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願わくは今宵、夢の続きを
登場人物一覧
時折、吹き抜ける涼やかな風が秋の訪れを告げる宵――戌の刻。
嫋やかな肢体を照らす月は未だ上弦へ至らず。西方の尾根を伝い始めた頃。
蜻蛉はふと葉月の夜空を見上げた。
時も場所も、国や世界さえ違えども。
そうして幻想城下の石畳が視界から消えたならば、敢えて現世ならざる月に重ねる追憶も有ろうか。
――
――――
何時か花柳の巷に身を預けていた頃の話だ。
「もうすぐいらっしゃるよって、いつものようにお願いね」
差紙を返す蜻蛉に、禿(かむろ)の少女が頷く。
未だどうにも字に慣れぬらしい少女を、けれど蜻蛉は可愛がり、少女もまた良く懐いていた。
香車でなく太夫の影に隠れる少女に、楼主は度々渋い顔をしたが蜻蛉のやり方には口を挟まなかった。
芸事の覚え自体は良く、其れが少女の身を助けていたのもあろうが、ともあれ――其れはまた別の話か。
取り留めなく胸を去来する思い出は、無意識に無情な時を刻んで往く。
嘗てそう遇った様に。
或はそう遭ったと記憶する様に。
「あっしみたいなモンに、御免なすって」
現れたのは一人の男だ。
見た所は還暦の辺りで、そろそろ落ち着いてもよい頃合いでは在るのだが。
良い歳になってもまだ遊び足りない、根っからの遊び人というのも居るものだ。
とは言えこの男は、その手合いに見えないのだが――
「気にしはることや、ありませんよって」
艶やかで落ち着いた声音に、ほんの少しの悪戯気を含ませて蜻蛉は答える。
男ははにかんだように目を細めて口元をくしゃりとやり――けれど瞳の奥は刃のような鋭さを僅か一時とて曇らせては居なかった。
其の目はとても妓楼へ遊びに来た者には見えない。
仮初の恋を前に不思議な見栄を張る輩も多いが、少なくとも此の男に限っては其れの類いではなかった。
こうも足繁く通う太客ならば身請けの是非をからかわれる事も有るが、その度に男は「あっしみたいなのには、とんでもねぇ」と謙遜を続けていたようだ。
ところが或る日続けて「あの嬢ちゃんには倖せになってもらいてぇ」と溢したと言う。
聞いた引手も海千山千の強か者だが、『もう歳だから』と理解したらしい。
引手の話がどこまで本気かは知れぬが、少なくとも口ではそう言った。引手也の処世術も混じっているに違いなかろうが――兎も角、其れもまた別の話となろう。
「喉、乾いてはるでしょう」
「相変わらず気が利くねぇ。こりゃ勿体ねぇ勿体ねぇ」
湯飲みに注いだのは温い白湯で在る。酒でも――ほうじ茶ですらない。
乾いた手に握らせると、男は喉を鳴らして飲み干した。
「五臓六腑に染み渡るってもんだ」
男が大きく息を吐き出すと、蜻蛉もどこかほっとする。
此所へ辿るまでには紆余曲折を経た。
酒を勧めた事も有るが、決して呑みたがらない。
ならばと茶の湯を愉しんで貰ってみた物の、蜻蛉はやがて其れも思い直すに為り。
実のところ理由を持つ、結論としての白湯で在る。
「仕出しもいらへんの」
「入らねぇんだ」
答えは分かっていたが、一応聞いたのは食べて欲しいからだ。
そうして少し残念な気持ちになるのも、果たして何時もの事だった。
朝にはせめて白粥を食べさせる心算だが、なにも今そんな野暮を言う必要はなかった。だからそこは黙っておく。
「それで……今日もいいかい」
問われた蜻蛉はあえて複雑な心境を顔に出し、男を苦笑させてやる。
そろそろ短い付き合いとも言えない此の男だが、そうしたほうがより安心する事を蜻蛉は知っていた。
「……目の前におる、こないなええ女を抱かんやなんて……うち、寂しいわ」
此はついでの追い打ち――男が抱える重荷をほんの一分一匁でも軽くしたいが為の儀式めいた定型だ。
「なんて……わかっとります、ゆっくり休んでおくれやす」
蜻蛉はその場で横になった男の頭を抱き、せめてもと膝に乗せてやった。
「こっちやって、しょうがないお人やね」
「ったく。嬢ちゃんには敵わねぇや」
此の男の目的、即ち要求は文字通り寝る事。睡眠。只の此だけだったのだ
彼は差し出された一杯の湯を飲み、こうして眠りにつくのであった。
色街に出入りする男達は――世間の大半もそうで在るように――様々だ。
其れでも大抵の客は、妓楼へ『遊びに』来るもので。
魚河岸の男も、人形師も、大工の親方も、火消人足も、染物屋の倅も。旗本の次男坊だって、普通は皆一様にそうで在る。
此所はそういう場所なのだから、そういう物なのだ。
故に、誰しも十人十色と言われても、太夫を揚屋へ呼ばぬ事も、其れを良しとする太夫もまた余りに珍しい。
勿論なれど遊女達とて、客のために技を磨くもの。
踊りに三味線、話術。
芸事と色香。教養と肉体。
そうした全ての事。客の五感全てを撫で擽る数々の技を誇りとする籠の中の姫君達は、どだい斯様な男を相手にはしない。
第一ここは蜻蛉に宛がわれた部屋であり、揚屋でもなかった。
其の上、蜻蛉は一介の遊女ではなく太夫だ。
男に泡銭がない訳ですらなく、ならば其の理は如何や。
寝息が聞こえて、幾ばくか過ぎた頃だろうか。
音もなく部屋に差し出された紙を蜻蛉は一瞥だけし外へ出る。
見世先の向こう。野暮と化け物は西の方からやってくる等と。
廓詞を纏わぬ上方の太夫とも思えない己が発想に、内心苦笑する程度の余裕が彼女には有る。一つの慢心とて在りはせず。
星明かりの元に判読出来る事とて彼女の『業』なれど、閑話休題。
結局今の夜、蜻蛉が追い払ったのは仁義も切らぬ手合いの渡世人であった。
その前なぞは火付盗賊改方で、何はともあれ忙しい事で――
「どしたい」
部屋へ戻るなり声がした。
男は頭を枕に乗せたまま目を開けている。
「……何もあらへん、大丈夫」
「そうかい」
男は二言こっきりで、其れ以上は尋ねて来なかった。
蜻蛉とて悟らせるようなヘマを冒した心算もないが、男もまた勘づく程度の生を送ってきたのだろう。
難儀な物だ。
男は凶状を持つ身の上だった。
追われ続け、戦い続け。満足に寝る事すらも、儘ならなかったに違いない。
其れが選りにも選って脇差しの一振りさえ置いて往かねばならぬ色街が――蜻蛉の膝が安住の地になるとは皮肉なものだ。
遊ぶでもなく、女を抱くでもなく。只眠る時を求めてこうしてやって来るのだ。
「大丈夫やよって」
前へ座り、今度は幼子にしてやるように頭を撫で。
「もう一杯だけ頂けるかい」
矢張り冷めた湯を。茶(ねむれぬもの)すら、出すべきではない。
二人で飲む白湯は、冷えてきた身体にゆっくりと染み込んでいった。
「このまま寝かせないほうでも、うちはかまへんけど」
「そりゃ勘弁してくれぃ」
男はまた、くしゃりと口元を歪めてはにかみ、煙管を取り出した。
「一服いいかい」
「つけはったら。今度こそ、どうか休んでおくれやす」
――――
――
そうして気づけば、膝の上の重みは稟花(愛猫)であった。
やわらかな毛並みを撫でると、彼女は蜻蛉の指先に首元をこすりつけ、瑠璃色の瞳を細めて喉を鳴らし始めた。
「今頃……どうしてはるやろか」
稟花に話しかけるように独り言つ。
指先で弄ぶ朱い煙管は、其れでも微かに甘い花の香を湛えていて――
「……寝よか」
先ほどまで褥を照らしていた淡い月明かりは、もうとっくに山の向こうへ墜ちていたから。
稟花の両脇をそっと抱えてやると、小さな姫君は其の儘てろろんと伸びて顔を背けた。