星月夜の桃源郷

登場人物一覧

　おおきなてのひら。
　やさしいほほえみ。
　あたたかいかいな。

　おにいちゃんがいれば、ぼくは。

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　目を覚ました時に聞こえてくる声はいつも、きょうだい誰かの泣き声だった。
　じゅう、と肌を熱された鉄棒で焼かれたり。殴打の嵐に投げ出されたり。そんな毎日だった。
　膿んだ肌は。青く色付いた肌は。深く深く、こころの奥まで傷付いて。隙間風で震える小屋に幾度肩を震わせたことだろう。ひとの足音が隙間風に乗って人狼族の耳を震わせる。大人はいない。だから、護ってくれるひともいない。村人たちの鬱憤のはけ口にされる毎日は酷く疎ましくて、怖くて。
　震えるリュコスをいつも抱きしめてくれたのはライカンだった。
　古びた小屋の中に居る子供の人狼の中でも『おにいちゃん』だった彼は、きょうだい皆から慕われる優しい兄だった。彼とて村人たちから暴力を受けていたのだけれど。リュコスをはじめとする幼いきょうだいたち。おとうとを、いもうとを怯えさせぬようにと、何を受けても声をあげることすらしなかった。
　いつも穏和に微笑み、村人たちが立ち去ったあとに、末っ子たちが心配になって駆け寄ることを静止しながら、小屋に戻ってくる。そんな兄だった。
　いつかのときに何故駆け寄るのを止めるのかと聞いたことがある。ライカンは笑って告げた。
「だって、リュコスやみんながそれでもっとけがをするかもしれないだろう？」
　と。食事もまともには貰えず、痛みに足を引きずっていることすらあった。今思えば骨だって折れていたかもしれない。まともに食事の出来ていない身体は細く、歩くことすらままならない。生命力が強い種だったために生きていることが出来たけれど、それが同じ人間だったならどうだろう。大人のおとこから、そうでなくとも多くの人間から与えられる蹴りは、殴りは、それだけで人間ひとり殺すことが出来るだろうと確信させる。そんな痛みだった。
　がちゃがちゃと音鳴らす鎖を鳴らさぬように動くだけで精いっぱいだった。いつしかそれは錆びて、けれど、繋がった振りをしていなくてはいけなかった。そうでなければ、もっと『いたい』から。

　ある日のことだった。
　村人たちがいつものように寝静まった夜のことだった。
　きょうだいの一人が、お腹がすいて眠れないと泣き出してしまったのだ。うるさくすればそれ以上の応酬が返ってくる。だから泣かせるわけにはいかないのだが、それにつられて泣き出してしまうきょうだいたち。
　リュコスも目の淵に涙をためて。我慢こそしているけれどまだ子供。食べ盛りかつ育ちざかり。生きているだけでお腹がすくのに、まんぞくに食べることもままならないのならなおさらだ。
　すすり泣きが薄く響く。宵空に切なくとけた声。ライカンは笑った。
「明日は、ちょっとだけ『おでかけ』をしようか」
「おで、かけ？」
「そうだよ、リュコス。実はロープがきれいなものをみつけたんだって。だから、明日はみんなでそこに行こう」
「……！」
　小さな歓声あがる。夜ならばゆっくり、ロープが鎖を外せるから、なんてライカンは笑って。
「だから、今日はもうおやすみ。明日の夜は、楽しいことがたくさんあるからね」
「うん、おにいちゃん」
　ライカンの笑顔は人を安心させる。それはわかっていたのだけれど、さっきまで泣いていた末の子をすぐに笑顔にしてしまう。そんなおにいちゃんが、リュコスは大好きだった。
「さ、リュコスも寝よう。こっちにおいで、一緒に寝よう」
「うん」
　広げられたそのかいな。あたたかいそこに、薄ら涙滲んで。背も高くからだもおおきい。それでも、彼もまた飢えた人狼の『こども』だ。ぎゅっと抱きしめたその身体は細く、頼りない。
　腹が減っているのは皆おなじ。ただ、それを耐えられるか、それを耐えなかったあとの仕打ちを考えることが出来るか。それだけの違いだった。

　次の日。
　その日は奇しくもライカンが痛めつけられる日だった。
　今日はお前だ、なんて下卑た笑みを浮かべた大人たちに鎖を解かれ、犬のように連れていかれる。不安げに涙をためたおとうとたちに、ライカンは安心させるような笑みを浮かべて。
　ロープが耳を塞ぐように促した。小さく漏れてくる呻き声。ぎゅっと目を瞑って、耐えることしかできなかった。きっと痛いのだろう。きっと苦しいだろう。それを露にしない兄の姿は偉大だった。鼓動の音が大きく聞こえて来た。やがて、リュコスは眠っていた。
　目を覚ますと、空は紺。ぼんやりと身体を起こせば、隣では緩やかに寝息を立てるライカンの姿。頬は赤く服は血で汚れていた。
「お、おに、ちゃ……！」
「大丈夫だ、今は寝てるだけ。生きてるよ」
　ロープはリュコスの頭を撫でる。心配そうに手を握るリュコスを安心させるように笑って。
「それより、もうすぐ夜だ。足だせ、あと首も。ちょっと目閉じろ、取るからな」
　ロープが小さく針金を出した。がちゃがちゃと鍵穴それをねじ込み、がちゃりと錠を開ける。
「次はリュコスだ。こっち」
　手招かれ、鎖はとけた。軽いからだ。初めての感覚に戸惑うリュコスを抱きしめたのは。
「おにいちゃん……！」
「もしもこの小屋が燃えてしまったら、皆を逃がそう、なんて話してたこともあったんだよ。今日は、その練習」
　あたたかな掌が、リュコスの頭を撫でた。微笑んだライカンは、扉を開けてほほ笑んだ。

「さぁ、行こう」

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　初めて踏み出した一歩は不安定で。草道を掻き分けて、森の中へと進んでいく。
　たわわに実った桃を捥ぎ、食べながら進んでいくと、開けた崖があった。
「ここにね、皆で来てみたかったんだ」
　満天の星空、広がる。
　美しい紺碧の青、煌めく銀の星屑。まんまるなお月様がぽっかりと空に浮かんで。
「おにいちゃん、これ、美味しい……！」
「ふふ、うん。そうだね」
　両手一杯、お腹いっぱいに食べる桃は、酷く甘くて瑞々しい。空腹は一番のスパイスというが、それ以上に家族みんなで食べた桃はとても美味しくて。
　とろける果実を飲み干して、甘い果汁を吸い尽くす。
　美しき青は、そこにありありと広がっていた。
「リュコス、こっちにおいで」
「うん」
「……どう？」
「たの、しい」
　きらきらと瞳を輝かせたリュコスに、ライカンは微笑んだ。
「そっか。それなら、良かった」
　甘い桃の香りに溶け込むように、うっとりと微笑んだライカン。夜の空にしあわせな思い出は溶けていく。
　甘い果実をたらふく食べたら、しあわせな夜に眠ろう。
　こんな日がずっと、続けばいいのに。

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　目を覚ませば、其処は地獄の続きだった。
　最低で、下劣で、汚くて。
　そんな薄汚い母屋だった。
「おはよう、リュコス。良い夢を見ることはできたかい？」
「……うん。とっても、幸せな夢だった、よ」

おまけSS『眠る君へ』

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　満腹になるまで桃を食べた小さいきょうだいは、すうすうと穏やかな寝息を立ててしまった。
　このまま遠くへ逃げ去ってしまいたかった。こんな小さいからだで暴力を受け続けるのは、だれとて限界があるからだ。
（……すまない、リュコス）
　幸せそうに頬に桃をつけたまま眠るリュコスは、風に震えながらも眠っている。
「さぁ、帰ろうか。寝てしまった子はおぶって、無理そうな子は起こしてあげよう」
　小さなその身体が少し重くなった。それだけが、嬉しかった。