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シンデレラ・アンコール
登場人物一覧
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「やっぱり先に行ってて」
西から差し込む踊り場のスポットライト。
あと一歩で下りきるはずの旧校舎の階段。
重ねた口唇の
やがては消える夢の残滓を、なかったことには出来なくて。
逃がさぬように黄昏を踏み、まことなのだと
「どうしたんだい? マジックアワーももう終わる。早くお行き」
見下ろす男の顔は既に宵に飲まれていたけれど、微笑む口唇が動くのだけはかろうじて見えた。
マギーは『先生』と言いかけてやめた。
次に男の名を呼ぼうとして躊躇った。
自分がよく知る情報屋なのか、それとも男に憑いた
「一人じゃ帰らない。そっちの用が終わるまでボクもここで待ちます」
「聞き分けのない子だ。僕を困らせるつもりかい?」
男の口唇が苦笑に歪む。
「だって一緒じゃないと消えてしまいそうですから。そんなの嫌です」
夕筒の星。
桔梗の花。
男とずっと一緒にいたいと願ったことも。
男が想いに応えて
「ここで見たこと起きたこと、それはやがて記憶の彼方に消えるけれど、惜しんでくれるのならば、カーテンコールくらいは付き合うよ。おいで」
男の手が差し出されると、マギーは階段を駆け上がる。
夜に掻き消される前に、二度と後悔するまいと。
年上の男が言うさよならを、聞きたくないから。
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「僕は自分のことを物語を眺めるだけの存在だと思ってた」
それがあらゆる情報を扱い『新聞屋』と渾名される男の言葉なのか、それとも学生達の恋を見守り続けた
ただ踊り場に辿り着いたマギーの手を握って掲げ、腰に手を回して抱き寄せながら静かに告げる。
「政治や軍事、中央のゴシップから地方の噂話まで、ありとあらゆる情報を集めながら、自分自身が物語の当事者になることはない。いわば客席からステージを眺める観客だ」
群青色の帷が下りきるまでの二人だけのダンス。
自分だけが聞く
「自分が演者になろうとは思わなかったんですか」
「思わなかったな」
「どうしてですか?」
「自分で物語を紡ぐよりも、誰かが紡いでくれるのを楽しむ方が楽だからかもしれない。共感はしても傷付くことはないから。自分は役者じゃないと宣言すれば安全が保たれる」
その言葉は少女でありながら少年の
幼い恋心を無残に散らせた婚約破棄。
年上の男に弄ばれて傷付いた自尊心。
少女らしさを捨てて恋愛対象で無くすことが、心を守る為の防衛手段だと、どうしてこの男は気付かせたのだろう。
「あなたも傷付いたことがあるんですか?」
男の背に回した手が、背広を掴むように拳を握る。
胸にそっと耳を当てれば、彼の刻む時を聞くよう。
「恐らくは、多分」
「安全であることは幸せですか?」
「大きな幸せが感情の激流の果てにしか辿り着けないのなら、僕は波風立たないささやかな幸せを一人感じられたらいいと思っていたよ」
「今は? 今もそう思っているんですか?」
踊る脚を止め、胸から顔を上げる。
口元だけしか見えない顔を、闇に目を凝らして確かめるように。
「どうだろう? でも思いがけず僕も舞台に上がった。客席からでは感じられなかった演者の吐息や匂いを感じて、舞台での出来事が夢という劇ではないことを知ることが出来た」
「それは楽しい経験でした?」
「そうだね。楽しかった。だからこそ僕はこの物語の先を望まない」
マギーの目から感情が溢れると、言葉は紡げず男の胸に押し付ける。
終わりを告げられる痛みは、何度覚えても慣れるものではないから。
「この先はどうなるんですか? 夕日と共に消えちゃうんですか? それで全てが終わりなんですか? 体はまだここにあるのに、気持ちだけ無かったことにするんですか? ボクは覚えているのに!」
叩き付けた言葉は、かつて言えなかったこと。
背に縋り付く手は、あの時出来なかったこと。
「幕が下りたら、次の幕が開くだけさ」
男は諭すように言い、宥めるように抱きしめる。
耳元に寄せる口唇はこんなにも近くて、回した腕の輪の中はこんなに温かいのに。
広い背を掴もうと爪は滑って藻掻き、堰を切った感情の波に自ら溺れる。
時よ止まれと願う心に、彼の鼓動が秒を刻む。
抱き合う二人を見る者はない。
「アンコールももう終わる。さあ、シンデレラ。顔を上げて。この階段を下りて、次の舞台に向かうんだ」
「一緒じゃなきゃ嫌です。下りません」
「じゃあ一緒に。君を送らせてくれるかい?」
男は目を細めると少女の身体を離し、エスコートして腕を差し出す。
少女は華奢な手を絡めて隣に並ぶと、階段をゆっくりと下り始めた。
月の
二人で下りた階段に、ガラスの靴は残らなかった。