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瞳の色
登場人物一覧
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愛おしい。
内から溢れるその感情は流さねば破裂するものだ。
他者に慈愛を与える根源であると同時に――人を食い破る怪物でもある。
「だから、だから『私達』は造られたのです」
礼拝。オーダー・メイドのバイオロイドたる彼女の役目は『抱きしめる』事だ。
愛が怪物と成る前に。受け止め、抱きしめ歪みを正し。
人を人とし続ける為に。
さりとて愛は形を持たない。
形持たぬモノを抱きしめるのが無機質無機物有象無象に出来ようモノか。だから沁入 礼拝は思考する。対象の『愛』の形を捉える為に、その手に包む為に。人形として与えられた役目からか、或いは『沁入 礼拝』なる精神モデルそもそもの気質か――
いずれにせよ。
「だから?」
ジョセフは理解し難かった。
「だから、なんだと言うんだ……? 君がそうである、という事と」
一拍、息を吐き出し。
「君が泣いている事に何の関係がある?」
見据える。その先にいる礼拝の目尻から零れている――雫。
訳が分からない意味が分からない。私はここに『話』をしに来たのだ。
正確には問いただしに――いや質問に――否、否。
『我が友』との相瀬を果たしていた彼女の喉を知りたかった。
如何に果たしたのだ『友』との一時を。如何に埋め過ごしたのだ『友』の視界を。
整理しかねる感情の渦は歩を進ませた。『このままでは在れぬ』という意思が彼を突き動かしたのだ。会話の種を持った訳でもなく、ただ『どうしたのか』を問わずにはおれなかったが故に。
答えを己が内で出そうと――溜めてしまえば、破裂しそうだったから。
「落ち着きたまえ。どうしたのだ一体……なぜそのような声を出す」
しかし事態は思わぬ方向へ進んでいた。
『友』との相瀬に関する事は知った。さりとて納得や理解に至ったとはまだ言うまい。
だからこそ会話は続き、やがて身に抱く『愛』の有り様の話になった時――
彼女が涙を零したのだ。
理解という行動よりも先にジョセフは宥めに入っていた。それは彼が人として、聖職者として『そうせねば』と感じたが故に。良心たる心が身を動かす事をとにもかくにも優先した。ああ本当に、一体どうしたのだ。何が触れたのだ、ただ、私は。
「痕を」
印を。
「愉悦を」
苦痛を。
「齎す事こそが愛であると――」
言っただけではないか。
傾ぐ仮面。礼拝を見据え、彼女を落ち着かせようと努めるが、やはりここに至っても理解が及ばない。彼女の涙が。彼女の内が……
「そ、れはお辛いこと、では、ないのですか」
さすれば彼女の口から紡がれた言葉は。
「愛する、こと、それ以前に、生きること、さえ、も」
――憐憫だ。
「息をし辛くは、ないのです、か」
ジョセフが言う事は『拷問』の『行為』の事である。
彼は『苦痛』を齎す事こそに『愛』を見出しているという……しかし、それはきっと違うのだ。誤解、或いは刷り込みの類に近い事でなかろうかと礼拝は推察する。人形の、人形としての思考を止めぬ在り方から導き出した、彼のココロの形。
例えば『秩序の維持』の為ならば、行為に意味を見出す事もあるかもしれない。
しかし公共の必要性すら超えて『行為』自体に愛を、愉悦を見出すのならば。
それは歪であり――ともすればもし、彼の。彼の本質が。
「私は何も辛くなどない」
瞬間。ジョセフは礼拝の二の腕を掴んでいた。
「泣くな。泣くんじゃない。何故泣く。その涙は、哀れみなのか。
私を憐れんでいるのか? 『可哀そう』などとでも思っているのか?
私は品行方正、清廉潔白。神に愛されている身だ。何一つ憐れまれる要素などない」
異端を許さぬ我が身に間違いなどあるものか。轟かせた悲鳴にこそ正義があるのだ。
悪を罰し、罰す立場にあり。道を外れた者を許さぬ、正道を歩む者。なぜなら一度外れた者は、落ちた者はもう二度とどう足掻いても元には戻らぬのだから。異物とは排せしモノであり。取り除かなくてはならない『必要』な事に己は己を投じてきた。
「行いは正義だ。だから、だから私は」
誰もが賛辞した。彼ほど優秀なのはいないと。神の愛に包まれていると。
君は。
「私は、正しいんだ」
正しいと。正しいと。正しいと。
だから、だから――
「正しいから、泣くな。頼む、泣くな。た、頼むから……」
声が震える。仮面の奥に潜められし表情は、奈落の底に落ちているが。
なぜ彼女が己の思考の理解に伴って涙を流したのか――なる『己が側の理解』を放棄して。
いや。
放棄しないと、いけなくて。
「ごめん、なさい」
さすれば礼拝の指先がジョセフの仮面に触れる。
冷たい。熱が無く硬い鉄の塊。外界を隔てし彼の砦。
理解出来ぬジョセフに対して礼拝は『理解してしまった』のだ。ジョセフは、この部屋に来た時から彼であり続けている。節々の言動、身振り手振りから彼という人となりを礼拝は観察していて――だからこそ――
思い違いをしていた。
ジョセフはきっと享楽的で、暴力的で、欲望をひた隠しにしている人物であろうと思っていたのだ。ジョセフの言う『友』……つまり『あの影』と付き合うからには、そういう面があっても不思議ではない。ならば別に多少己が大望の足蹴にしても問題は無いだろう。
彼はそういう人なのだからと、勝手に思って。
下に見て。
「貴方が救われるには、欲望を解放する事だと、思って、いました」
異常を異常と認める事。しかして己はそうなのだ、これが己の是であると発する事。
発露させてこそ初めて解放される精神もある――しかしそれは。
駄目だ。
「業を開示すれば……してしまえば……」
それは抑圧していた何かを解き放つのではなく、傷を開くだけの行為。
傷を抑えていた手を放せば血が噴き出し、崖の先で耐えていた指先が限界を迎えるのと同義。
彼はむしろ傷つくのだろう。
「――ジョセフ、様」
彼の頬を包む。両の手で、そして。
「どうか――教えてくださいませんか、貴方の事を」
「僕、を……? 僕の、いや、私の、事を……?」
違う道がある筈だ。傷を開くのではなく、もっと違う別の何かが。だから。
「僕は……僕、は」
フラッシュバックするかの如く過去が過る。
天衝く壁に囲まれた神の都市。穢れ無き地で生まれた穢れが無き筈の存在。
父と母の名は書類上に存在し『提供者』の判が押されている。故郷に戻れば見る事も叶おうが――記憶の中にはない。あるのはむしろ教会での生活。衣食に教育……全て不足なく提供されて。
「そして――そして――ああ、分かる、だろう?」
不足なく提供されるのと同様に、己も不足なく定められた道を歩んだのだ。そう。
異端を暴き、罰するという道を。
「僕は痛みが好きだ」
傷付ける事、傷付けられる事。思い浮かべるだけですら高揚する。
異端者の指を潰した。背筋を蟲が這いずった。
異端者の背を鞭打った。首筋から脳髄に掛けて震えが過った。
異端者の目を――た。
そしてそれらを己に投影し、果てはあえて向こう側の抵抗を許して己が身に……
「ああ、あ、ぁ、あああああ」
許されない歪みだ。救いではなく、苦痛こそが重要とは。
漏れた声は悲しみ――ではなく、自重するような笑い声。震える肩が、止まらなくて。
「ああ――そうだ。僕は協調性に欠ける子だったな。集中すると周りが見えず……人の表情を読むことも苦手だったよ。『なんでそんな事を言うんだ?』と見当外れな言動を何回繰り返したか……」
奇異なる視線。ともすれば蔑むような感情が込められていたのかもしれない。
皆が遠かった。遠巻きに僕を見ていた。そんな僕を私は見ていたのに、僕は僕でしかなかった。
「もしかしたら、あの距離は……」
人と人との間に距離があるという事。『あちら』と『こちら』
それは争いの最小単位。『あちらはこちらと違う』――つまり『異なる』という事。
「あの距離は、僕こそが」
彼らに、異端だなと――思われていたのでは――
「それは。それこそが、神がお与えになった適正なのでしょう」
そこへ礼拝は言葉を紡いだ。ジョセフの意識を目の前に戻すが如く。
「異端審問官としての余りある適正……道を踏み外さぬ様に貴方に与えられたのです。心を読めない事もまた同じ事。人の憎しみを、苦痛を受け取る事が多い道を歩まれるが故に、目をお隠しになったのでしょう」
「これは――これは神の愛だった、と?」
「ええ。貴方はきっと、神に愛されておられます」
それは安心させるための言葉ではなく、礼拝自身の本心である。彼女は例え一時の事であっても全力で対象を愛する。故にこそ紡いだ、本気の言葉と偽りのない慈愛である。彼が神に愛されていない筈があろうか。そんな筈はないと。
「ならば……ならば僕は、あの時そう叫ぶべきだったのだろうか?」
だからこそジョセフは未だ言葉を続ける。するべきだったのだろうかと。
この世に訪れる前。故郷でも自らを曝け出し、誰かに助けを求めて。
私はこうなのだ、と。
「…………そう、とは限らないでしょう。お話を聞く限り、ジョセフ様の世は」
数秒の熟考。即答しなかった礼拝の思考に過るは『そう』した場合のジョセフの末路。
誰かが助けただろうか、ジョセフの身を。
親すら情報の渦の一つに過ぎぬその世の中にて、自らの内を解き放ったのならば。
「無為……か」
――吊るし上げられるのみだろう。異端者を見つけたぞ、と。
不足なく全てが定められて回る世界だ。実際には全くそうではないとしても、助けを求めたり何がしかの不足を嘆けば『定めの外』にいる者と見なされる。教会に属し、そうしてきた側にいたからこそ――尚に実感する。
異端。異端異端異端。
あいつは違う。あいつは違うあいつは違う。
「誰も周りを見なかった」
見る必要が無かった。だって誰もが『こちら』なのだから。
誰もが同じなのだから。誰もが神の下に同じなのだから。違いなんてないのだから。
だから誰もジョセフを見なかった。
「なのに」
この世に神はいない。己がかつて信望した神は。
「神の膝元から離れたこの地で」
己を見る者がいる。
「――はい。ジョセフ様」
礼拝殿。
「まだ僕を、いや――私をまっすぐに見据えるのか」
「……勿論です」
なぜなら私は、人を愛する人形で。
「今宵、この一幕は。ジョセフ様の為だけのモノ」
他の誰でもない。『かの影』ですらこの一瞬に余地はない。少なくとも、今は。
観察と記録の集積は彼だけに注がれているのだから。
「……人を愛するというのは贅沢品だ。
少なくとも、私の世界においては――神だけに許された特権だった」
「生憎と。私の方では受け止める為の日常品です」
「そうか」
神の愛からは離れてしまったというのに、手を伸ばしても戻れない所に来てしまったというのに。
かつての世の、どこにいても遠くに感じた――たった一つの感情が。
「そう、か」
――こんなに近くに感じるとは。
後に隔てるは、仮面一つ。
「仮面を邪魔だと、感じた事はないのだが」
「……取り外されますか? 今、この時に」
「そう、だな。いや待ってくれ。僕が――いや、だめだ。だめだなどうも、これは。出来る筈なのだが、く、くそ。いや、うん大丈夫だ……う、む。うん――」
仮面を付けたのは守るためだ。自身を、臆病さを閉じ込める為で。
だからだろうか。今その臆病さが先に。顔を、出して。
「ああ、いや、ああ。うん――礼拝、殿……うん、す、まない、が。あぁ――」
「ええ。ではお許しを頂けるのなら……」
極めて平静に。しかし、見えぬ、開かぬ筈の傷が開いてしまうのではと思ってしまえば。
指先が微かに震える。
それでも。深呼吸二つ。肺へと送り込む圧を内に取り込んで――
「――あら」
金属音。甲高く部屋に響けば。
「緑色だったんですね」
貴方の瞳は、と。言葉を紡ぐ。
闇の帳のその向こう。灯が消えた宿がある。
誰もは知らぬ――たった一夜の話の事は。
二人だけが知っている。