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千昪万歌
登場人物一覧
――夢を見るのだ。
誰かが自分を呼ぶ声がする。
遠く遙か遠くの記憶から、懐かしい風景と共に蘇るのだ。
優しい歌声が、確かに耳に届く。
懐かしさに追い縋って、浸ってしまいたくなる。
何もかもを捨てて微睡みの中に沈んでしまいたくなるのだ。
目を覚ませば、それが誰であったのか。何処であったのか。
どんな歌声だったのかなんて、全て儚く消えてしまうけれど。
何を伝えようとしていたのかを思い出そうとしても、輪郭は薄れ散って行く。
けれど、それは自分が忘れてしまった『誰か』なのだと、それだけは確信が持てるのだ。
●まどろみのなかで
夢を見る。
何度も。何度も。何度でも。
夢を見る。
時々。たまに。ふいに。
それはもう、ありやしない幻想のひとつ。過去であり、御伽噺であり、空想だ。だって、確かな証拠がないから。
けれど。それは確かな事実なのだと、本能が告げる。
だって、それはいつも、僕に優しいから。
頬が濡れていたから、瞼が熱を持っていたから、手が濡れていたから。
ああ、泣いているんだ。涙くらい受け容れるべき日常であろうが、それは鹿ノ子にとっては『異端』であり『非日常』であった。
ベイビードントクライ。
イレギュラーズとして目覚める前の、忘れてしまった記憶だろうか。あたたかい無が鹿ノ子を包む。優しい歌声が頬を撫で、優しい手が励ますように背をさする。
夢だと、解っている。
いつもいつも、顔を覆って、前を見ようとはしない『いつかの私』。
けれど懐かしくて、愛おしくて。だからこの優しいかいなのなかで、ずっとずっと眠りの中の優しい記憶に溺れていたかった。心地よい旋律と縋ることを許してくれた『
目を覚ませば、それが誰であったのか。何処であったのか。
どんな歌声だったのかなんて、全て儚く消えてしまうから。
何を伝えようとしていたのかを思い出そうとしても、輪郭は薄れ散って行く。それが酷く悲しいことのように思えるのに、目を覚ましてしまったならもう涙を流すことは出来ない。
それは自分が忘れてしまった『誰か』なのだと、それだけは確信が持てるのだ。もしかしたら、忘れたくなかった誰かかもしれない。
けれどそれは、目が覚めると心にぽっかりと穴が開いたような寂しい気持ちが纏わり付くのだ。
だから。今日は、顔を覆ったちいさな手を、外してみることにしたのだ。
もしかしたら、それが誰かわかるかもしれないから。
赤くなった鼻をごしごし擦って、そっと目を開けてみる。
優しい琥珀のいろ。夜闇のように黒く、けれどよりそう影のいろの翼。
「 」
ああ、あなたは。
●微睡みは終わり
「……」
いとおしいひと。
僕がいちばんさいしょに好きになったひと。
だからこそ、あなたであるはずがないのだ。
イレギュラーズ覚醒後に出会った貴方。まだ海洋の海が、荒れ狂う『絶望の青』と呼ばれて居た頃。
遠い国である神威神楽に居た貴方のことを、僕が知っている筈がないのだ。
「……だいすきです、遮那さん」
あの日のように呟いてみる。
積み重ねた想いは、たしかにここにある。紡いだ思い出は、決して色褪せないのだから。
だから、彼ではない。
「…………」
わからない。
しらない。
それが、酷くこわい。
それでも、もう自分は『鹿ノ子』として、生きているのだ。
いとしいひとが呼んでくれる名前。やさしさを込めて呼んでくれる、大切な名前。
それらを捨ててまで記憶を取り戻したいのか己の胸に問うてみても、まだはっきりとした答えはかえってこない。
だから、これでいい。このままでいい。
(……朝餉の用意をしよう)
最近は和食を用意するのも楽しくなった。少しずつ彼を知る度に、彼の隣が近付いていくような気がして。でもまだまだ、これじゃあ足りない。他の
あの日交わした約束――『離れていても心は傍に』――が彼女を突き動かしている。昨日も。今日も。きっと、明日だって。
琥珀の約束――まんまるの琥珀を繋いだブレスレットが陽光を受けてきらり、煌めく。愛しいこの重み。彼と揃いの品。もちろん、これ以外にだって。
記憶を取り戻した自分が、今のままの自分でいられるかはも分からないから、好きだと。忘れないで居て欲しいと。そういったとき、貴方は手を握ってくれた。
『自惚れていい』なんて言ってくれた。それが、すごくうれしかった。
――其方を惑わすその夢の者に、私は嫉妬しておる。
嫉妬という言葉を彼本人の口から聞いた。それだけでも驚いたのに。
――私はその者を知らぬ。だが、鹿ノ子が辛そうな顔をしている原因はその者だ。だからな、私はその者に腹を立てておる。今日見た夢に影響されたのかもしれぬが、鹿ノ子を悲しませるその者が憎らしく思う。
――其方だからであろう。私は名も知らぬ者に其方を取られるようで、嫌だったのだ。
――だから、憶えていてほしいなんて生ぬるい言葉は違うのだ。
彼の言葉は魔法のようだ。
いつだって震えるこころに寄り添って、あたたかくしてくれる。それは自分だけが良いと願ってしまう。
だから、離したくない。傍に居るのは僕だけが良い。
記憶を取り戻したって、彼を覚えていたい。忘れたくない。この恋だけは、だれにも奪わせたくない。たとえ鹿ノ子でなかったころの大切な人たちが悲しんで、苦しんだとしたって。
僕は、鹿ノ子だから。
夢は変わり始めた。目を開いた。その些細な変化。琥珀の君がいる。朧げな過去は少しずつ軋み始めて、未来の風が鹿ノ子の背を押す。まだわからない、不確かで、希望と嫉妬と、変化に満ちているであろう未来が。
寝具を整え、カーテンをいっぱいに開く。差し込んでいた光は鹿ノ子を照らし、心地よい温もりが肌に口付ける。ツートーンのツインテールには花浅葱の髪飾りを添えて。また新しい一日がはじまる。
どれほど苦しく悲しい夢であろうと、やがて終わりは来る。終わりを与えてくれたのは、きっと愛しいあなたが傍に居てくれたから。
きっとこの約束がある限り――僕は。