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ポイントオブビュー【part-C】
登場人物一覧
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その日、仕事でとても遅い時間まで働いていた私は、くたくたになって帰路についていた。
腹が減って、疲れ果てて、こうやって自宅まで足を動かすことも億劫な状態ではあるが、ため息が出ることはない。
自分のミスでトラブルを引き起こしたのであれば、意気消沈もするだろう。しかし今日のそれは取引先から大口の仕事が急に舞い込んできたことによるものだ。嬉しい悲鳴をあげこそすれ、嘆くものではないだろう。
むしとろ、今日のうちに仕事を終えられた自分を褒めてやりたい。だが今は、とにかく疲れ切っていて、ガッツポーズのひとつも取る余裕はなかった。
私は今、まっすぐに歩けているだろうか。本当に前を進んでいるだろうか。そんな、馬鹿げた思考すら混濁して、靄がかかったように曖昧だ。きっとはたから見れば、映画で見たゾンビのように映ることだろう。
だからだ、だからなのだ。普段使わないような道を使ってしまったのは。その通りはやめておけと、皆から聞いていた。その道がいくら短縮になろうとも、その道はやめておくべきだと。
どうにも立地の関係で、あるいは建ち並んだ古い建物の関係で、警察の目が届きにくい場所なのだと。治安の良くない場所なのだと。そう聞いていたのに、判断能力の鈍った私の頭は、一度だけなら問題はないかと、そちらに足を向けてしまったのだ。
本当に、この判断だけは今でも後悔している。
静かな道だと思った。大通りと比べれば、まるで活気が、生活音が感じられない寂れた商店街。もう遅い時間であることは確かだが、居酒屋やバーの類までシャッターを閉めていることから、終業しているのではなく、本当にどれも店を閉めているのだと察せられた。
びゅううとひとつ風が吹いて、アスファルトの上を滑る枯れ葉の音さえ鮮明に聞こえてくる。有り体に言えば、本当に寂れていた。
冷たい風に身を震わせたことで、ぼんやりとしていた私の頭にも、ここにきて現実感が伴ってくる。ああ確かに、ここはそういうもののたまり場になるだろう。
そんなことが容易に想像できる。
とたんに怖くなって、私は及び腰になりながら、おっかなびっくり前へと進む。思えばこの時に戻ればよかったのだ。だが私は、ここまで来たのだからと、変に吝嗇家のような気持ちになって、その道を最後まで進むことを選んでしまったのだった。
あっちの物陰に暴漢が居やしないか。そっちの暗がりに通り魔が隠れてやしないか。よせばいいのに、見えるもの全てが気になって、キョロキョロと周囲を伺いながら進んでいく。
そんなことをしているものだから、それが見えてしまうのも、仕方がなかった。
「――――――ッ」
怒号、だったと思う。それと、何かが崩れる音。
「ふざけんなクソがッ―――!!」
また大きな音。それは建物と建物の間にできた、細道のようなところから発せられていた。
肉を打つような音。肉を打つような音。
走って逃げ出せばいいのに。耳をふさいで何もなかったふりをすればいいのに。
「もう――め―――」
それは女性の声のように感じた。だから振り向いてしまった。細道の向こう。こんな時間だ。星明かりだけのシャッター街。夜目の効くわけでもない自分には、そこで何が起きているのか窺い知ることも叶わない。
肉を打つような音。肉を打つような音。
あがる悲鳴。
どうすればいい。正義感を振りかざして声をかけるべきか。見なかった、このような夜はなかったと決め込んで足早にここを立ち去るべきなのか。
悩んでいるうちにも、その音は続く。殴っているのか、蹴っているのか。そのうちに、悲鳴も明瞭ではなくなり、反射的な痛みに反応するそれを成り果てていった。
耳をふさいでうずくまる。そんなことをするくらいなら、とっとと逃げればいいのに、突然現実的になった理不尽な暴力に、震えが止まらなくなった。怖くて怖くて、たまらなくなった。
逃げろ。逃げろ。助けなきゃとか、心配だとか、そんなことはもういい。そんなことはもう遅い。自分にはどうせ何も出来なかった。とっくのとうに、彼女はきっと、手遅れだ。
だというのに、冷酷に、自分の怠惰を言い訳しているというのに、脚が動かない。彼女が死んでしまったら、次はきっと自分の番だろう。怒りのままに暴力を振るう男は果たしてアウトローか、それとも殺人鬼の類であるのか。
ああ、ああ。
そんなことをしている内に、音がやんだ。暴力の音は消え去り、くぐもったうめき声も聞こえなくなった。終わったのだ。かをも知らない誰かが、理不尽な暴力でその生命を失ったに違いない。
冷酷で残虐な殺人者は、次の獲物を探し始めることだろう。見つかったらおしまいだ。私は通りの真ん中でうずくまっているくせに、どうか見つかってくれるなと、闇夜に願った。この暗さが、自分の姿を隠してくれることをただ期待した。
口を抑えた。呼吸が五月蝿い気がしたのだ。
どうかどうかと願いながら、その時を待つ。どれだけ時間がたっただろう。数分か、数十分か。全身を強張らせていたから、たった数秒をそのような長さに感じただけかもしれない。
細道の方には、さっきから目線をやっていない。怖いのに、恐ろしいのに、見てみたい。どうせ見えやしないのに、その奥に何があるのか伺ってみたい。
本能はやめておけと警鐘を鳴らし続けている。だが、死や痛みに恐れているくせに、それでも好奇心は藪をつつこうと、私の視線をそちらへと向けさせた。
緊張で息が荒い。目尻に涙が浮かんでいるのがわかる。背中は冷たい汗でいっぱいだ。奥歯がずっとガチガチなっていてやかましい。
だが、何もなかった。
何も見えなかった。
その奥から今にも血に飢えた怪物が飛び出してくるのではないかと思ったが、そのような妄想は現実にあしらわれてしまう。
ほっとため息。よかった。あの男はきっと、こちらの通りを使わず、別の道から姿を消したのだ。
となればこの奥にはきっと―――。
嫌な想像に吐き気がこみ上げる。流石に、それを確認しようとは思わない。
汗で肌に張り付いたブラウスが気持ち悪い。そのようなことに意識を回せるくらいには、私の緊張も解けていた。また風が吹いて、肌寒さに身をすくませる。
早く帰ろう。風邪を引けば明日の仕事に差し支える。
最後にもう一度だけ、細道に視線をやって、それと目があった。
目があっていた。
「―――え?」
それの全容は暗くてわからない。だがそれは、それだけは眼球だと認識できた。横に並んでいない、ひとつだけの、眼球。
いや、もうひとつではなかうなった。ふたつ、みっつ。次々に増えていく眼球。そのどれもが対になってはおらず、不揃いに開かれていく。
そして、そのどれとも目があっている。目があっていた。
「――――――」
今度こそ、私の行動は正しかった。
声にならない声をあげて、疲れた身体にムチを打って、その場から一目散に逃げ出したのだ。
怪物だ、怪物だった。化物だ、化物だった。
暴漢よりも、殺人鬼よりも、もっと得体のしれないもの。知ってはいけない、見てはいけないものであったと思う。
どこをどう進んだのか。
気がつけば私はベッドで布団にくるまっていて。
朝が来るまで、闇に瞳が浮かびやしないかと、そればかりに怯えていた。