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弥生と睦月と章姫の話~ラ~
登場人物一覧
耐えていたはずだった。耐えられるはずだった。悲しい別れは何度も経験してきた。しかしそれが人生と言うものだと、諦観するには彼は若すぎた。耐えきれるはずだった。耐えることが務めだと思った。けれど両手は枷をかけられたように重く、彼の心は影を揺蕩っている。
月が出ている。月光と星明りで、庭の子細な様子まで弥生にはよく見えた。昼間に起きた戦闘の余韻で、美しかった庭は暴風雨にあったかのごとき破壊の憂き目にあっている。縁側を歩いていた弥生はそれを見るともなく見ながら先へ進んだ。睦月がいるとしたら、角のピアノ室だ。その部屋だけが洋風で、防音もよく効かせてある。そうはいっても少々は楽の音が漏れ聞こえるものだ。弥生が扉の前に立つと、中から人の気配がする。けれど夜気を揺らすピアノの音は聞こえない。
しばらく待ってみたが、しんと静まり返るばかりで、静寂が耳に痛い。
「邪魔するぞ」
ひと声かけて弥生はピアノ室へ入った。部屋の中央には黒のグランドピアノがあり、そこにはたしかに睦月の姿があった。睦月は両手を鍵盤に乗せたままうつむいていた。4分33秒はとうに過ぎている。弥生は椅子を一つ拝借し、睦月の隣へ座った。
「弾かないのか」
睦月はじっと黙っていたが、やがて「音が聞こえないんだよ」とつぶやいた。
いつもあふれんばかりに聞こえてきた芳醇な音楽が聞こえない。心のままに鍵盤を叩くことの楽しさを睦月は知っているはずだ。それすらできないとは相当なものだと弥生は睦月の様子を盗み見た。
ルビーのように透明な赤い瞳が、いまはどんよりと曇っている。こんなものは要らない。こんなものには用がない。だがしっかりしろと怒鳴りつけたところで、この瞳が晴れることはないだろう。その程度には睦月のことはわかっているつもりだった。
居心地の悪さに、弥生は窓際の花瓶に目をやる。そこにはしおれたコスモスが飾ってあった。このところ毎朝睦月が飾り付けている花だった。秋桜ともいうのだったか。花言葉は何だったかなと弥生はふだんと違う思考に囚われた。たしか調和、平和、謙虚……。睦月を思い起こさせる言葉の数々。それがこんなにもうちひしがれている。花の様子は、いまの睦月の姿とリンクして、言いようのない感情を弥生に抱かせた。とにかく睦月の心を外へ向けなくては、そんな、焦りにも似た感覚。弥生の手が鍵盤の上をさまよい、白鍵を一つ叩いた。ぽーんと響いた素朴な音に、ぴくりと睦月が反応する。
「……ラ」
「ん?」
「ラの音だね」
「そうか」
「ラの音は、汎用性が高いんだ。時報にも使われているし、自然界にもあふれている。たとえば赤ん坊のなきごえはラの音だし、ストラディバリウスはラの音が最も美しく響くように設計されている」
急に饒舌になった睦月に、弥生は「そうなのか」とだけ返した。睦月は何かを吐き出すように薀蓄を語り続けている。弥生はただそれを聞き、ときおりうなずいてみせた。ラの音で始まるイ短調がどうの、長調にするためには黒鍵を使わなければならないだの、いつもの睦月なら言わないようなことばかりだ。やがてそれも語り尽くしたのか、睦月はまた沈黙へ戻っていった。
ぽーん。
睦月が鍵盤を叩く。ラの音だ。ぽーん、ぽーん、ぽーん。一定間隔でラの音が鳴らされていく。弥生は何も言えず、睦月を見守っていた。広げっぱなしの楽譜がさびしげに出番を待っている。だがいつまでたっても睦月はラの音から抜け出さない。同じ場所をぐるぐるとまわっているかのようだ。きっとそうなのだろう。睦月はいま、悲しみの淵に居る。弥生にだってその程度はわかった。なぜなら彼もまた痛みをこらえていたからだ。
自分の隣に座った少女の、なんと幼く無邪気だったことか。子供らしいすこし高い体温。いつも自慢にしていたあの翠の衣装。真綿のようなやわらかく白い肌、やわらかいピンクブロンドの髪と光のないふしぎな瞳はコレクションに加えてやっても良かった。ほうと弥生は深い息を吐く。……かわいらしい子だった。いい子だった。とびきりというわけではないけれど、幼いわがままはあったけれど、どれも笑って許せるものばかりだったし、女でなければ自分も、もっと深く関わっていたかも知れない。そしていまの睦月のように、心がきしんでいたかも知れない。魔種へ変じたのは、あの子の意思ではあったけれど。それでももしかしたら、なんてかんがえてしまうのだ。
詮無いことだ。過去は変えられない。未来だってそんなに自由じゃない。わかっているはずなのに。
歴史に「たられば」はないという。彼女の存在は歴史の片隅にも残らないだろう。日常として処理され、時の流れの中へ埋もれていく。だったらせめて、自分だけでもおぼえていよう。弥生がそう決意したときだった。控えめなノックが空気を揺らした。
「どうぞ」
睦月がいらえを返す。入ってきたのは鬼灯と、その奥である章姫だった。
「頭領、奥方……」
弥生と睦月はどちらからともなく椅子をおりて膝まづこうとした。章姫はそれを押し留め、鬼灯の腕からぴょいんと飛び降りるとよちよち歩いてピアノの楽譜台までよじ登った。
「一曲お願いするのよ、睦月さん」
にこっと笑いかけられて睦月はお辞儀をした。
「それでは何にいたしましょうか。クラシックがよろしいですか、ポップスにしましょうか? それとも童謡などいかがでしょう」
「なんでもいいわ。今の睦月さんの思うがままに弾いてみて」
一瞬だけ睦月の瞳に影がさした。
「そうですね。では……トロイメライなんかを」
睦月の細く固い指先が鍵盤に触れる。あえかな春の夢を思わせるゆったりした音が続く。同じフレーズをくりかえすシンプルな曲だ。超絶技巧練習曲を鼻歌を歌いながら弾きこなす睦月からすれば、かんたんすぎる曲。なのに、睦月は和音を外した。流れるように鍵盤の上を滑る手、しかし音がずれた。単純な間違いがめだつ。やがてしだいに音からも力が抜けていって、曲が色あせていく。ちょうど窓際の花のように。
「……失礼しました奥方。別の曲にしますね」
言うなり睦月は勇壮なマーチを弾きだした。固く歯を食いしばったまま鍵盤へ手を叩きつける。あまりに乱暴な、ただ音が大きく、粒も揃っていない。音が外れようが和音がいびつだろうがお構いなしだ。まるで小石をざらざらとバケツから垂れ流しているかのよう。章姫は楽譜の隣でこくびをかしげたままその演奏を聞いていた。そして音楽が終わると小さな手でてちてちと拍手をした。一曲弾き終えた睦月は、さながら亡者の彫刻のようだった。全身に力が入り、固く固く縮こまっている。
「ねえ睦月さん」
「……なんでしょう奥方」
「すてきなマーチだったわ」
「ありがとうございます」
「でもできたら、トロイメライがもう一度聞きたいのだわ」
「はい……」
睦月は再びあの優しい曲を弾いた。ゆっくりと、ゆっくりと……何かが睦月の瞳の底に溜まっていく。もう何度目かわからないミスをおかしたとき、音がやんだ。睦月は細かく震えていた。弥生は思わずその背を叩こうとした。しっかりしろと言ってやりたかった。だが伝えたところで何になるだろう。それを一番望んでいるのは睦月なのに。見えない鎖が彼を縛り上げている。それは睦月自身の魂から出たもので、重い枷となって彼の動きを遮っている。なにかにおびえるように、睦月は細く長く息をしている。
章姫は鍵盤の上に滑り降りた。ちょうど、睦月の両手のまんなかへ。ぽーん、と、ラの音が鳴った。せいいっぱい両腕を広げ、章姫が睦月へ微笑みかける。
「悲しい時は泣いていいのよ、睦月さん。音楽は心のままに弾くのが一番だと、言っていたではないの」
ですが、と睦月は珍しく首を振った。章姫の言葉に異を唱えるなど許されない。それは暦たちの暗黙の了解だった。
「ですが奥方。自分に泣く資格はありません。孤児院の子供たちや院長の方がよっぽどつらいはずです」
章姫は笑みを深くした。それは慈母の如き笑みだった。春の雨のようにすべてを洗い流すような笑みだった。
「他の人と比べても仕方がないわ。睦月さんは睦月さん。睦月さんが想うがままにすればいいの。それに、誰かへの想いに大きいも小さいもないのだわ」
「しかし……」
「睦月」
今までじっと黙っていた鬼灯が声を発した。
「睦月、こうなったのは貴殿のせいじゃない。セレーデ殿は自らの意思でお父上のお傍に行かれたのだ。あれは二人への救済だった、今頃向こう岸で親子二人水入らずで暮らしているとも」
「頭領……」
「鬼灯くんの言うとおりよ。睦月さん」
章姫が一歩前へ出る。またラの音が鳴った。章姫はそのまま小さな腕で睦月の頭を抱いた。睦月はぎゅっと唇を噛んでいた。しだいにその端がわななき、隙間から声が押し出される。
「……軽かったんです」
「そう」
「軽かったんです。腕も、足も、もぎとられて、体が半分しかなくて」
「そうね」
「死体は重いんです。もっと。魂を手放した体は驚くほど重いんです。なのに、あの子は軽かった……軽すぎたんです……」
「……」
章姫は睦月をかかえる腕に力を込めた。最初のひと粒が転がり落ちてしまえば、もはや歯止めは効かなかった。
「軽くて、あんまり軽くて、自分がどれだけ非力なのか思い知らされた気分でした。私が手を離さなければ、もっと早く無理やりにでも避難させてれば……!」
「睦月さん。今は自責の念でいっぱいなのね。いいわ、たくさん泣いていいのよ。泣き止むまでそばにいるのだわ」
「奥方、奥方……申し訳ありません! 役立たずで、なのに奥方の優しさに甘えてばかりで!」
とうとう睦月は大声で泣きはじめた。恥も外聞もかなぐりすてたその音。ああ、たしかにラの音だと、弥生は自分も涙を浮かせて聞いていた。
いつしか弥生自身も大粒の涙をこぼしていた。あとからあとから涙はあふれ、自分のどこにこんなに悲しみが潜んでいたのだろうとふしぎなくらいだった。あの明るい無邪気な、夢見るような金色の瞳が、嫌いではなかった。どこかおかしいと気付いていながらも、共に過ごすうちに警戒感も薄れ、いつのまにかこんなに心の奥底まで入りこんでいたのだ。失って初めて気づくなど、おぼこのようだと弥生は自分で自分を嘲笑った。
睦月へつきっきりだった章姫が顔をあげ、弥生へ向けておいでおいでをする。ふしぎに思って涙を拭い、顔を近づければ、ぽんぽんと頭を叩かれた。
「弥生さんもちゃんと泣けたの。えらいえらい」
「えらいんですかね、大の大人が」
「そうよ、えらいのだわ。自分の心に素直になれるのは、とっても大事なことよ」
「……そうですか」
「そうよ」
章姫が笑う。ひまわりのように。清らかな日差しのように。ああ奥方、あなたがそんなにも純粋だから、俺は貴女に忠誠を誓わずにおれない。こんなものただの生理的な反応に過ぎないのに。再度あふれてきた涙は、ふしぎと温かかった。
弥生は睦月の背中を軽く叩いた。落ち着いてきたのか、睦月はハンカチで鼻をかんでいた。そんな睦月に笑いを誘われながら、弥生は言った。
「……ピアノを弾いてやろうじゃないか。セレーデは睦月のピアノが好きだったから」
「曲は?」
「トロイメライで」
「どうせなら13曲全部弾こうか?」
「ほう、トロイメライは13曲もあるのか?」
「頭領は黙っててください」
「弥生……」
弥生と鬼灯のやり取りに、睦月がくつくつ笑った。それはいつもどおりの笑顔で、弥生はなぜだかほっとした。
章姫が弥生の膝の上にちょいんと座る。
「特等席なのだわ!」
「ええ、はい、一番いい音色をお届けしますよ奥方」
睦月は大きく深呼吸をした。体の底に澱んでいた何かを吐き出すように。
……まだラの音は心に響いているけれど、短調を長調に変えることはできる。自分はもう大人なのだし、こんなにも優しい奥方と、頭領と、仲間に囲まれて、いつまでも凹んでなんていられない。泣きっぱなしだった子供の時期は卒業したのだから。今の自分は、暦なのだから。前を向いて進もう。この痛みとラの音も抱えて。睦月はまぶたを閉じ、開いた。その赤い瞳にはもはや迷いはなかった。
「それではシューマン作曲、『子供の情景』から、『トロイメライ』を……」
今は亡き君へ『夢』を捧げよう。その眠りが穏やかなものであるように。