SS詳細
ちいさな海
登場人物一覧
●夢の小唄
それは慣れた悪夢だった。
絶望の海の記憶が再現する終わりなき怨嗟の世界をベークは駆ける。
廃滅病に侵された体で、仲間だった、あるいは敵だった誰かに呪いを投げかけられながらそれでも前へと。
しかし、それもいつまでも続かない。どんなに強い者のでも滅ばないようには出来ていないのだ。
今回は死んでいった者の怨嗟に足をもつらされて海に堕ちる。
灰色の海に叩きつけられて狂王種の餌になる、ごく普通に慣れてしまったゲームオーバー……だが。
――かえっておいで ここは花咲く岬――
灰色の海に叩きつけられたはずのベークを鮮やかな珊瑚礁の海が迎え入れた。
先ほどまで戦っていた筈の怨嗟は消えて、生命に溢れた海がそこにある。
(ああ、これは夢ですね)
ベークは口からごぼりと息を吐きだしながら自覚した。悪夢の終わりからまた別の夢にでも繋がってしまったらしい。
だってこんな暖かで穏やかな海はあの絶望の海域に無かった。
見上げた海面にはピカピカに磨いた金貨の様な月が登り、周りの珊瑚は口を花のように開いて
恐怖も痛みも無い。奇妙な親近感だけが胸の中に満ちる。
――幼心の夢 白い花 飛んで――
懐かしい歌だ。
子供の頃に誰かが唄ってくれた声そのままに暖かな海に満ちていく。
ベークは母というものを知らないが、もし母の腕に抱かれたならばきっとこんな感じなのだろうか。
ぬくもりの中で安楽に身を委ねながら……優しさ、そう、優しさだ。かつて触れた柔らかな心が記憶を通じて自分自身に注ぎ込まれている。
(記憶が夢を作る、と言いますが。これは……)
気が付けば体はどんどん小さくなって揺蕩いながら海の中へと落ちていっていた。
唄を捧げられるにふさわしい姿に戻っていっているのだ。と心の片隅で思った。
――小舟のゆりかご帆を張った 波のあわい――
世界がもっと小さかった頃、自分が今よりもずっと傷がなく呪いを知らなかった頃、教えてもらった歌の意味も分からずに何度も歌っていた。
あの人の声に合わせて歌うと楽しくて、自分が歌うと合わせて歌ってくれるのが嬉しかった。
子供のヘタな歌に付き合わせたのは今になってみれば少し恥ずかしいが、それでもこの記憶は温かさが勝る。
――あなたとわたしの小さな海――
●夜の小唄
「あなたとわたしのちいさなうみ……」
はた、と、ベークは暗がりの中で目を覚ました。
歌う珊瑚礁も天頂に輝いていた満月も消えて、見慣れた部屋の見慣れた天井がある。
「……最近はすっかり歌っていませんでしたね」
自然と歌が零れ落ちた喉に手を当てる。
しばらく後、星空の窓辺に小さな歌声が響いていた。
おまけSS『ちいさな海の歌』
かえっておいで ここは花咲く岬
幼心の夢 白い花 飛んで
小舟のゆりかご帆を張った 波のあわい
あなたとわたしの小さな海
暖かな水面に映る月
昔日の思い宿して 静かに揺れている
別れ嘆き 響いた二声は一つに
かえっておいで ここは珊瑚の野辺
魚の吐息 淡い夢 探し
虹の根までと何処までも泳いだ 雨のおわり
あなたとわたしの小さな海
暖かな水面に映る月
昔日の誓い起して 輝き溶けている
思い出を偲び 響いた歌はいつしか