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飛蚊症
登場人物一覧
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目の前に広がる紅葉が、古木・文がそれまで抱いていた鬱屈とした気分を紛らわせてくれた。
見渡す限り、どこまでも広がる赤と黄色のグラデーションは、見るものに言葉を失わせる。
本当に美しいということは、語らせないということなのだろう。
先日、文の住まいでは大雨に見舞われたものだが、このあたりは天候も穏やかで、葉が散ってしまうのも免れたらしい。
乗り気でなかった仕事も、これを見られただけで得ではあったと、心境を改めるほどであった。
可能なら、仕事ではなく、物見遊山で足を向けたいところではあったが。
そう、乗り気ではなかった。乗り気ではなかったのである。
しかし、依頼人は文にとっても得意先の紹介、知人ということもあり、無下にする訳には行かなかったのだ。
まさか、『気分が乗らないし、新刊の続きを読んでしまいたい』などと本音を吐いて断ることもできず、店の売上以上の支払いを提示されれば、逃げ道はなかった。
だからこうして、文は自身でも似合わないと自覚する秋の野に立っている。
数分ほど惚けていたが、感動とは薄れるもので、文の意識も次第に仕事のそれへと向けられていく。
依頼の内容とはこうだ。
依頼人の営む商隊が、新しいルートを発見した。それは今見るように天気の変化も緩やかで、しかし野生の獣も少なく、人の手が入っていない割には開けていて、しかし人がこれまで見つけていなかっただけに賊に襲われる心配もないのだと言う。
そんな美味しい話があるものかと、依頼人もはじめは疑ってかかったと言うが、事実そこにあるのだから、彼としても頷かざるを得なかった。
だが、未調査のルートをこれ幸いと利用するほど、依頼人も能天気ではない。
まずはじめにと子飼いの兵で調査隊を結成し、向かわせたのだが、そこで問題が起きた。
兵が消失したのである。
調査に向かわせてから一週間。待てど暮らせど音沙汰はなく、かといって彼らをどこかで見かけたという話もこない。前金だけ持ってトンズラを決め込むような連中なら、はじめから囲ってはいない。
だから、それ見たことか、このルートにはなにか危険なものがあるのだ。
それは魔物か、毒草か、気質そのものか。不明であるが、このまま蓋をしてしまうにはどうにも惜しい。だからどうしても、その原因を探りたい。そういうわけで、文のところまで依頼が舞い込んできたのである。
つまるところ、一見長閑に紅葉狩りと洒落こめそうなこの場所は、荒事になれた兵隊でも命を落とすような危険地帯。それを引き受ける理由が、義理でも人情でもないのだから、文でなくても気分は落ち込みそうなものだった。
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太陽が明るく、季節的な涼しさと相まって、過ごしやすい日だ。
その眩しさを腕で遮りながら、うす青い空を見上げて文はひとりごちた。
今の所、問題となるものは見当たらない。本当に、獣の気配さえ感じないのが、逆に不気味なほどだ。
本当に、こんなところに人を消失させるような何かがあるのだろうか。
と。
視界の隅に何かが見えたような気がして、意識をそちらに向ける。しかし何も見当たらない。
精確には、黒くて細い、あるいは細かい、靄のようなものだけが見える。
目で追おうにも、視線の移動に合わせて逃げいていく、それは。
「飛蚊症、か……」
眼球内部の影が映り込むという、あれである。普段は意識しないが、変に目を凝らしていたものだから、敏感になっていたのだろう。
手をかざしても、当然ながら、それが消えることはない。指でつまもうにも、触れられるはずもない。
何を遊んでいるのだかと、意識を戻そうとした時に、腕に強烈な痛みが走った。
「な、なんだ……!?」
見れば血が溢れ、傷が出来ている。いいや、表現が正しくない。今現在をもって傷は広げられつつある。
だがわからない。傷は勝手に広がっており、血はひとりでに吹き出しており、何をもってそのダメージを受けているのか見当もつかない。
歯を食いしばる。痛みが思考力を奪う。とにかく、何かがいるなら振り払わねばと、傷口のあたりを平手で叩く。痛みが増すだけに思われたが、その感触で、傷の表面に何かが張り付いているのを感じ取った。
よく、よく目をこらせば、薄い何か、黒く細いものがみえる。指先で摘んで無理矢理に剥がすと、傷がより抉られて痛みが増しはしたが、原因を取り除いたためか、噛みつかれているような感触はなくなった。
「なんだ、これ……?」
それは虫のようだった。百足のように細長いが、まるで似てはいない。全身が薄べったく、その片面全体が口でできているらしく、暴れながらぎちぎちと不揃いな牙を動かしている。
この歯で噛みつかれ、皮膚の表面と少しの肉を食いちぎられたのだ。大きさと比べて、ずっと力があるのだろう。
だがそれよりも、危険性は背の方にあると感じられた。黒く、いびつにねじまがり、しかし透度が高く、認識しづらい。
「飛蚊症に、混じるのか」
そう、それはパット見では飛蚊症に酷似していた。見えているのに、認識できない。視界の中に確かにあるのに、その全容を極めて把握しづらいのだ。
また痛み。今度は手の甲だ。見ればまた別の飛蚊症のようなものが、その細い体を揺らして体内に食い進もうとしている。
慌ててそいつもつかみ、引き抜いて放り捨てた。
なにもないはずの空間。それを見上げて、文は思わず後ずさる。
「まさか、これの生息地なのか?」
目を凝らす。襲いかかってくる個体を認識しようとする。だが、すぐに諦めた。不可能だ。実際の飛蚊症とここにいる生物とを区別できない。
決断は早い。文とて、荒事に身を置く以上、自身の天秤の傾け方は心得ている。
踵を返し、いま来た道を駆け出した。
正体も不明、数も不明、対処法も不明。
だったらまず、逃げ出すしかない。
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上着を頭から被り、もと来た道を引き返す。
思えば随分と奥まで入り込んでしまったが、これもあの生物らの罠なのかもしれない。のどかで、一見無害に見える土地。しかし深くまで入り込んだ生き物を集団で襲い、食らい尽くすのだ。
調査隊が行方知れずになった原因も今では明確である。あの生物に襲われ、何が起きているのかもわからないまま食い散らかされたのだろう。
そのあたりに骨が転がっているのか、それとも何もかも奴らの腹に収まってしまったのか。見当はつかないが、確かめる気にもならない。
冷酷なようだが、彼らの救出や発見は依頼に含まれておらず、どう考えたって手遅れだろう。一週間以上ここにいたのなら、絶命していると考える方が自然だ。
それほどに、牙を剝き始めたあの生物は危険だった。
こうしている間にも、時折、文に追いついた生物が、あたりに潜んでいた生物が、文に噛み付いてくる。そのたびに振り払い、こうして上着でガードしながら走り続けるしか、文にできることはない。
「野生の獣がいないだって? あたりまえだろう……!」
魚のひとつもいない水は綺麗だが、その理由は住めないからだ。獣が居ない、人が見つけていない道。そんなもの、誰も生きていけない場所なのだと、その時点で悟るべきだったのだ。
上着に何かがのしかかるような感触。見えては居ないが、想像はできる。重量を感じるほど、無数のあれらが張り付いていたとしたら。
ぞっとして、迷わず、持っていたライターで上着に火をつけた。燃え広がるのに合わせて、勢いよく投げ捨てる。
後ろを振り向いて叫びそうになった。視界の半数が、真っ黒で染まっていたから。
逃げろ、逃げろ。パニックに陥るな。立ち止まったら食われる。立ち止まったら死ぬ。脚はとうに限界で、太ももは悲鳴をあげている。
構うものか。千切れたってあんなのに食い殺されるよりずっとマシだ。この状況に思わず笑いかけたが歯を食いしばり、正気を保つ。
足がもつれ、倒れ伏して、もうだめかと頭を抱えたが。
襲われなかった。噛みつかれなかった。
どうやら、生息群を抜けたらしい。習性か、テリトリーを離れてしまえば、襲われないらしい。
その場仰向けになり、荒い呼吸を整える。
空には雲がかかり、上着を失ったために寒々しかったが、今はその濁った空間が、何よりも愛おしく感じられた。