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父は遥かな大海の先に
登場人物一覧
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『幸運と勇気』プラック・クラケーン(p3p006804)の両手が真っ赤に染まっていた。指の間から滴るその赤は、紛れも無い自分以外の血だ。
くらくらするような血臭の中で、すぐ目の前には実の母親が倒れている。その腹に、短剣が突き刺さったまま。
「はぁ、ハァッ、ハアッ、な、なんで、なんで――!!」
母親の手を握りしめた、その指先は段々と冷たくなっていく。今、命の火が消えようとしているのだ。
眩暈がした、吐き気を覚えて中身を吐き出した。咳き込みながら床を這うように動いて、そして床を爪で引っ掻いた。
――プラック。どうか、お父さんの事は恨まないで欲しいの。
あの人はいつだって自由なの。
あの人はいつだってお家にいなかったわ。
今もきっと、あの人が好きなように何処かへ旅をしているだけなの。
一度きりの人生、貴方も好きな事を好きなようにやりなさい。
大丈夫よ、あの人は、きっと……帰ってくるわ。
きっと、……。
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海洋にて。
その日は良くない事が頻繁に起きていた。
「げっ」
目を覚ましたら洗濯物はびしょ濡れ。夜もすがら雨が降ったのか、もう一度全ての洗濯物を洗うことになった。
「臭っ」
朝食べようと思っていた食材が、一部腐っていた。なんとも言えない酸っぱい匂いが台所中に充満していた。
「いてッ」
外に出かけたら、人生で絶対に起きないだろうと思っていたが……バナナの皮で滑って転んだ。
また道路を歩いていたら、見知らぬ男性に話しかけられて道を聞かれながら、なんとなくお尻を触られたような気もするし、行きつけの飯屋は今日だけ休日になっていた。
「嗚呼、不幸だ……」
自慢のリーゼントも、今日だけはどことなくしょげているように、その先端が下を向いている。
それでも自分の気分を持ち上げるように、拳を強く握ってから腹の下に「むんっ」と力を入れた。弱気になるなよ自分、と心で呟きながら。
一年が三六五日あるのなら、たった一日くらいそういう不幸が重なる日くらいあるものだ。それに、それがなんだというのだ、少しずつカバーしていけばいいだろう。
公園の公衆トイレに入り、リーゼントを整え直してから鏡を見る。
ふと、鏡の奥に見えたのは自分の後方からのたのたとやってくる暫定ガラの悪いお兄さんたちの群れだ。
恐らくこれから、自分はたかられるのかもしれない。
いや喧嘩か?
丁度苛立ちが少しずつ燻ってきたころだから、売られたら買うのも一興かもしれないが、そんな事に拳を使うのもプラックとしては心が引けてしまうのだ。
そして想定していた出来事は起きてしまう。壁に背をつくプラックを、半円のようにお兄さんたちは囲みながら言うのだ。
「なあお兄ちゃん、俺たちお金がないんだよね」
「あ? 今持ち合わせないッス」
「本当~? 飛んでみてよ」
なんという定型的な流れだろうか。呆れを通り越して鼻で笑ってしまった。
一応と、形ばかりにその場でジャンプをしたプラック。もちろんチャリンなんて鳴るはずは無い――が、不運にもポケットに入れていたいくつかの家の鍵が擦れてちゃりんと鳴ったのが、金銭だと思われたらしい。険しい顔が迫ってきた、いくつが怒号が混じっていたが相手の滑舌が悪すぎて聞き取れない。
ガンのつけ合いに負けじと瞳を細くしながらも、
「やっぱり今日は不幸だ……」
とプラックは嘆いた。
そんなこんなでひと悶着あり、草臥れながら家に帰ると――。
「そんな」
プラックは目を疑った。
まるで強盗にあったかのように家は荒らされ、そして母親が――母親は。
「お袋!!!」
力無く転がっている母親を抱き起した。ふいに、生暖かいものが手の上を濡らした。
――血だ。
よく見れば短剣が母親の腹に突き刺さっていた。強盗か、それとも、別の何かか。
判った――プラックの目に嫌でも入って来たのは、家の壁にスプレーで書かれた文字だ。
『魔種の一族は出ていけ』
「あ、……あぁ、畜生!! 畜生!!!」
その日、一番大きい声が漏れ出た。
怒りに狂いそうな自分を抑え、胃の中のものを吐いてから床を爪で引っ掻く。
髪の毛程に我を取り戻した瞬間、母親を抱えて信用できる病院へと駆けこむ為に走った――。
――プラック、あの人を恨まないでね――
病院の待合室の椅子に座り、虚空を見つめるプラックの耳にそんな声が木霊していた。
嗚呼、思い出した。
この世界はとても理不尽だったんだ。
魔種――というものが忌み嫌われる存在であり、忌避されるのは何もあの「天義」という国だけではない。
国によって温度差はあるものの、魔種を出した一族の運命はけして明るいものでは無いのだ。
人によって理解はあるだろうが、それは心が寛大な者だけだ、数千人に何人の確率だというのか。
それを除けば、表では良い顔をしていても一定の距離は取ってきたり、後ろ指をさされることなんてゴマンとある。表向きに貶してくる方が余程マシだ、変に社会性が働いてこちらから向こうに近づかないように距離が取れる。
だが、母親へのアレはやり過ぎだ。
「恨まないで、か? 受け止めきれねぇよ……バカヤロウ」
プラックが握っていた拳の指の隙間から、血が一滴ずつ流れていく。
どうして、こんな最悪な状況までになってしまった事か。
元はと言えば、己の父が反転を起こしてしまったのが絶対に悪ではないか。それを恨まないでと母は言う。
いつもあの父は帰ってこなかった。
帰ってきた日は安心していた、母も自分も。大衆から見ればくだらない人形だって、父親のプレゼントという箔が着けば宝物になっていた。
でもあの父は、母を大事にしていたかと言うと、プラックの視点からはそうじゃなかった。
父ならば。
父と名乗るのならば。
せめて、お袋と一緒にいてやれよ。
子供の俺の事なんかどうでもいいからさ――せめて、お袋はさ、幸せにしてやれよ、馬鹿野郎。
『息子』じゃ、カバーしきれない事はあった。『夫』は、母にとって一人だけなのだから。
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一命を取り留めた母親に安堵したが、プラックの眉間にはシワが寄っている。
海洋の衛兵が母を護衛してくれるようで、その手厚さには心から感謝した。
どうやら家を襲撃した者たちは、既に捕まっているそうで、その内訳がどうやら『魔種に家族や大切な人を奪われた者たち』であるようで、それが街の中で『魔種を出した一族』がのうのうと暮らしている事が許せなかったのだという。
「そんな理由でッス、か?」
呆れたような乾いた声がプラックの口から零れた。
優しい目の色をした海洋の衛兵が、申し訳無さそうにプラックを見つめていた。
しかしプラックにはその純粋な瞳に、怯えた。この衛兵は確かにいい人なのだろう。しかし今、プラックは誰をも信頼できなくなっていたのだ。
衛兵を振り切るように走り、息が切れるのも構わずに走っていく。
やがてプラックは、海まで来ていた。
寄せては返す波に足首を浸し。そして、限界だ――吐露するのだ、思いの全てを。
「俺が、お袋が、一体何をしたっていうんだ、親父の馬鹿野郎!!」
馬鹿野郎だ。
嗚呼、馬鹿野郎だ!
家族よりも冒険のほうが好きだというのか。
家族よりも優先するものがあるというのか。
それが強欲だ。それが魔だ。
馬鹿野郎、馬鹿野郎。
「畜生!!」
海の水面を殴る。衝撃はあれど水の中に沈む拳を再度引き上げて、また殴った。
――プラック、あの人はいつだって自由なのーー
「自由なら何をしてもいいのか!!」
――プラック、あの人は今もどこかで冒険しているだけなのーー
「俺たちに今何が起きているかも知らないくせに!!」
――プラック、あの人はきっと帰ってくるわーー
「んな訳ねえ!! 帰ってきたときは、帰って、来た時、は……」
それは。
その時は。
きっと、戦う時だ。
プラックは知っている。
天義の国の波乱が起きたとき、魔を身内から出していた一族たちがどうなっていたかを。
プラックは知っている。
魔へと堕ちた者たちが、助からなかったことを。
あの出来事はプラックにとって、他人事ではないのだ。明日は我が身、いや今日起きる出来事かもしれない。
実際に魔となった父を目の前にしたとき、自分はその心臓を穿てるのか。
日々そういった重圧が彼を押し潰していた。
そうしていたら、何も関係ない母親が、刺されたのだ。
何を信じればいいのだろうか。
周囲の目から逃れたかった。
優しい眼をした誰かだって――その眼の奥の本質では自分の事を下に見ている可能性を疑ってしまっていた。誰も信頼できない、誰も頼れない。
嗚呼、何故、自分は悪くないのに孤独になってしまったものか。
”彼”の息子に生まれた事が、全ての運命の歯車が狂ったのだろうか。
「くそ!!!」
今一度水面を大きく叩いた。水飛沫が上がり、塩っ辛い雫を飲み込む。
水面に映る己の顔――波のままにゆらゆらと蠢いているが、自分でも見た事が無い程の形相をしている。
なんて顔だと、今一度自分を落ち着かせようと顔を上げる。ふと気づけば、プラックの周囲には霧が立ち込めていた。
まるで雪の中のように白い視界の奥で、ゆらゆらと揺れるものがあった。
――あれは、船、であろうか。
びちゃびちゃと二本の足を前後させて、段々と深くなっていく海を恐れずに進んだ。
「親父……?」
ゆらり、蜃気楼のような船は、まるで幽霊船とも呼べる輪郭だ。
「親父なのか!!」
既に頭だけ水面から出て、もがくように前へと進んだ。
僅かな希望は幻想のように。更にプラックを陥れるように、硬いものが飛び込んできた。絡むように硬いものがプラックの胴部に巻き付き海の中へと引きずり込まれていく――。
元より水中行動が取れるプラックだ。海の中、眼を開けば剣を持った骸骨がいた。
(魔物――!!)
条件反射に水中で回転蹴りをした。あっけなくバラバラになった骸骨だが、骨の破片はパズルのように組みあがって元の人間の形を取り戻す。
それが一体目。
海へと飛び込んで来る音が数回続けば、プラックは周囲を骸骨兵に囲まれていた。
アンデット――それも、幽霊船に乗る。恐らく果ての青で遭難し、生きて帰ってこれなくなった者たちだろうか。
ゆっくりと沈んでいくプラックの身体。服が海の動きに合わせてゆれ、口から気泡が上へ昇っていく。下へ落ちるたびに上空の月明かりは遠のいていく。あまり下に沈むのは得策ではない。
海中で滞空するように水位をキープしながら、無意識にプラックは構えを取っていた。
戦うべきだ、だって己は戦士(イレギュラーズ)なのだから。
だが数が多い、水の抵抗は無いものとできるとしてもだ、それでもなお、骸骨たちの猛攻は始まった。
海中であっても打撃一つ一つが重い。俊敏に躱し、背後を取ってから背骨を折るように回し蹴りをする。その間に後ろ側から抱き込まれるように拘束されたが、力で強引に振り切るように身体を揺らした。
背骨を蹴られた骸骨は、再びその身体を再構成させていた――プラックの歯奥がギリリと鳴る。
集中的に攻撃を受けたプラックの視界が揺らいでいく。
月光は遠退き、ブラックホールのような深海に飲み込まれる。生者が羨ましいか、喰らいつくようにプラックの身体を傷つける骸骨。もう駄目か、そう思われたとき。
――カッカッカ!
懐かしい笑い声が響いた。
気づいたときには、波打ち際で寝ていた。
上半身を起き上がらせて周りを見れば、海はなんともなく穏やかに波打っており、霧もいつの間にか消えている。
今見たのは一夏の夢か。
だがプラックのポケットには確かに、あの日父から譲り受けた人形が入っていた。
「親父……?」
プラックの中にあった様々なネガティブな思いを払拭するのではなく、ひっくるめて立ち上がる――探さねば。そして、連れ戻さねば。それはきっと母の為、世界の為。いや自分の為。
逢って一度その顔に蹴りを叩き込み、そして気が澄むまで文句を言うのだ。母が刺されてこんなに大変で自分だって絶望に落ち込んだのを伝えて謝らさせるのだ。
そしたらまた、家族として今度は一緒に居てもらう。いや、一緒に冒険に行くのだ。母を連れて、それからそれから――。
「親父、待ってろ。俺はもう、親父を待ち続けるのはやめた。今度はこっちから会いにいくッス」
魔となりし父は、大海の果てに。