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望郷薫香
登場人物一覧
――穏やかな陽光が差し込む日の事だった。
ルツ・フェルド・ツェルヴァンの領地が一角、ヤレトゥ平原。
そこに至るは遊楽伯爵と謳われし貴族が一人――ガブリエル・ロウ・バルツァーレク。
「今日はお招きいただき感謝申し上げます、ルツさん――
ふふ。こうして茶会にお誘い頂けるとは、思っていませんでした」
「何。遊楽伯から受け取った支援を思えばこの程度……あの折は実に助かった」
二人はテーブルを挟みて茶会を共にしている。
並べられしは香り豊かな紅茶。傍に添えられしティースタンドにはサンドイッチやスコーンにケーキ……所謂かなアフタヌーン・ティーである。美しき食物の塔は、より卓の彩を飾る光景――
折角にも遊楽伯爵を招待するならば、とルツが趣向を凝らしたのである。
そもそもの経緯は――己が領地の支援を彼から受け取った事、だ。
領地政策。一定の範囲の領土を信頼ありしイレギュラーズに委託する――そのような世界的な取り決めがされて以降、ルツもまた同様に……幻想の一角に己が領地を得ていた。
しかしやはりというべきか『何処』であろうと『同じ』な訳ではない。
例えばアーベントロート領であれば暗殺令嬢が領土に訪れる日がある様に。
バルツァーレク領では――時に遊楽伯から微かなれど支援が届く日があった。
見返りを求める様な事もなく遊楽伯はイレギュラーズの支援になれば、と物資を送ってくるのだ。それは彼の元来の優しさ故というべきか……恩義を感じたルツは、だからこそ遊楽伯への感謝も込めて茶会を開いた。
「――遊楽伯は大貴族。その口に合えば良いが」
「いえいえ。私程度の舌をお気になさらずとも……
おや、ふむ……この柑橘系の香り……成程。中々上質なモノを育てられている様ですね?」
「ああ――何。この世界に来る前から、紅茶とは色々と縁があってな」
同時。鼻を擽るのは微かに柑橘の香り。
――ベルガモット。紅茶としてはアールグレイの香りとして有名なモノだ。
スイートレモンやライムとオレンジを交配したともされるその匂い。精神的疲労をやわらげたり抗不安作用もあるなど様々な益もあるが……なにより純粋に善き香りであると言えるだろう。紅茶にとって香りほど重要なモノはない。
ソーサーを持ち、口の中に運べば――ゆっくりと喉の奥へと。
さすれば至る爽やかな渋み。嗅覚で楽しみ味覚で躍らせる一滴が誠に至高の一端であれば。
「――素晴らしい。
この世界に来る前から……と言われていましたが、随分と嗜まれていた様で」
「ふ、む――何と言うべきかな。まぁ……そうだな。
『合間』の供として、紅茶の香りは確かに随分と楽しんだものだ」
遊楽伯は視線をルツへ。
今遊楽伯に出した茶葉は、何を隠そうルツの領地で生産された代物である――領地各地で営む農業はベルガモット等の香りづけをした茶葉の生産が主だ。しかし何故『茶葉なのか?』と問われればそれはルツの元々の世界からの出来事に遡る。
直接的な言葉こそ濁したが彼は『甘味』を実に好む。
そのお供として好んだのが珈琲などよりも紅茶だ――
注いだ瞬間から部屋に香る芳醇にして優雅、気高き一時が彼の魂を安らげ。
元の世界では――それこそ幾年幾十年――
いや数え切れぬ程の時をこの揺蕩う絶品の一時と共にあった。
「が、『まだまだ』だがな」
「おや? これでも中々に上質な代物だと思いますが……ご満足されていない?」
「ああ。これでは足りない――これではまだ駄目だ」
眼前。ルツはティースタンドに在りし最下段からジャムサンドイッチを摘みて一口。
同時に想起するのはかつての世界で己が最も嗜んだ紅茶――モルティーだ。
「ほう、モルティー……?」
「混沌の世界にあった中だと……そうだな。アッサムの味と香りが近いと言えるか。
アレを更に高めた逸品だと思うのが恐らくイメージに一番近い」
――元の世界では凡そ百年は飲んでいただろうか。
アッサムの上位互換とも言える幻のモルティー。召喚された混沌世界で、他の茶葉はあっても、かのモルティーが無い事にだけはある意味心に衝撃が走りそうであった。当然持ち込んでもいなかった身ではあの味わいはもう暫く楽しめていない――
だからこその『目標』でもある。
「どうにかここでも作れないか――とは思っているのだがな」
「その言い方……よもや今も研究されている?」
「研究……という程ではないかもしれんが、試行錯誤中だ」
視線を横に。その彼方にありしは一つの部屋だ。
あの部屋では茶葉の組み合わせが行われている。研究室と言っては些か大げさかもしれないが、そう――モルティーは味わえこそせねど、しかしあの味わいをルツは忘れた事はなかったが故に。記憶が。魂が覚えているあの香りと味の再現をせんと――日々邁進しているのだ。
ゆくゆくは上手く行けば特産品にしたい所である。
なんなら今目に見えている畑は全てモルティー畑にしても良いぐらいで……いや領民から只でさえ強面で恐れられてるのに、それはやりすぎだろうか? ある日いきなり畑を一新するとか言ったら何の怒りに触れたのかと思われるやも……
「ふむ……ならば私が協力できることがあるかもしれませんね」
「……遊楽伯?」
「ふふ。これほどのアフタヌーン・ティーを楽しませて頂いているのです。そうですね――ラサの商人に連絡を取ってみましょう。様々な商品が集まるかの地であれば、珍しい茶葉が見つかるかもしれません……モルティーそのものはないかもしれませんが、しかし未来への道を切り開けましょう」
瞬間。カップを置いた遊楽伯が紡いだ言葉は、更なる支援の一言。
――商人ギルドに幅広い顔を持つ遊楽伯ならばラサに連絡を取るのもそう難しい事ではない。そしてラサを通じて深緑や、或いは他国へも……それだけのネットワークを用いればルツの紅茶事業にも新たな光が見えるかもしれない、と。
「いやしかし――そもそもこの茶会自体が遊楽伯への礼だ」
が。ルツにとってみればそうそう恩を重ねられるのも、なんとも心苦しい。彼の言うようにそもそもが支援の礼をしているのに、その場で更に支援をしてもらうなど本末転倒というか……
「良いのですよ――ええ、というか、まぁ……そうですね。
本音を言えば、無償ではありません」
直後。柔和に微笑む遊楽伯がルツを見据えて――
「――完成した暁には私にもモルティーを一杯、頂きたい。
ああ、それだけではなく……この美味なるアフタヌーン・ティーの形式で、もう一度」
紡ぐのは。再なる茶会の要求、か。
……出資に対して割の合わぬ要求だと思うが――ああ。
「流石は美食家と名高い遊楽伯だ。食への探求は人一倍、か」
「そういう貴方も、至高の味わいを是非にと追い求めている」
「違いない」
無表情である筈のルツの口端が緩むのは、さて。
ある意味同類とも言える者との語らいであったが故か?
「では――その支援、ありがたく受け取ろう遊楽伯」
「ええ――これからもよろしくお願いしますね、ルツさん」
芳醇なりし香りが未だ揺蕩う中にて、二人の心はどこまでも晴れやかに。
再びカップの中の雫を喉の奥へと運べば……たまらぬ幸福に体が包まれるものだ。
ツェルヴァン領の一角で交わされる約束。
彼方で鳥の囁きが聞こえる――穏やかな陽光が差し込む日の事だった。