうして」
声になどならなかった。
そうだ。これは記憶なのだ。いいや、夢だ。記憶なんかじゃない。
ただ、問いたかった。泣きついたその服をぎゅうっと握ってみる。さらに心配するように、その旋律は音を増した。
(どうして似ているの)
泣いた。
大丈夫だよと、あやすように背を撫でられた。
(どうして彼に似ているの)
泣いた。
寄り添う様に、背を撫でていた手は一定のリズムを刻みだす。
(どうして遮那さんに似ているの)
泣いた。
やがて、その手は頭へと伸びた。
どうして。
どうして。
どうして。
――――――違う
おかしい。おかしいだろう。
そんなはずがない。だって、だってそうだろう。
時系列を考えればわかることだ。出会ったのは、彼が後だ。琥珀の彼と出会っている筈がない。
絶望の青と呼ばれていたあの荒れ狂う海を越えてきたはずがない。だから。
だから。
だから。気付かないふりをしていただけだ。
泣いているのはきっと夢だからだ。
これが現実だとしたら、あの忌々しい祝福はどこへ行ってしまったのだろう。
「違う」
口に出して呟いた。
そうだ。違うのだ。彼に似ているのではない。
彼『が』似ているのだ。
「は、はは、」
乾いた笑みが零れる。どうしたって、どうしようもない。
気付いたところで、もう過去は変わらない。これまでは変わらないのだ。
彼はもう確かにあるのだと、あのオルゴールが証明していた。
あのメロディは夢幻なんかじゃない。
やさしいおと。
ひどく、やさしいおと。
その歌は、心の内すらも見透かして、包んで、抱きしめてしまうような優しい音でできている。
もしも、記憶を取り戻してしまったら?
もう、後戻りはできないだろう。
それなら、『僕』は?
――『僕』じゃない、誰かになるんだろう。
彼への想いも、約束も。何もかもを忘れた、『きっと幸せで馬鹿な誰か』になるんだ。
ご主人を一番に思っていた自分は、もうどこにもいない。
我武者羅に走り続けた。真っ直ぐに、ただ一生懸命に走り続けた。
結果として、ご主人が一番で、ご主人のためならばなんでもできた自分など、もう空想に過ぎない幻になっているのだ。
もう、あの日々は。あの想いは。戻ってくることは無いのだ。
「ああ、ああ」
変わっていくことが怖い。
変わってしまうことが怖い。
変わっていくのを止められないことが、怖い。
もう、変われやしないのだと。理解したことが、憎い。
酷く、疲れてしまった。