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独りになれるはずもなく
登場人物一覧
見馴れた街角を後にしてから、どれほどの時間が経ったことだろうか? “2人”を永い間波間に揺らした古びた魔導快速船の船内は、年季の入った放送設備に乗った独特の魔法干渉ノイズによって、にわかに微睡みから揺り起こされるのだった。
「お客様にお知らせ致します。この度は本便をご利用いただきまして、誠に有り難うございました。これより本便は、終点──」
お世辞にも音質がいいとは言えないアナウンス。おそらくはどこかの貴族が払い下げた品を、そのまた中古で買ったような襤褸船の魔導エンジンが立てるけたたましい響き。どことなく栄枯盛衰を感じさせる音たちに包まれながら、稔は誰もいない隣の席に押し遣ったままだったキャリーケースを手繰り寄せる。
うら寂れた島々を繋ぐ船便の乗客は、片手で数えられるよりは多少多い程度。不惑を過ぎた頃だろう女性の大荷物は、一体何が入っているのだろうか? 還暦などとうに過ぎただろう白髪の男性は、はたして何の用事を済ませてきたところだろうか? そんな気付きが稔を誘う。
けれども……それらは今彼が執筆の最中にある脚本にとって、何のひらめきも与えてはくれなかった。それでも彼はポケットの中の手帳──これだけは決して他の荷物と一緒に閉じ込めることなく、いつでもすぐに手に取れるようにしていた──を開き、今思ったことを事細かに記し、書き残しておく。
『だからさー、んなモンばっかり後生大事にしてるから肝心な時にネタが出てこないんだって、いい加減解ってきてもいいモンじゃね?』
頭の中で声がディスった。軽率で軽薄そうな軽侮の声に、稔は不快そうに顔を歪めてみせる……けれども声は静かになってくれることなんてなくて、まるでマシンガンのように脳内でがなり立ててくる。
『その手帳を書いてる間に、どんだけのものを見落としたんだか。灯台の岬が過ぎてから手前の島に妨げられるまで、ほんのちょいだけ覗いた集落。すぐ傍で跳ねたよくわからん魚。そいつをなんかの鳥が目聡く見つけて、あっという間に浚っちまった……そーいうパッていう瞬間の感動ってのは、メモなんかに残してる間に去っていっちゃうもんじゃね?』
「俺の遣り方に口を挟むな。俺の最高の脚本が穢れる」
思わず口に出してしまった言葉。知らぬ誰かにその声を聞かれ、訝しまれやしなかったかと、稔ははっと我に返る。
ひとつの体にふたつの魂。誰が呼んだか『二人一役』Tricky・Stars(p3p004734)。脚本は『稔』で演者は『虚』、自称世界最高の劇作家の美天使と何よりも演劇の世界に焦がれた普通の青年の、青と橙の正反対コンビ。
稔の脳内では今も虚が早口で捲し立て、何が最高の脚本だ、わざわざ旅に出てきたくせに旅の楽しみ方を解っちゃいない奴に、どんな物語が作れるって言うのかとなじる。些細なことも見逃さず、手帳に記すのではなく心に刻み込むことにより俳優としての感性を磨いてゆこうとする虚の在り方は、いつも稔の完璧なはずのシナリオを、虚が感性ゆえのアドリブと称するその場のノリでぶち壊しにする疫病神だ。
このちゃらんぽらんな男に興味を持って、一度は自身の描く最高の演劇の主人公になりうる人物かもしれないなどと思ってしまったかつての自分を恥じる。この男に自身の劇の主人公を演じさせねばならぬなら、間違いなく最期に信じた者に裏切られて果てる、悲劇の主人公が相応だ。安心しろ、俺はお前の本性を知っている――小さな発見を針小棒大に感じ取り、自分の中に採り込もうとしてるのも、派手なこと好きで合コンと聞けば稔を押し退けてでも騒いで遊び、そのくせどこか無理してでもテンションを上げているような、どことなく一歩引いた感覚を稔に感じさせるのも、その裏には実のところ少しでも敏感になっておかねばまた大切だと思っていた人に裏切られるという怯えと、そんな自分を自分で誤魔化して、抱いている過去をどこかに捨て去ってしまおうという足掻きがあるのだろう――そういったお前の弱点を残らず赤裸々に暴露する脚本で、お前という名の蝋燭が消える直前の、最後の魂の輝きを演出してやろう。
お世辞にも名の通りとは言えない快速船は、いつしかけたたましいエンジン音を止め、波止場の隣で波に揺られていた。見回せばただでさえ少なかった乗客も半ば以上がいなくなり、残りも思い思いの荷物を持って、客室後方の扉に向かいかけているところ。
稔も引き寄せたキャリーケースの持ち手を握り、緩やかに上下する床を踏み締めて彼らに続いた。脳裏では相変わらず虚が居座ったまま、稔とは相容れぬ持論を展開している。
それを意識して右から左に聞き流し、船から降りてゆく稔。手帳の最後のページに挟んでおいた地図を取り出して、ただ目についた場所を探して、辿り着いた町を彷徨い歩く。
その頃には虚は言いたいことを軒並み言い終えてしまったらしく、すっかり静かになってしまった。計画的に開発されたはいいものの、昼でも閑散とした町の貌。そんな伽藍堂の町を今にも呑み込もうとしているかのような、すぐ傍にまで迫る山。そういえば、さっきから手帳を開いていない――まさかこの世界一の美貌を持った美天使の俺が、あんな男の妄言を気にしているとでも言うのか。
だからって意識したと思われるのも癪なので、思わず手帳に伸ばそうとした右手を引っ込める。それから左手の地図に目を落とし、ただ地図に心を奪われて、手帳を開くのを忘れていただけのように装ってみせる。でも――ぱっと見で気になるところは既に、全て回り尽くしてしまった。それでも無理矢理往くべきところを見つけ、大きなキャリーケースを転がしながら、再び今来た道を逆戻りしてゆく……。
……気付けば稔の周囲の世界は橙色に染まり、じきに訪れるだろう夜の帳を、今か今かと待ち望んでいた。
ちらと手首に目を遣って、今の時刻を確かめてみる。戻る最後の船便は、あと、約30分後。それを逃せば日帰り予定だった旅は、一泊二日に変わることになる。
とりあえず、港に足を向けた。このまま波止場でぼうっとしているには長く、かと言って再びどこかに出かけるには短い時間。もう一度地図を広げて目を凝らしてみても、今さら何か新たな発見が待っているわけもなく。
夕日に照らし出された地図の色は、そういえばあの男の色に似ていたな――ふと、そんな思いが脳裏をよぎった。いつも稔の脚本を勝手に書き換え演じる、騒々しくて寂しがりの男は、こういう時ばかりは出てきてくれない。
それから稔は顔を顰めて、つい今しがた考えてしまったことを、自身の中から追い出そうとした――自分は一体何を考えていたと言うのか、いかに無為に過ごさねばならない時間ができてしまったからって、よりにもよってあんなのに頼ろうとするなんてどうかしている。
それでも世界を覆う橙色は、否応なしに稔の視界を埋め尽くし、虚を連想するのを止めさせないでいる。
ああ、鬱陶しい。折角独りになった時でさえ、虚は稔の中に土足で踏み込んでくる……。
波止場にじっと佇んだままの稔を、大空の橙色はいつまでも包み込んでいた。遠くからはあのやかましい魔導エンジン音が、少しずつ大きくなってくるところだった。