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陽だまりの盤上遊戯
登場人物一覧
微睡みを誘うような日差しがあたたかい。ふわり、と爽風が珠緒の髪を揺らす。あえかな頬の輪郭に沿って髪が揺れる様は、儚い薄花桜の帳に似ていた。
蛍は手に取った冷茶の硝子杯を軽く揺らして唇を湿らせた。
窓の外には生命の輝きに満ちた緑がある。いつもの庵。卓上に白と黒の駒を並べて。涼やかな冷茶に添えられたのは、素朴なビスキュイと木苺並ぶ甘タルト。果樹の宝石が瑞々しく煌けば、駒を進める手も弾むもの。窓の隙間から吹く風が外に咲く花と葉の香を届けて、時間はゆっくりゆったりと過ぎていく。
(まずは、守りを固めたいかな)
蛍は盤上の未来を何通りも考える。途中で珠緒が咳きをするのが聞こえて顔をあげれば、窓から差し込む光と影がモザイクを描く中で儚く睫を伏せ、妖精めいた繊麗な少女が口元を拭っている。
「大丈夫?」
蛍の視線の先で珠緒は儚い桜めいて微笑んだ。
「はい、以前も申しましたけれど、お役目で調整された結果ですので」
珠緒の薄桃色の口元に甘いクリームを乗せた菓子が運ばれるのを見て蛍は少し落ち着かない気持ちを持て余し――けれど気を取り直し、駒を進める。騎士を前へ。王を狙う不埒なる者は軽やかな疾駆と共に成敗しようという構え。
(蛍さんは、たまに不思議な目をします)
珠緒は稀に覚える感覚を冷茶で流すようにしながら、ほう、と一息ついた。
「桜咲の番ですね」
「うん」
蛍は神妙に盤面を視ている。きっと頭の中で珠緒がどんな手を選び、それにどう応えるかを考えているのだ――珠緒はそれを察し、蛍の考えが少しわかる己を嬉しく思った。2人は別々の世界から召喚された旅人であった。「これが当たり前」という前提たる文化や価値観が異なる。
けれど。
寄り添い。心交わし、温もりを分かち合うことができる。
――苺の綺麗な赤って桜咲さんの瞳みたいね。
ふと思い出された声は、いつのことだっただろう。目の前の木苺が一層煌いて眩しい。珠緒は眼を細めた。風がふわりと頬を撫でる。同じ風が蛍の長い髪を揺らして夜色が艶めいている。
「珠緒さん、一手はそれでいいの?」
「ぁ、……いいえ」
「ふふ、ゆっくりでいいよ。……実戦では、危ないかもしれないけど」
口元に指を寄せぱちりと片目を瞑る蛍。
寄せられる声と瞳のあたたかさがいつもと変わらぬ安心感をくれる。けれど、そう。これは、戦場を俯瞰する視点や素早い状況判断の能力を養う、という名目で取り組み始めた訓練だった。
――ヒーラーとして、これでいいのかなって。
――後衛に要求されるのは、現場を俯瞰する広い視野と、即応する判断力ですね。
頬から耳までを薔薇色に染め、珠緒は懸命に盤面を読む。戦況は拮抗していた。何度か対局した結果、どうも実力派は同程度。勝利の天秤はどちらに傾くかわからない――、
「では、このように」
珠緒は数瞬ののち、騎士を蛍の陣同様に前に出した。守りの陣形。如何様にも発展させられる水に似た柔の構え。
(珠緒さんらしい)
蛍が顎に手をやり、考える。
物腰柔らかな対局相手は、遊戯においては柳のようにしなやかで水のように柔軟。互いに守りを固める穏やかな盤面が2人の前に広がっていた。
(攻めていかなくちゃ)
窓から覗く陽光が欠伸するようにゆったりと傾けば冷茶の杯角に反射された光が踊って2人の首元でネックレスが煌めいた。光に応えるような遊色はしあわせを形にしたように柔らかであたたかい。
「それじゃあ、こうかな」
蛍が挑戦的な瞳で歩兵を進める。ともすれば簡単に摘み取られてしまいそうな歩兵は、しかし背後に騎士の加護を得ていた。歩兵を取らば騎士の反撃に遭うことだろう――珠緒は「むむむ」と眉根を寄せた。
「少し、桜咲に時間をくださいますか?」
「もちろん」
愛らしく眉を下げる珠緒に蛍は頷いてビスキュイを食む。庵でのんびりと過ごすこんな日は、ゆるりと打つのもよいだろう――、さくりと口の中で砕けて蕩ける甘すぎない味に蛍はそっと目蓋を閉じた。
――心の荒むことの多い世界。
その中で、目の前にいる薄桜の少女がどれだけ心を癒してくれたことだろう。
蛍からすれば不幸そのものに思える過去や体を恨まず、前を向く。その姿のなんと健気で、眩しいことだろう。
目蓋を持ち上げて視れば、珠緒がそぉっと駒を進めるところだった。
「蛍さん、一手、進めさせて頂きました」
「ん……」
蛍がぱちりと目を瞬かせる。盤上で珠緒の陣は歩兵を取らずに戦車を進めている。戦車がいるのは、歩兵と同じ列だ。ならば歩兵がそのまま進めばどうなるか? 蛍は先を読み、成程と頷いた。進んだ先、あらかじめ待機させた女王の貴手が届く。歩兵を刈り取ったのを足掛かりとして次手以降女王は広い盤面を優雅に蹂躙できるようになるだろう。
「そっか、ボクの駒を直接防がずに攻めを変えさせる一手ね」
「はい」
珠緒はにこりと微笑み、冷茶の硝子杯を揺らして蕩けるような琥珀色を楽しんだ。茶器は花蔦の絡む紋様を白磁に清楚に浮き上がらせ、つるりとしている。
(蛍さん、次はどんな手を選ばれますか?)
心の中でそっと問いかける。わくわくしていた。だって、陣形が綺麗にできあがっている。
(蛍さんが騎士を移動させたら、桜咲は僧正の駒を一気に進軍させるつもりです)
蛍の眼鏡越しの瞳が珠緒の陣に控える僧正を視た。道が開いているのを確認するような眼。
(あ、読まれてしまいましたでしょうか)
けれど、と珠緒は他の手が指された時の対応も心の中で予行練習した。
(蛍さんが騎士を動かしたら、歩兵を頂いて。歩兵を動かしたら、女王で対応して、一気に桜咲が攻勢で勝敗の天秤を傾けます)
蛍はというと、局地のカウンター戦術を考えていた。
(この騎士で反撃を。だから、取らせるならこの僧正。けれど――歩兵を見棄てるのも勿体ないわね)
それに、実際の戦いでは。なるべく全員を救いたい。それはパーティの護り手であり癒し手である蛍がいつも思うことだった。
(難しい事かもしれない。けど)
――生かす道を。
蛍の脳裏で初めて戦った日の光景が蘇る。
――いっぱいに広がる夜空で星が震えていた。ううん、違う。震えていたのは、ボク。
(あれから)
あれから、どれだけの戦いを経たことか。どれだけの時間を過ごしたことか。
蛍がいたのは、平和な世界だった。誰かの生命を賭けて蛍が戦うなんて、嘗ては思いもしなかった。
「うん、決めたよ」
顔をあげれば、咲き零れる桜めいた少女が日常の中で微笑んでいる。日常。日常だ。
窓の外では、絵筆を遊ばせたような真っ白の雲が蒼穹を泳いでいる。故郷に並んでいた風景とは違って、けれど、慣れてしまった。この風景が、時間が、傍らの温度が心を癒してくれるのだ。いつも。
2人は駒を交互に動かして、遊戯を進めた。それは、世界が旅人達の声や行動で動く様にとてもよく似ていた。
「――チェックメイト」
やがて、風がその声を拾い上げる。
くるり、くるり。陽だまりの中を楽しげに舞い上がる風は空を高く高くのぼり、今度は白い雲を押してどこかに流していく。
(この時間は、なんでもない時間だけど)
蛍は駒を一つ一つ順に見つめた。
(たぶん、とても特別なんだ)
「蛍さん、もう一度対局しましょう」
珠緒がそう言って空気を微笑みの吐息で震わせる。そのなんと心地よいことだろう。蛍はにっこりと微笑み返し、盤上に駒を並べ直した。一つ一つ、大切に。