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月、傾けば再び満ちて
登場人物一覧
夏の残り香を感じ取りながら、月折の屋敷を歩むのは次期当主『紅椿』であった。代々は武人を輩出する獄人の家系であった月折は現在では兵部省に所属する者が多い。
次期当主に華の二つ名を有するその人は整ったかんばせに憂いを乗せていた。紅椿の名を有する次期当主、月折・社の視線が追いかけたのは庭先で稚児たちと遊び回る分家の青年、月折・鼎であった。
月折の分家筋の子供達――鼎にとっては従兄弟にあたる。勿論、社にとってもそうである――は稽古を付けてくれないかと彼へと声を掛けている。それもその筈だ。武人ばかりの月折の中でも鼎の実力は折り紙付なのである。そう、彼が分家の生まれでなく直系の血筋であれば間違いなく次期当主は彼であっただろう。
(……と、思っても意味は無いんだけれどね)
家内でもそうも称される彼に稽古を付けて欲しがる子供達も皆、兵部省に配属されて国家のために役立つことを夢見ているのだろう。
屋敷で書類整理に追われる次期当主よりも人気はあるのだろうか、と。そう感じ入るほどに社は溜息を吐いた。
事実、陰口でも叩くかのように鼎を次期当主にするべきだと宣言する者は居る。分家筋の者達が挙ってそう口にするのはそれが『自身らの未来』に役立つと思っているからなのだろう。同郷の者と比べれば色素も薄く華奢な社を実力者と見做さぬ者達であるのは確かだ。それに目くじらを立てるほどに『次期当主』も暇ではない。
「そうは言っても、まあ……」
彼と仲良く会話をして居る暇さえないと言うのも物寂しいものである。幼少期より月折の次期当主となるべく教育を受けてきた社の『先生』を務めていたのは鼎であった。
少しばかりの年の差ではあるが早くに剣の才を開花させ、目覚ましい戦歴で月折の名を兵部省にも轟かせた鼎は自身にとっても憧れの存在だったのだ。
――いつか、鼎のように立派な武士になってみせる!
――ああ、俺を越えて強くなれよ。社。お前はこの月折を背負うんだ。
そんな風に木刀を握りしめ、稽古をし、夢を語り合いながら目を輝かせたのも遠い過去である。
社の背が伸びるごとに、鼎との間に横たわった歴然とした力の差は
華奢で細身、傾き者であるかのようなルックスの社は自身の身を着飾ることで豪奢なる次期当主という像を描くことにして居た。大して奔放でありながらも実力をひけらかすこともない豪快で明快なる鼎はと言えば軽装を好んでいる。
『紅椿』と対照的な実力者。分家の血筋でありながら本流にも負けず劣らず――そんな風に口さがなく告げる者がいれば自然に足は遠のくものである。
(……言われなくても、分かってるんだよね。鼎の方が当主に向いて居ることくらい。
月折は獄人による『武人』の家だ。武家を継ぐのは代々は『男』と決まっている。なら、屈強な男であった方が好ましいだろう。僕は――)
幾ら鍛えようとも筋肉の増えぬ細身の体は陽の光にも負けてそうなほどに白く澄んでいた。一度は鼎のように肌を浅黒く灼けば貫禄も出るだろうかと夏の日差しの中で肌を晒したことがあったが、直ぐに真っ赤に盛るように肌は色づき痛みだけを残していったのだ。
武家の次期当主でありながら、武人達に何の誉れも感じて貰えぬ自身よりも明快に笑う鼎の方が当主に相応しいはずだ。
もしも、もしもだ。彼が当主になったならば、自身は良き『兄妹』のように傍らに居ただろう。実力は伴えど、鼎は深く考えることは苦手だ。浅慮とも言えるほどに彼は『真っ直ぐに飛び込んでいく』男なのだ。そんな彼の頭脳にでもなってやることが出来たならば。そんな風に憧れたこともある。
「紅椿」
ふと、思考が中断された。顔を上げれば先程まで思い浮かべていた燃え盛った陽の色の瞳が楽しげに細められている。
傾き者とまでは行かずとも派手な衣に身を包んだ鼎はちょいちょいと手招いた。まるで幼子を誘うような仕草であると社は溜息を吐く。
「鼎? 一体、何の用で……」
「この坊達がアンタに稽古を付けて欲しいんだと。アンタが憂鬱そうに溜息ばっか付いてるもんでな、俺に助けてくれと声を掛けてきたんだ。
次期当主様が『はあ、はあ』大きく息を吐いて何をそう悩んでいるんだか。漢字でも読めなかったのか?」
社はぱちりと瞬いた。揶揄うような声音に子供達がくすりと笑う。軽口まで交じらせた彼の気安さは何時ものことだが、それよりも気になったのは稽古を付けて欲しいという言葉だ。……てっきり鼎に稽古を頼んでいたのだと思って居たが、子供達の目的は自身だったのか。
「君達が稽古を? 勿論、僕で良ければ稽古を付けよう。……ああ、けど、鼎も一緒にどうかな。
僕だけでは教えられぬ事もあるだろう。次世代の育成というのは、本流も分家も関係はないだろう?」
子供達に目線を合わせしゃがみ込んでいた社がそう言って視線を向ければ鼎は目を丸くして頬を掻いた。
「俺が? アンタと? こいつらに?」
それ以外に何が有るのか。抗議するかのような社の瞳を受けてから鼎は嘆息した。座学以外なら良いとぽつりと呟いてから子供達に準備をしてこいと背を向ける。
「道場に来いよ。紅椿、アンタはこのまま道場でいいだろ?」
「あ、ああ。勿論……」
共に来いと手招く彼に導かれるように。慌てて社は走る。歩幅でさえも彼との体格差を感じて、少しばかり憂鬱だ。
「社」
ふと、珍しく彼が名を呼んだ。『紅椿』と投手に与えられる二つ名を呼ぶばかり。名を呼び合うような関係性ではなくなったのかと思っていたのに。
「外野がとやかく言うがアンタは気にしなくて良い。何をウダウダ気にしてるのかは分からないけどよ。
……昔みたいに『鼎、待って』って追いかけてくりゃいいだろ。アンタが次期当主になるのは俺の中で確定なんだよ。知と武の両方が揃わなきゃ当主にゃなれねぇ」
「……鼎には知がないからね」
「テメェ……――ま、そう言うこった。俺はアンタの右腕だ。困ったことがありゃ真っ先にこの刀を振るってやるよ。褒美は酒で構わねぇ」
揶揄うように笑った鼎を見てから社は心の中に巣食っていた煩わしい憂いが拭われた事に気付いた。
当主に相応しいのは彼だという人も居る。それは確かにそうだ。社とてそう思う。だからといって、席を譲れるほどに月折の歴史と血筋は易くはない。
己は次期当主の『紅椿』として大輪の花を咲かせねばならないのだ。その不安が、重責の如く己に圧し掛かって居たか。
「なら、書類が山積みで困っているのだけれど」
「……そりゃ困ったな」
「困ったことがあれば、その力を振るってくれるんじゃなかったのかい?」
ふい、とそっぽを向いた鼎に社はふ、と小さく笑った。武士は一度主を決めれば『二度とは違えない』――彼のその言葉が、月折の家のために、次期当主を主と定めたものなのであれば。その期待に応えていかなくてはならない。
幼き日に、彼より学んだ刀術と培ってきた知識を活かしこの月折を立派に導けるように――
「紅椿、稽古が終わったら一杯やろうぜ。丁度良い酒が手に入ったんだ」
「稽古中には飲まないように」
軽口を叩ける『何時も通り』の二人に戻れば、屹度、次の『月折』も正しき道を辿れる筈なのだ。