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積み重ねた想い
登場人物一覧
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「ふう。これで終わりか」
執務室の書類に確認印を押した遮那は大きく深呼吸をして背もたれに身体を預ける。
「遮那さん。お疲れ様ッス!」
冷たいおしぼりを差し出した鹿ノ子に礼を言って遮那は目元へそれを乗せた。
「生き返る。鹿ノ子は気が利くのう。……して、何か用事があるのではないか?」
おしぼりを畳みながら、遮那は鹿ノ子へと琥珀の瞳を上げる。
「えっと、疲れているッスよね?」
「いや、問題無い。それとも鹿ノ子は更に仕事をしろと言うのかの?」
少しだけ意地悪な問いかけに少女は頬を染めて首を振った。
「違うッス! でも、遮那さんの負担になるわけには」
「ふふ、冗談だ」
遮那の手が伸ばされ、鹿ノ子の頭を撫でる。ゆるゆると髪の感触を味わうように。
「じゃ、じゃあ。以前、話していた『栗鹿ノ子』という和菓子を探しに行きませんか?」
「栗鹿ノ子か。其方の名前に似ておる菓子だな。うむ。私も楽しみだったのだ。共に行こう」
二人連れ立って、天香邸の外へ歩き出す。
青々と茂る木々の色。
爽やかな風は程よい湿気を含み、肺を新鮮な空気で満たす。
太陽は眩しい程の光を燦々と降り注いでいた。
あの日と同じ清々しいまでの晴天。
ちょうど一年前『出会った日』もこんな青空だった。
――――
――
「あ、あったッス!」
「おお。これが栗鹿ノ子か」
柔らかな栗あんが大粒の栗の実に絡んでいる和菓子を手にした遮那と鹿ノ子。
一口掬って舌の上に乗せれば、ほろりと甘い栗の味が広がった。
「美味いな」
「はい!」
ゆったりとした時間。夏の日差しを番傘が程よく遮ってくれる。
二人の間を駆け抜けていく爽やかな風に目を細めた。
「――遮那さん。聞いて欲しい事があるッス」
「うむ。其方の言葉であれば、どんなものでも聞くぞ」
隣に座る鹿ノ子が何時になく真剣な表情を見せるので、遮那は居住まいを正す。
「僕にはご主人が居るッス。この豊穣に来たのもご主人を探す為なんッス」
孤児である鹿ノ子を拾い大切に育て、そして、小さな命を救えない自分に苛立ちを覚え、原罪の呼び声を聞き入れてしまった人。
「ああ、覚えているぞ。一番最初に出会った時に、話してくれたな。只の孤児である自分が神使に選ばれた理由が分からないと言っていたが……」
「はい。実は、僕にはご主人に拾われる前の記憶が無いんです」
鹿ノ子の瞳が伏せられ、睫毛の影が頬に落ちる。
「妹の事はなんとか思い出せたんですけど……」
長い沈黙の後、鹿ノ子は小さく息を吸い込んで唇に言葉を乗せた。
「遮那さん、どうか僕のことを憶えていてくださいッス。『今』の僕を憶えていてくださいッス」
震える声色には途方もない不安が滲んでいる。
「鹿ノ子? どうしたのだ? 何かあったのか?」
遮那は鹿ノ子の背をそっと撫でた。安心させるように大丈夫だというように。
「また記憶を失ったときのために。もしくは、記憶を取り戻して何かが変わってしまったときのために」
鹿ノ子の琥珀色の瞳が揺れる。決して涙は流れないけれど。堰を切る寸前のようで。
「今の僕のことを、どうか憶えていてください」
――夢を見るのだ。
誰かが自分を呼ぶ声がする。
遠く遙か遠くの記憶から、懐かしい風景と共に蘇るのだ。
優しい歌声が、確かに耳に届く。
懐かしさに追い縋って、浸ってしまいたくなる。
何もかもを捨てて微睡みの中に沈んでしまいたくなるのだ。
目を覚ませば、それが誰であったのか。何処であったのか。
どんな歌声だったのかなんて、全て儚く消えてしまうけれど。
何を伝えようとしていたのかを思い出そうとしても、輪郭は薄れ散って行く。
けれど、それは自分が忘れてしまった『誰か』なのだと、それだけは確信が持てるのだ。
それが遮那がかつて大戦の折に見た夢と同じような呼び声であるかは分からない。
記憶を取り戻した自分が、今のままの自分でいられるかはも分からないのだ。
もし、記憶を取り戻した自分が変わってしまったら。
遮那の事を憶えて居なかったとしたら。
今の自分はそれに耐えられない。怖いのだ。
だから、これは保険のようなもの。
遮那の中に在る『鹿ノ子』を確かめたいから。記憶に残って欲しいから。
たとえ何があっても、この恋だけは失うまいと。枯れてくれるなと。
「……だいすきです、遮那さん」
「ありがとう。鹿ノ子」
微笑んだ遮那の瞳には鹿ノ子が映り込んでいる。
「私も今日夢を見た。兄上と姉上がご健在で、華々しい発展を遂げた都に住まわれているのだ。けれど、私は兄上と姉上の元を離れ闇の中に居るのだ。怒りと不安を叩きつけるように『敵』をなぎ倒しておる。それこそ暴力と言った方が良いものだ。夢の中の私はとても暴力的で傲慢だった」
遮那は鹿ノ子の手を取り、自分の額に押しつける。
「けれども。矢張、其方が傍に居てくれた。それに救われていた」
目が覚めた時、薄れていく怒りと不安の中で残っていたものは鹿ノ子が隣に居たという安堵だった。
「もしも僕が、僕でなくなってしまっても。きっともう一度貴方に恋をするから。
――だからどうか、僕のことを憶えていてください」
鹿ノ子の儚き願い。されど、強く望むもの。
「憶えている。忘れられるはずが無い」
記憶に残って欲しいなんて、生ぬるいものではない。
「怖い夢を見た時は、不安になるものだがな――鹿ノ子よ。もう少し自惚れても良いのだぞ」
その言葉に少女は瞳を上げる。自惚れるとはどういう事なのだろう。
「其方を惑わすその夢の者に、私は嫉妬しておる」
嫉妬という言葉を遮那本人の口から聞く事があるとは思ってもみなかった鹿ノ子は目を瞠った。
「私はその者を知らぬ。だが、鹿ノ子が辛そうな顔をしている原因はその者だ。だからな、私はその者に腹を立てておる。今日見た夢に影響されたのかもしれぬが、鹿ノ子を悲しませるその者が憎らしく思う」
握られた手は震えている。
「こんな感情はな、あってはならぬと思っていたのだ。姉上も罪を憎んで人を憎まざるとおっしゃっていたからな。されど、私はその夢の者を憎いと思ってしまった」
「それって……」
「其方だからであろう。私は名も知らぬ者に其方を取られるようで、嫌だったのだ。
だから、憶えていてほしいなんて生ぬるい言葉は違うのだ」
遮那は握った手を離すまいと僅かに力を込めた。
「――忘れられるものか!」
この一年。どれだけ共に時間を過ごしたのか。
積み重ねて来たのか。
共に語らい、笑い、戦った日々。
どれ一つ取っても思い出が詰まっている。
それをどうして忘れられようか。
鹿ノ子が自分の事を忘れようとも、必ず憶えている。
紡いだ思い出は決して色あせないのだから。
夏の日差しの下で笑顔を向けて、外の世界を教えてくれたのは鹿ノ子だから。
「だから、鹿ノ子も私の事を忘れるな。これは約束だぞ」
約束をしよう。
何があっても決して忘れない。魂に刻む言葉。
たとえ鹿ノ子が記憶を失ってしまう事があっても。
必ず思い出して戻って来てくれると信じて居るから。
「それにな。鹿ノ子にはこれからも隣で笑っていて欲しいのだ」
忘れたりなんてしないから。
其方の笑顔が大好きだから――