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弥生と睦月とセレーデの話~死神~
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- 黒影 鬼灯の関係者
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調律師が道具を収め、礼をした。睦月は世間話をして代金を払い、玄関までその人を送っていった。会釈をして分かれると、すぐにピアノ室へ取って返す。そして宝箱のようにうやうやしくグランドピアノの蓋を開ける。かがやく象牙の白鍵。艶光るあでやかな黒鍵。睦月は乙女のように胸を高鳴らせながら手甲を外した。ピアノを引く時は素手、絶対。それは暦になる前からの習慣だ。
手を置くと重すぎず軽すぎないタッチで、やわらかくまろい音が部屋に響く。これこれ、この音色。睦月はにんまりと笑うのをこらえきれなかった。室内へこもった夏の暑さが浄化されていくかのような涼やかな音。耳に心地よく響く。ときめきを抑えられないまま椅子を引き、あせる心をなだめすかしてピアノの前へ座る。あとはもう思いの赴くまま手を動かせば、音が連なり自然と曲となる。響く響く走る、いとしの楽器は今回もよく応えてくれている。メンテナンスを終えた直後のぴかぴかの音色はミューズの微笑みにも例えようか。調律されるまでは嫉妬深い女神がついとそっぽをむいていたようだったのに、いまは別人のように明るく笑み崩れしなだれかかってくる。
澄んだ音の粒に曲調で色を付け、紡いでいく技術は日々の努力の賜物だ。楽譜を読み込み何度も何度も理想の音へ近づける練習は、気の遠くなるほど地道な作業だが、好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、本業の会計よりも伸び伸びと楽しんでいるぶん上達が早い。毎日ピアノを触っているから腕が落ちることもなく、睦月の演奏は冴えに冴え渡っていた。これなら頭領から言われた難題もこなせそうだ。
睦月はトランクをあけ、古臭い楽譜の束を取り出した。幻想の孤児院に住まう子どもたちが使っている楽譜だ。これを使って歓迎を兼ねた演奏会を開くように言われているのだった。なかみは簡単な曲ばかりで子供でも弾けるていどだ。せっかくだからゴージャスにアレンジしてみようか。いやいや、やはりこの素朴さを重視したほうがいいか。睦月は楽しく悩んだ。ことりと硬い音が耳を打ったので、睦月は振り返った。ドアの影に隠れるように立っていたのは翠の海洋風ドレスを着た少女だ、ピンクブロンドの髪に金色の瞳、たしか名をセレーデといったはずだ。
「おいで」
と、睦月が笑いかけるとセレーデは軽い足音を立てて睦月へ近寄ってきた。興味深そうに鍵盤を見つめている。不思議な少女だ。整った愛くるしい顔立ちに印象深い大粒の瞳、けれど目に光がない。焦点は茫漠としていて夢でも見ているかのようだ。扱いには少々難があり、トリセツが要る。いわく、母の話題を出さないこと。その禁をやぶったときどうなるのか睦月は知らない。ただ孤児院の院長がすがるような目でそうお願いしてきたのを覚えている。孤児だから色々あるのだろう、睦月はそう捉えていた。
「ピアノに興味があるかい?」
話しかけるとセレーデはこくんとうなずいた。
「わたしね、こじいんだと、ぴあのをひくかかりなのよ」
「そうなんだね」
「こじいんにくるまえは、あでぷとでぴあのをならっていたの」
「じゃあ弾いてみるかい?」
「うん」
睦月は立ち上がり椅子の高さを調節するとセレーデを座らせてやった。少女がピアノへ向かい、古い楽譜を台の上へ広げる。
「難しいやつじゃないか。大丈夫なのかな?」
「へいきよ、もうなんどもひいたことあるもの」
たしかにぽろぽろと爪弾き出した曲には迷いがない。まだまだ表現力には乏しいが楽譜はきちんと追えている。自分以外にピアノの才を持つ子がいると知って睦月はほっこりとあたたかい気分になった。
「上手だね」
「まだまだよ」
「でも一生懸命弾いているね、えらいよ」
「ありがとう」
謙遜までされてはにっこりせざるをえない。睦月は新しい椅子を持ってきて少女の隣へ座り、即興で連弾をした。音と音が重なり合い響き合い、新芽が生まれ大きく育ち葉を茂らせていく。少女の手を引くように睦月は音色で先を指し示す。セレーデがそれに応え、軽やかに追いついてくる。鍵盤の上でふたりは踊った。睦月の音色はセレーデを気遣うようにやさしく、セレーデの音色は、はちきれんばかりの喜びに満ち溢れている。
きっと誰か渡航して音楽でやりとりするのは初めてなのだろう。演奏を終えると、セレーデは透き通るような頬を興奮で染めて睦月を見上げた。
「すっごくたのしかったわ」
「どういたしまして、私も楽しかったよ。セレーデはピアノが上手だね」
「むつきさんほどじゃないの、でもほめられるとうれしい、わっ!」
セレーデが急に大きな声を上げたので、睦月はすかさず彼女を自分の後ろへ移した。
「何者だ……って弥生か」
「……」
ドアの影にうずくまるようにして様子をうかがっていたのは、暦の同僚、弥生だった。彼は暦の実質的な頂点である章姫へ忠誠厚く、手先の器用さを活かした罠による守りの陣は他の追随を許さない。かように有能な彼であったが、ちょっと困った性癖の持ち主だった。
「……きれいな手だな、睦月。今日こそゆずってくれないか。ぬるいホルマリンに漬けて永遠に美しいまま保管しよう」
「やらないぞ」
すこしばかり倫理観がずれているのだった。
「おててがほしいの?」
「ああ」
セレーデがくびをかしげる。
「どうして?」
「美しいからだ。きっともぎ取るときの睦月自身も最高に美しいに違いない」
「いやいやいやいやいや、おいおいおい! 落ち着け、あとやらないからな、絶対にだ」
「じゃあ目でいい。目がいい」
「やらないっ!」
おとなふたりがおとなげなく怒鳴りあっているのを眺めたセレーデは、弥生の手を引いてピアノ室へ招き入れた。
「けんかしちゃだめよ。ふたりでなかよくれんだんするといいのよ」
「「は?」」
思わず腰が引ける睦月、想定外のアプローチに目を丸くする弥生。
「俺は楽器のたぐいは苦手なのだが」
「ひけないの?」
「……弾けるとも」
弥生は若干意地になって答えた。睦月が古い楽譜を指差して挑発するように笑ったからだ。
「楽譜の読み方がわからないなら一から教えようか?」
「いらん。えーと、どれみ、ふぁ、だなこれは」
ポーン、ポン、ポーン。
弥生が手を動かすたびに、拙い曲が流れ出てくる。
「じゃあ大サービス、右手だけでいいよ」
「……ぐう」
「左手はセレーデが弾くかい?」
「はーい」
右に睦月、左にセレーデ、間に挟まれぎゅうぎゅう詰めの弥生。
「なんなんだこれは!」
「れんだんよ、れんだん」
「そうそう、最後まで弾かないと出られないよ」
ふたりがかりでがっちり脇を押さえられ、どうにか突き出した右手で鍵盤を触る。居心地悪いことこの上ない。
「しーどれみーれどしーどれみーしー」
アシストのつもりかセレーデがメロディを歌う、そのとおりに腕を動かすとなんとか形になった。そこへこれみよがしに豪華な合いの手を睦月がいれる。
「いやみったらしいぞ、睦月」
「え~そうかなあ。そんなことないよ~」
「むつきさん、ちゃんとひいて」
「セレーデちゃんに言われちゃしょうがないね。弥生もがんばってしっかり弾くんだよ?」
「……いいだろう、仲良しごっこに付き合ってやる」
弥生は憤然と鍵盤へ向かった。とはいっても急に上手くなるわけでもなし。セレーデの歌に助けられながらぽちぽちと鍵盤を押すだけの作業だ。普段の器用さが嘘のようでへこむし、それを睦月が生暖かい目で見つめてくるのが癪に障る。
えっちらおっちら3人での珍道中は、どうにかコーダを越えて終わった。
「うん、やはりピアノはいいね!」
「がんばったね、やよいさん」
「……なんでこんな目に合わなきゃならないんだ。やっぱり手をよこせ睦月」
「いやだって言ってるだろ、しつこいぞ」
セレーデは光のない瞳でじっと弥生を見つめた。気味が悪いのか、弥生は一歩はなれた。
「どうしてもおててとおめめがほしいの?」
「……そうだ」
「どうして?」
「美しいからだ」
「だったらいらなくなったときにもらえばいいじゃない」
「「は?」」
とつぜん何を言い出すのだこの子はと、弥生も睦月も間の抜けた声を上げた。セレーデはうるわしく笑んで続けた。
「むつきさんがしんだあとならおててもおめめもいらないよね? だからやよいさんはむつきさんがしんだらもらえばよくない? そのかわりむつきさんがいきているあいだはがんばってまもるの。やよいさんがむつきさんのしにがみになるの」
「死神ねえ」
睦月は頭をかいた。弥生が鼻を鳴らす。
「つまらない。滅びゆくものの屈辱と汚濁の中に美があるんだ。死体損壊などして何が楽しいやら」
睦月はうっすらと目を開けた。布団の中だ。弥生が足元に正座している。どうやら深夜のようだ。
「起きたか」
「あれ、えっと私は?」
「動くな、いま頭領と奥方を呼ぶ」
意識が鮮明になると同時に猛烈な頭痛がぶりかえしてきた。
「そういえば屋根の修理費をケチって自分でやろうとして……落ちたんだっけ、私」
「そうだ」
「今月頭領が使いすぎで……」
「そこまで記憶がはっきりしているなら大丈夫だな」
ゆらりと行灯の明かりが揺れる。闇に紛れて弥生の表情は読めないが、ホッとしているのはありありとわかった。
「まったく、俺が足元に座っていたから助かったようなものだぞ」
そういえば聞いたことがあったな、死神が足元に座っていれば助かるという話。落語じゃあるまいしと睦月は小さく笑った。おそらく弥生は、仲間を失う壮絶な思いと戦いながらそこへ座り続けていたのだろう。
「君は私の最後を看取る気でいるのかい?」
「そうだな。いまはそうしてやってもいい気分だ」
「死がふたりを分かつまで?」
「俺の忠誠は奥方のみに捧げられているが、あんたが意外とぬけていることは今回の件でよくわかった。大事な手と目が壊れるなら守るのもやぶさかではない」
「やっぱり狙ってるんじゃないか」
睦月はくすくすと笑うと布団の中で丸まった。