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生まれ変わった日
登場人物一覧
●夢見た”外”の現実
あの日――原初の記憶の終わり――親である貴族に売られ、その後、奴隷商人の元から逃げ延びたあの日の後のことだ。
『孤兎』コゼット(p3p002755)は、この世界が生まれ育った悪意に満ちた屋敷とそう変わらない、冷然とした世界であることをすぐに知ることとなった。
「あの……あの、その……!」
逃げ出して、数日街道を彷徨って村に辿り着いたコゼットは、すぐに道行く村人助けを求めた。
しかし、汚れた身なりに物乞いと思われたか、誰も小さきコゼットの話を聞こうとするものはいなかった。
屋敷にいたころは五月蠅かったノイズは聞こえない。悪意なく、世界は傷付いた少女に無関心だったのだ。
誰の助けも得られないまま、さらに数日が過ぎた。
風雨を凌げない生活は、大人であっても過酷である。それが十を数える程度の少女であれば生死にも関わりかねない。
身体は熱と頭痛、倦怠感に包まれる。だが、そうした身体の異常より空腹感が精神を蝕み正常な思考を破壊していった。
(どうしよう……誰も助けてくれない……お腹がすいた……このまま、死んじゃうのかな……動きたくない……草……お腹膨れるかな……ほら、あたし、ウサギだし……)
支離滅裂な思考と幻覚めいた視界に、コゼットは頭を抱えた。
だいじょうぶ……だいじょうぶ……。
精神を安定させる魔法の言葉を繰り返す。そうして村を夢遊するように歩いていると、見慣れない商人のような男が近づいてきた。
「どうしたんだい? ひどくやつれているようだ」
優しい微笑みを浮かべる男。
ほら、やっぱり”だいじょうぶ”だった!
ついに救いの手が差し出されたのだと、コゼットは安堵し、たどたどしくも男に事情を話した。
「なんて可哀相に。どれ、私のところに来なさい。ご飯を食べさせてあげよう」
差しのばされた手を、コゼットはなんの疑いもなく掴んだ。微かに響いていたノイズは聞こえていなかった。
男はラウゼルと名乗った。行商人だという。
ラウゼルはコゼットにパンとスープを差し出し、行く当てがないのなら少し仕事を手伝って欲しいと言った。
「うん、出来ることあれば、手伝うよ」
コゼットは救いをくれたラウゼルに感謝して、協力を申し出た。善意には善意でお返しするべきだと、コゼットはいまだ素直な心を持っていた。
与えられた仕事は簡単なものだった。隣の村のある場所に手荷物を一つ運ぶだけだった。
無事仕事を終えたらまた別の村で合流し、少なくないゴールドをくれるという。
疑いもなく、コゼットはその仕事を引き受け、指定された場所へと向かった。
「どういうことだこれはぁッ!?」
指定場所へつき、どこか恐ろしげな男達に手荷物を渡すと、怒号が響いた。
聞いたことのない恐ろしい怒声に、コゼットは身体が竦む。
「え……あの……」
「てめぇラウゼルの使いとか言ったな、アイツはどこへ行った!」
男の一人が腰にぶら下げた手斧を引き抜いてコゼットに突きつける男。理由はわからないが男が激怒しているのは火を見るより明らかだ。
「知らない……隣の村で、頼まれて、次はあっちの村で、落ち合おうって……」
「チッ!! あの野郎嵌めやがったな……! てめぇらずらかるぞ! ラウゼルの野郎に嵌められた!!」
意味が分からなかった。何が起きているのか理解ができなかった。
慌ただしく動き出す男達の前で、震えながら何をするべきかコゼットは判然としない思考のまま立ち尽くした。
「邪魔だクソが! 体よく利用されやがってバカガキが!」
男はラウゼルが薬物の売人であることを吐き捨てた。そして自分達がその薬物を利用し犯罪に手を染めていることも。
だが、どうやら国の憲兵に嗅ぎ付けられたらしい。コゼットが持ち込んだ手荷物の中にはラウゼル自身が雲隠れするということを伝えるメモが入っていたという。
利用され、騙されたのだというショックに、コゼットは混乱した。同時にとてつもないノイズが鼓膜を揺さぶり脳を締め上げた。
「知られた以上てめぇを生かして置く理由もねぇ……!」
振り上げられた手斧を見て、コゼットは反射的に飛び退った。そして脱兎の如く逃げ出した。
男は、ラウゼルが憲兵達に通報し自分を追わせないように組織ごと潰す可能性を話していた。
(憲兵……捕まったら、またあの屋敷に、連れ戻される、かも……)
奴隷に売られたとはいえ、貴族の娘であることには違いない。
コゼットは命辛々その場を逃げ出すと、不安を抱えたまま逃げ続け、近くの大きな街へと逃げ込んだ。
また、空腹と倦怠感の支配する、最底辺へと戻った。
傷付き、外を知らなかった少女に対して、この世界はどこまでも冷たく厳しかった。
●生まれ変わった日
「……だいじょうぶ、きょうも、生きてる……」
あれから二年。
コゼットは濁った瞳を湛えながら、灰色の空を見上げていた。
街から街を転々としながら、コゼットは生き延びていた。
その間でわかったことは、この世界に頼れる人間が誰もいないということと、そして悪に落ちるのは簡単だということだった。
空腹に耐えかね草を食べ、泥水を啜った。体調を壊し死の境を彷徨った。それでも救いはなかった。
あるとき、同じような少年が目の前で店からパンを盗むのを見た。パン屋の店主が怒鳴りながら追いかけるのを見て、コゼットは魔が差した。誰もいなくなった店頭から同じようにパンを盗んで逆方向に逃げた。
自身の行為に心臓が止まりそうだった。けれど、後悔はなかった。
(死にたくない……生きていたい……ほかの人から奪うことになっても……)
生きるためには仕方がないと、自分を納得させた。
下水路の中で盗んだパンを囓る。屋敷で食べていたパンとは比べものにならないほど固くまずかった。それでも久しぶりに食べた小麦の味に腹が満たされ、生を実感した。
涙が、零れた。
「……だいじょう……ぶ」
大丈夫じゃないのは、コゼットが一番わかっていた。
生にしがみつき心を腐敗させ悪に手を染めた。無垢な精神が摩耗とともに変質しているのは自身が一番わかっていた。
(生きている意味……あるのかな……)
二年間自問し続けてきた。何度も、何度も。
それでも……生きなきゃいけないと思い直す。
――貴女なんて生むんじゃなかった。
薄れた記憶の声が脳裏にこびり付いてた。
生んでくれた母親にそう思わせたのは自分のせいだと、コゼットは無意識に思っていた。
けど、もしも――あたしがより良く変われるなら――あの人もあたしを生んだことを喜んでくれるかもしれない。
だから、生きなくちゃいけない。生まない方がよかったと思わせたまま死んではダメなのだと、コゼットは思うようになっていた。
だから、今日もいつものパン屋からパンを盗み、店主との追いかけっこを逃げ延びて生きていた。
そんな灰色の日々は……突然終わりを告げた。
「いれぎゅらーず……?」
空中庭園に召喚され、特異運命座標になったのだと言われた日。
衣食住が保証され、生きる意味をもう一つもらえたとき、コゼットは裏切られ続けた運命と神様をもう一度信じて見ようかと思った。
そう、これは最初で最後にも思える最大のチャンスだった。
「……だいじょうぶ。ここから、今度こそ……」
生まれた日から始まった悪意に満ちた原初の記憶、そして生にしがみつき生き延びた灰色の日々。
全て忘れられない記憶。変わり果てた”自分”を取り戻すことはできない。けれど、ここからなら生まれ変われるのかもしれない。
どこまでも広がる悠久の空を見ながら、コゼットは小さな、けれど決して手放すことのできない可能性を掴み取ったのだった。
それから、
(――大きな、海の先、見たことない、なにか。新しい、世界、じぶんが、いてもいい場所……)
初めて見た海に心打たれた日。
図書館とファルカウでチョコを口にした初めてのグラオ・クローネ。同時に死の危険を感じながら廃冠との戦いを必死に生き延びた。
盗賊王や真なる夜魔と呼ばれる魔種とも戦った。
それからも様々な依頼をこなしていった。
その過程で、コゼットは同じイレギュラーズと出会い、人の暖かさと温もりを知り、暗く沈んでいた精神を浄化していった。
そして、生まれ変わると願ったあの日から四年あまり。現在に至る。
(……パン屋の、おじさん、元気かな? 今度、パン代、お返し、しなきゃ……)
濁った瞳は輝きを取り戻し、『孤兎』は『ひだまりうさぎ』へとなって――コゼットは、今日もこの混沌世界で、生きている。