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夢うつつ、一人酒に映す月明かりは
登場人物一覧
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「あ~……嫌だね、お月さんがあんなにもでけえ」
大盃一杯に入れた酒の味がしない。
「この時期に、あーいうのを見ちまうと、どうにも思い出しちまうだろうが」
垂れ目をとろりとさせる命は、大きくため息を吐く。
はぁ、と飛び出た吐息は白く染まり、盃を置いて、ぼんやりと空を見る。
普段なら抜群に美味い酒だ。
商売が上々にまとまって、宴だなんだとあいつらは喜んでる。
脳裏に思い浮かぶのは、その帰りだ。
1人の鬼人種の子供が、死にそうな顔で道端に倒れていた。
薄汚れた衣装は何日も変えていないのが一目見てわかった。
がりがりに細い身体が、何日も食べてないことは容易に想像できた。
それは、まるであの頃の命を見ているようだった。
だから――命はただ一人、空を見ている。
きっとサヨナキドリ豊穣支部で働いてる連中は未だに命一杯の酒と美味い飯を喰らってることだろう。
普段なら、命だってあいつらと一緒に酒を飲んでるところだ。
一人酒というのは少々趣味じゃない。
やるなら楽しく飲みたい――ただ、今日ばかりはそんな気にならなかった。
月明かりに照らされるまま、ぼんやりと空を見上げていれば、やがて意識が落ちていく。
眠気がゆっくりと頭を支配して、寝落ちるまでにそんな時間はかからない。
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――夢を、見ている。
これはまず間違いない。
これが夢でないのであれば、命の視線がこんなにも低いはずがなく。
伸びる影がこんなにも華奢であろうはずがない。
(はぁ、嫌だね……よりにもよってこれの明晰夢か)
畦道を一歩前に出ながら、命の意識だけは今の自分だった。
命は――型破 命という鬼人種は、幼い頃は病弱だった。
今でこそ、筋骨隆々とした体躯に大酒を飲んでもけろりとしていられる。
だが少なくとも、このころの命はそんなことをはなかった。
母親は命が産まれる時の状況が悪く、そのまま死んだ。
父親は、もうちょっとばかり生きていた――が、それにしたって命が物心をつくよりも前に死んでしまって。
ただ一人残された命は、両親の遠縁だとかいう鬼人種に預けられて暮らした。
――いや、あれを『預けられて』というのは、あまりにも横暴だろう。
だから、命にとって彼らとの生活はただの孤児と変わらない。
「今日からここで暮らすといい」
そう言って案内された場所が、草木がぼうぼうと生え瓦が剥がれ落ち、障子のそこら中に穴が空いている廃墟だった時。
冷たい視線で命を見る夫婦が、3日ほど経って以降、一度も顔を出さなかった時。
あぁ、『己れは、騙されたのか』と思い知った。
自分が受け取れるはずの両親の遺産は、一銭たりとも触れたことがない。
ただ廃墟の中で一人、暮らしていくだけだった。
この時、どうしてそう思ったのか、命はトンと分からないが、遠縁の夫婦を恨もうとは思わなかった。
同じ鬼人種である彼らだって、地獄の搾取に耐えている。
――それなら、もう死に行くだけかもしれない己れより、彼らが幸せに暮らせれば、それでいい。
本気で、そう思っていた気がする。
(本当に、なんでだろうなぁ……)
家の中に食べるものが無くなって――そもそもとして食えたものがなかったが――命は初めて外へ出た。
酷く貧乏なその村で、飯を盗んで食べてやろうとは、思わなかった。
どうしても、自分が盗んだせいで村人の食事が消える事なんて受け入れられなかった。
朝から起きて、村の近くを流離って動物を殺して食っていた。
気づけば、体格は良くなっていた。
動物と戦って勝たなければ、こっちが死んでいたのだ。
――そんな地獄にずっといた命を、救ってくれた女がいた。
「貴方、このままだと死んでしまうわよ」
同じ鬼人種の女は、村長の姪だとか聞いたが。
「貴方、いくつ? え……私とそんな変わらないじゃない。
体格は立派だけど、貴方、言葉もあまりしゃべれないのね。
そんなんじゃやっぱ死ぬわよ」
そう言った女は、それから動物一歩手前にいた命を、辛うじて人間にしてくれた。
――今にして思う。
今、サヨナキドリの支部で、紛いなりにも『支部長』だなんて大それた肩書を持てているのも、一部は彼女のおかげでもあるのだと。
己れを拾い上げて最低限の人間性を作り、最低限の言葉を教えて、最低限の教養を与えてくれなかったら。
天涯孤独の身である命は、『人の形をした獣』と変わらなかっただろう。
そんな獣では、きっと『彼女』に救われることも、彼の商人に自分が拾われることも無かったろう。
そもそも、『彼女』や彼の商人に出会うことなく、どこかで獣に食われて死んでいた。
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――目が覚めていく。
重い頭が、ゆっくりと意識を取り戻す。
我に返って、視線を上げれば、月の位置は先程とさほど変わっていない。
盃を持ち上げれば、未だに残る酒の面に月が浮かび上がる。
月ごと飲みほさんばかりに煽れば、一気に飲み干した。
喉をカッと熱くさせながら、冷たい酒が落ちていく。
口元を拭いて、小さく声を出す。
(……ちったぁマシになったな)
普段飲むよりも、やっぱりまずかった。
けれど少なくとも――夢を見る前よりは遥かに美酒な気がした。
(なぁ……己れは、アンタに貰った名前を忘れねえ)
――型破という姓をくれたのは彼女だ。
最初はそんなまんまな姓があるかと思ったが、今では良く馴染んでいる気がする。
(だからよ。己れは己れであの人への恩義に答えて、今度はアンタ見てぇに『彼女』を助けてやりてぇんだ)
自分を獣から人間にしてくれた女のように。
今度は――『彼女』を。
そのためには、今のままではいられない。
いつかきっと――『彼女』を自分の手で自由にしてやりたい。
(……そうなったときは、アンタの所にも『彼女』と一緒に帰ってやるからよ)
いくら告げた所で、誰にも聞かれないことは分かっている。
それでも――あるいは、そうだからこそ、命はそれを告げるのだ。
(……まあ、そんときゃ母さんとでも言わせてもらおうかね。
アンタが生きてたら『せめて姉ちゃんだろ』って言いそうだけどよ。
己れにやってくれたことは、どっちかと言えば姉より母親だろ)
とくとくとく、と酒を注ぎなおして、再び盃に口を付ける。
辛めの豊穣酒が喉を軽く焼く。
「……ったく、今日の酒はまずくて駄目だ」
ぽつり呟いた。
美味しいように感じても、結局は不味いように思えてくる。
「まぁ、愛しの女を自由にするにゃまだ足りねえんだから、仕方ねえって話だな」
グイッと煽りなおした酒が、今までで一番うまかった。
「そうだなぁ、明日、まだあのガキが生きてたら……拾って仕事の一つぐらいくれてもいいのかもなぁ」
線の細いガキだった。
今すぐ力仕事は出来なくとも、飯を食わせて服を変えれば軽い仕事をやらせるぐらいなら出来る――気もする。
(なんて、どうにも今日は感傷的になっちまってるんだろうな……)
顔を見上げれば月。
大きな月は、初めて命が家を出た日を思い出させる。
散らばる星々の輝きは、彼女に出会った日を思い起こす。
美しき白は、この手で冷たくなった彼女を抱き上げた時を思い出す。
(……やっぱ、一人酒して正解だったな。こんな顔、あいつらには見せられねえだろ)
再び注いだ盃に映る、微妙な顔色の自身に目を落としながら、命は小さく笑った。
彼女の事は、愛している。それは家族としての愛情だ。
記憶にない実の両親ではなく、実感を以って両親のように無償に注がれた愛への情だ。
『彼女』への愛情は、恩義であり、恋慕だ。まるで似て非なる愛情だ。
だからこそ――いつかは。
改めて覚悟を決めて飲み干した酒は、今度こそ抜群に美味しかった。