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何もかも、いとおしくて
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いつもと同じ朝だった。ラスヴェート・アストラルノヴァは眠たい目を擦り、一人部屋を出れば、くんと美味しい匂いがした。ラスヴェートが大好きなはちみつ入りのホットミルクのような甘い匂い。ラスヴェートは駆け足になった。ぐぅと鳴った腹を小さな手でくるりと撫で、ラスヴェートは笑い声を上げた。今日の朝ごはんはなんだろう。
「お父さん、パパさん、おはよう」
ラスヴェートの声に台所に立っている大きな二つの背が振り返り、おはようと声を揃えた。ラスヴェートは嬉しくなって無意識に目を細める。
「やァ。ラスヴェート、お目覚めかぃ?」
銀色の奇麗な髪を静かに揺らし、ラスヴェートに武器商人は両手を伸ばした。嬉しいのだろう。ラスヴェートの両耳がぺたんこになっている。
「うん。今日は赤くて温かくて大きなパンを食べたんだ。ふわふわで甘い味だったんだよ。大きなパンが山盛りだったんだよ。あとね、大きなベッドもあってね、そこに白い猫がいたんだよ。だから、僕も一緒に寝たんだ」
ラスヴェートは武器商人に抱き着いた。悲しい夢を見ることが少なくなった。
甘くて、幸福で、温かくて。大きなパンを夢中で食べていた。
目を閉じた白猫はベッドの上でピンクの鼻をひくひくと鳴らしている。
ラスヴェートは白猫にそっと近づき、ともに横たわった。
白猫はお日様の匂いとクッキーの香りがした。
武器商人がうんうんと大きく頷き、ラスヴェートの髪を撫でた。これからも幸福な夢を見ますようにと。
「それはそれは……素晴らしい夢の中にいたんだね。我も、その甘い夢を歩きたかった。そう、小鳥と三人でね?」
「うん、今度はお父さんとパパさんを招待してあげる。パパさんに白い猫を撫でて欲しいな。わっ、えへへ!」
ラスヴェートは身体を左右に揺らし、嬉しそうに、くすぐったそうに、身を捩った。武器商人のおはようのキス。
「待って、僕も」
ラスヴェートは武器商人におはようのキスをし、くるりとヨタカの方を向いた。長い髪が弧を描き、きらきらと踊っている。おはようのキスは幸福の証だった。それに、名前を呼ばれることも嬉しかった。
「…ラス、今日はフレンチトーストとコーンスープだよ」
ヨタカがはにかみながら言った。ラスヴェートは目を見開き、大好きをたっぷり込めてヨタカにおはようのキスをした。
「パパさん!」
ラスヴェートは大きな声を出した。名前を呼ぶことが正解であるかのように。
「…うん? ラスは元気だな…」
ヨタカは微笑した。今日もラスヴェートの顔色はとても良かった。あの頃とは何もかも違う。ヨタカはラスヴェートを抱きしめ──おはようのキスを贈れば、ラスヴェートは忽ち、破顔する。
「…」
ヨタカはただ、愛しいと思った。食卓を見つめ、目を輝かせるラスヴェートを。この笑顔を、沢山見たいと思った。
本当は、
「小鳥」
囁き声に甘い息がのる。
「…紫月?」
気が付けば、後ろから抱きすくめられ、武器商人に耳たぶを噛まれた。お揃いのエプロンを脱ぐこともなく。
「…ちょ、朝から何を……!?」
あんなに愛し合ったのに、なんて言葉はラスヴェートの前で言えるはずもなかった。前髪が恥ずかしそうに揺れ、ヨタカはびくりと身体を震わせる。ソレはただ、面白がっているように見えた。
「おや、小鳥。我に恥ずかしがっているのかぃ? どうしてだろうね? 顔もきっと赤いのだろう?」
武器商人はさらりとヨタカの髪を撫でた。ラスヴェートは手を石鹸で洗い、よいしょと椅子に座ろうとしている。
「……」
「…別に俺は、恥ずかしがってなんか……!」
ヨタカは少しだけ大きな声を吐き出しながら、触れられたところがじんと熱くなっていることを知った。どうしてだろう。ヨタカは順応な獣のように動けずに、熟れた果実のように、真っ赤になってしまう。それは何処で、何をしていたとしても。
「ヒヒヒ! 今日の小鳥も我のもの。誰にも渡しやしないよ」
耳元で囁かれた言葉に、アイスクリームのような甘美さと蛇に似た執着を感じる。だが、それでいい。ソレは主人にして大切で愛しい番なのだ。
「紫月、知っている…」
ヨタカは武器商人の手に触れ、
「ああ、そうだったね。ヨタカ、おまえは
武器商人は笑い、指先のリングをなぞるヨタカの手をぎゅっと握り締め、ラスヴェートを見つめる。
「ラスヴェート、キミは本当に素直で良い息子だね」
ラスヴェートの瞳を見つめる。瞳の色がヨタカと同じだった。だから、奴隷オークションで購入したのだ。ソレ以外から見れば、気まぐれで粗末な理由に思えるだろう。ただ、己の眷属にして所有物、そして愛しくて大事な番とお揃いならば、ソレは愛さずにはいられないのだ。
「うん、偉いんだ。朝ごはんもパパさんとお父さんを待ってるんだよ」
ラスヴェートは武器商人そっくりの笑顔を見せた。
食卓に並んだフレンチトーストとコーンスープは温かく、冷たくなることは決してなかった。サヨナキドリの居住区にある「家」の中は、武器商人の魔術が仕込まれている。
「パパさん、お父さん。すんごくね、美味しかったよ。ご馳走様でした!」
ラスヴェートは満足そうにフレンチトーストとコーンスープを食べ終えた。その顔は眩しく、朝よりもっと幸福だった。
「ラスヴェート、おかわりはいいのかい?」
「うん、お父さん。ありがとう。今日はもうお腹いっぱいなんだ」
「うんうん、お腹がいっぱいは至極、良いことだよ、ラスヴェート。そして、我も満腹。とても素晴らしいコトだ」
両手を広げ、武器商人は芝居のような口調で言った。ラスヴェートはけらけらと楽しそうに笑った。
「ラス? 付いているよ…」
「え? パパさん、ありがとう!」
ヨタカがラスヴェートの唇の横に清潔なナプキンを当て優しく拭う。
「流石、我の小鳥。誰よりも、気が付く。誇らしいことだよ」
気が付けば、食卓の食器は丁寧に洗われ、乾燥の真っ最中だった。魔術によってより快適な生活を送ることが出来る。
「…紫月、それは言いすぎだろ…」
ヨタカはハッとし、真っ赤な顔でテーブルを見つめる。そんなことでここまで褒められるとは思ってもみなかった。顔がカッと熱くなった。ヨタカは武器商人に弱いのだ。だが、そんなことは
「お父さん、見て見て! パパさん、照れてるよね? 可愛いね!」
「…ラス!?」
ぱっと顔を上げれば、ラスヴェートは大きな瞳でヨタカを見ていたし、武器商人の口元は三日月に変わっている。
「おやおや、ラスヴェートは知らなかったのかい? 小鳥は、比べることが出来ないくらいに可愛いものだよ。我の瞬きが勿体ないくらいにね? 本当はこの瞼を縫って、小鳥を見つめていたいのだけどね」
「…紫月!!」
「うん? 我の願望を伝えたまでだよ?」
「パパさん」
「…どうした?」
ヨタカが返事をする。
「お父さんって情熱的? 僕の言葉、合ってるかな?」
ラスヴェートは小首を傾げた。覚えたばかりの言葉が合っているのか知りたいように思えた。
「答えてごらん、小鳥?」
武器商人に促される。
「…ああ、そうかもしれない…」
精一杯の回答だった。
「そっか、当たったね。でね、お父さん、パパさん。僕、したいことがあるんだよ」
「どんなことだろ……? 教えてくれるかな?」
「ラスヴェート、我は小鳥と一緒にその願いを叶えようと思っているよ」
それこそ、ピクニックでも紅葉狩りでも、何でも。その積極性が嬉しいと思った。
「ありがとう。ええとね、僕、かくれんぼがしたいんだ!」
「…いいね、楽しそうで俺、わくわくしてきた」
すぐさま、ヨタカが椅子から立ち上がった。そうきたかと思った。既に何処に隠れようかと考えている。
「ラスヴェート、面白いゲェムを知っているねぇ」
「うん。絵本でこの前、読んでね、とっても楽しそうだったから」
大きな文字で書かれた絵本は、かくれんぼの話だった。
「やろう。ただし、走るのは禁止だよ。危ないし食べたばかりだからね?」
「うん!」
邪気のない声が心地よかったのだろうか。ヨタカと武器商人は無意識に目を細め、にっこりと笑う。かけがえのないものが此処にあった。ラスヴェートを見ると、途端に元気になった。まるで、最初からヨタカと武器商人の心の中にいたみたいに。
「…やるからには見つからないようにする」
「燃えてるね、小鳥。じゃあ、まずは我が、見つける役をしようか。ラスヴェート、小鳥、寂しいだろうから二人で隠れるといい」
武器商人は両目を閉じ、数を三十まで数え始める。闇の中で感じた二つの気配が流星のように遠ざかっていく。
「ヒヒヒ! 楽しくて、楽しくてどうしようもない……さぁて、約束の時がきたようだよ?」
漏らした吐息は、静かな興奮に満ちている。小鳥とラスヴェートは何処に隠れるのだろうか。寝室? 物置部屋? トイレ? 廊下?
武器商人は子供のように笑い、オレンジ色の大きなブランケットを手に持った。宝物を今から見つけに行こう。
少し、離れた衣裳部屋にヨタカとラスヴェートはいる。広くて大きな部屋にはクローゼットとハンガーラックが並んでいる。
「…ラス、苦しくないかい?」
心配するヨタカにラスヴェートは笑顔を向ける。呼吸を気にしているのかラスヴェートは口元を両手で押さえている。
「うん、大丈夫だよ。パパさんは狭くないかな?」
優しい子だなとヨタカは感心するが、今はかくれんぼの真っ最中だ。大丈夫だと頷き、ラスヴェートの真似をするようにヨタカも口元を両手で押さえ、びっくりする。それはラスヴェートも同じだった。足音が聞こえたのだ。ぎゅんと縮こまるラスヴェート。その顔は真剣だった。その顔につられるようにヨタカの顔つきが変わる。
「見つかっちゃうかな」
「大丈夫、ラスが考えた隠れ場所だから。すぐには見つからないよ……」
「──!! うん、そうだといいな」
こそこそ話すのが楽しくなってきたのだろう。ラスヴェートはくすくすと笑い、口元を慌てて押える。早く見つけて欲しくて。でも、ずっと此処に隠れていたいような顔をしている。
武器商人はモンスターのように足音をどかどかと響かせる。まずは廊下を隅々まで見つめ、物置部屋をじっと見た。動くものは何もなく、何の気配すらしなかった。
「おんや? 此処じゃあないようで」
ばたりと扉を閉め、廊下を歩き、武器商人は衣裳部屋の前でぴたりと立ち止まった。扉に手を当て、ニヤリとする。扉を二度叩き、武器商人は衣裳部屋に招かれる。森の中を歩くように部屋を見渡す。そこには、
「……う~ん、何処だかねぇ?」
武器商人は衣裳部屋をうろうろし、やがて、大きなブランケットを広げ、今度は前からヨタカとラスヴェートを包み込んだ。
「え! わ、見つかっちゃった」
驚くラスヴェートと上品に笑いだすヨタカを武器商人は強く抱きしめた。今度は小鳥に見つけ出してもらおう。武器商人はラスヴェートにそう、微笑んだ。