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泡沫の世界にさようなら
登場人物一覧
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あるところに、聖女と黒い羽を持った天使がいました。
聖女と黒い天使はお友達でしたが、聖女は悪魔の声に導かれ、自ら魔へと堕ちてしまいました。
黒い天使はなんとか聖女を助けようとしましたが、聖女は断罪され、黒い天使の目の前で死んでしまいました。
果たして、聖女は幸せだったのでしょうか。黒い天使はいつまでも悩み続けておりました。
これは可能性のお話。
あり得た未来かもしれないし、そもそも存在していなかった未来かもしれない。
来なかった未来の残滓なのに、こんなにも恋焦がれてしまうのは何故だろうか。
夢に視るまで思っていたからだろうか。
幻想を観るまで後悔していたからだろうか。
それとも例え幻でも繋ぎとめて痛かった悔しさだろうか。
全てを嘆いたとはいえ、もう、失ったものは帰ってこないというのに。
どうして失う前に、こんなにも大事であったことに気づけなかったのだろう―――か。
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天義(ネメシス)の大戦が終わった直後。
天義の人々は祝いの宴を行う前に、泥のように眠っていた。
スリーパーや真なる夜魔から始まり、月光人形や冠位の魔種が消えた事によって終幕したこの数か月。その疲労は極まりないものだ。復興や未来の事を考える前に、先ずは気持ちよく眠れることに感謝しなくてはならない。
数時間前まで大戦をしていた国とは思えない程に静寂にかえり、しかしその静寂は安寧という言葉も含んでいる。
数か月ぶりに警戒せず夜を過ごせるのだ、誰しもがそれを幸福に思っていた。
それはイレギュラーズの者たちも例外では無く。
黒い翼を小さく折りたたんで、横向きにベッドの上へ倒れ込んだ『穢翼の死神』ティア・マヤ・ラグレン(p3p000593)も、同じだ。
「――……疲れたぁ」
思えば、終戦の喜びに沸く人々とすれ違いながら、ティアは一人心の底から笑えてはいなかった。それは愛しい友人の死がそうさせていた。何故笑えるのだろう、何故喜べるのだろう――と、勝利に沸く道行く人々が憎くさえ思える。
「笑わないで!! 何も知らないくせに!! アマリリスは、アマリリスは―――!!」
そう叫びたい言葉が、喉まで出かけてぐっと飲みこんだ。相応しい言葉ではないことはよくよく理解しているし、社会性という理性がティアを止めていた。
そんなこんなで、ここまでふらふらと歩いて帰ってきてそして、瞼が重い、微睡む暇も無く瞳を閉じた。
化粧も取らず、着替えもせず、身体にこびり付いた汗も、血臭も、煙や埃も今はどうだって良い。明日、起きた時に綺麗にすればいいのだから。
つまり、だから、今は――。
そうしてティアは、小さな寝息を立て始めた。
――小鳥の囀りが聞こえている。
蒼色の蝶々がひらひらと羽ばたき、七色の花畑の上を悠遊舞っている。
庭の隅で黒い猫が毛並みを整えてから、とことこと何処かへ散歩しにいき、心地良い春の風が庭の草の頭を揺らし、緑の香りが鼻を楽しませてくれる。
ふわりと黒い羽がひらひらゆったりと地面に落ちた。その隣に、ティアは着地する。
「ここは……?」
ぼぅっとした意識の中で、周囲を確認した。
此処はどこかの大きなお屋敷のようだ。
ティアには妹がいて、妹が幻想という場所で貴族として住んでいるお屋敷よりは少し小さいが、厳かな場所だ。
すると庭に置いてあるテーブルと椅子に誰かが座って本を読んでいるのが見えた。
思い切り、ティアは息を飲んだ。汗ばんだ両手が自分の服をぎゅっと掴み、棒立ち。
その姿、見間違えるはずが無かった。
一緒に遊び、一緒に依頼に行き、そして助けられなかった『倖せ者の花束』アマリリス(p3p004731)の姿を。
彼女が父の手を取ってしまい、魔種へと落ちてしまったときその桃色の髪は白髪へと変わっていた。
だが目の前にいる彼女の髪の色は桃色のそれへと戻っていた。それはある意味、魔種から戻ってこれている証拠でもあるのだろう。それが何故だか、とても安堵できた。
ティアは躊躇いつつも一歩、歩み、そしてまた一歩一歩とアマリリスへと近づいていく。
紅茶のソーサーに、かちゃりとティーカップを置いたアマリリスは顔を上げ、優しい笑みを浮かべた。
「……アマリリス」
「はいっ。ティアさま、お久しぶりですね」
「えと……元気?」
「はい! おかげ様で。
どうぞ、おかけになってティアさま! 丁度、お話相手がいたらいいなって思っていた頃でして!
お菓子食べますか? それとも紅茶飲みますか? それとも何かお食べになりますか??」
「あ、えと、その」
”生前”と変わらず明るく振る舞うアマリリスに、ティアの表情にシワが寄った。胸の奥を掴まれたように苦しくて、向かいの椅子に座るまでに時間がかかった。
それは彼女が戻ってきていることに対する安堵か、それとも、これが夢だとわかっているからこそ、もう見られない笑顔なのかと切なく思う気持ちなのか、わからないが――――。
『分かっているとは思うが、此処は夢だぞ?』
「分かってるよ、分かってるけど…………ごめん、アマリリス。私は、貴女を救えなかった」
「んー?」
俯いたティアには、アマリリスがきょとんとしている表情は見えなかった。
やがて、ティーポットからティーカップに紅茶が注がれる音が、やけに大きくティアには聞こえた。それ程の静寂が続いてから、ティアの瞳に映ったのは温かい紅茶が、ひとつ。
「ティアさまのお口に何が合うのか聞く前に、私の命は終わっちゃいましたね」
それでも美味しくなるように淹れましたと、アマリリスは言った。しかしティアはその紅茶には手をつけず、ずっと固まったように動かず……沸騰しそうなほど、頭の中で色々考えて考えてそれで、何を話すべきなのか考えていたのだ。
救って貰えなかった―――なんて、アマリリスの口から言われる事は無いだろう。
魔種の声に呼ばれることは、いけない事であると知っていたにも関わらず、それでもアマリリスにとって父の影はとても大きなものだった。
そして。
自ら、魔である父の手を掴んでしまった事は罪であり、そして聖女として真逆の事をしてしまったことや、恋人や相棒、友人たちを残して死んでしまった事は罰でもあるのだろう。
「本来ならば問答無用で断罪されてよかった。魔のまま地獄に落としてくれてよかった、でも」
魔に落ち、暗い暗い闇や汚泥の淀みの中で、アマリリスの耳に届いた祈りの声が、どれほど嬉しかったことか。
伸ばされた手を掴み、光の方向へ引き上げてくれて、最期は恋人の胸の中で意識を途切れさせてくれた事が、この残酷な神様がいる混沌の世界でどれほど報われている事か、アマリリスは知っている。
「だから、救えなかったなんて、そんなこと言わないで」
それがアマリリスの本心でもあるのだろう。
「そんな……」
ティアは目の前の紅茶を見つめたままであった。こんな紅茶飲めるものか……飲んでしまったら、この夢が終わってしまいそうな気がして――。
アマリリスが、意識だけでも魔種から解放された事は奇跡以外の何者でも無い。それは混沌という世界が肯定している現実そのものである。
そのために、多くのイレギュラーズたちのパンドラが削られ、今でもその回復は微々たるものだ。
「そこまでしてくれたもの、もうそれ以上の幸せはないよ、ティアさま」
「わかってる……」
本当は、判っている。
痛いほど、判っている。
けれども。
でも。
そうじゃなくて。
そういう”理論”の話じゃなくて。
これが”感情論”なのは解っていて。
理論と感情論が相容れない事さえ知っていて、それでも。
それでも自責の念が重ねられていくのだ。
もっと自分にできる事はあったのではないか、パンドラを委譲できるような事が出来たのではないか。
それとも、もっとアマリリスが帰ってきたくなるような言葉を選ぶことが出来たら、心も、そして身体も魔種から戻れたのではないか―――と。
後悔の念は波となってティアを襲っていた。
吐きたくなるほど胃がきりきりと痛み、肺が空気を受け付けていないように胸の奥が切なかった。こんなの元にいた世界でも味わったことが無いものだ。
もしこの感情を言葉にするのなら、そう……悲しみや、絶望、そういったマイナスのイメージが合わさったような汚濁だ。
「奇跡よりも、もっと!! と願う私は強欲なのかな………」
絞りだすようなティアの声に、反応したのは胸元の”神様”であった。
『生きている者ならば必ず寿命は来る。本人が満足していたのならばそれを尊重するべきだ』
「そうだけど、私はもっと、アマリリスと話したかった。天義を案内してくれた事も嬉しかったし、よく覚えてる。高い所が苦手でも、依頼で人を護る為に真剣だった事も覚えてる。一生懸命だった筈なんだよ……なのに、私は……」
俯いて震えたティアの肩。
それを見て、王子でもあったアマリリスは少し悲しそうな顔をしたけれど、ゆっくりと立ち上がってティアの手を取った。
「少し、歩きましょうか」
●
世界というものが誰にも操縦できないように、人の心も同じように上手くかみ合わない事ばかりである。
歯がゆいものではあるのだが、世界に生きる全ての命が等しく同じ枷を背負っている。
先を歩くアマリリスの背についていくように、ティアは足元に咲く花を瞳に映しながら、少しでもこの時間が続くようにと願っていた。
止まったアマリリスは、膝を折って、そこにいた黒猫を撫でながら語る。
「私はね、ティアさま」
「ん」
「天義から、空中庭園に召喚されて、最初は天義に帰りたかったの。
だってほら、天義の騎士の役目しか生きる意味を感じていなかったから、どうして天義以外の国を守らないといけないんだろうって思っていたの」
「うん……」
「でもね、イレギュラーズに来てからとっても楽しかった。
色々な発見があった、世界は広い事がわかったし、そこに守らないといけない人たちもいる。
海にも初めて行ったしね、あとは、シャイネンナハトとか、グラオクローネとか、堪能しちゃった」
「うん」
「もし、天義に居たままだったら、そんな事思えなかったし、体験することもできなかったことばかり。
だからとっても幸せだった。
もしかしたらそうね、ティアさまからみたら小さすぎる幸せかもしれないけれど、私はそれで十分だった」
「……うん」
「沢山縁を繋いで、それで最期はみんなが助けに来てくれた。
それ以上、望む倖せなんてないよ。でもね」
ティアは顔を上げ、アマリリスがくるりと振り返る。
「ティアさまったら、こんな夢に視るまで追いかけてきて下さるなんて思っていなかったから、もっと幸せですよ」
「アマリリス……ぅ」
激情に任せて駆け出したティアは、アマリリスを抱きしめ、アマリリスもそれを抱きしめ返した。
背中を撫で合い、そこに実際にアマリリスが肉の身体を持っていることを確かめるように、ティアはアマリリスをきつくきつく抱きしめた。
「ごめんね、ごめんねアマリリス」
「ううん、いいの、ありがとう。こちらこそ、ずっと一緒いられなくてごめんね」
「うん、うん……ばかぁ」
「うんうん、そうだね、きっと私は本物のばかだったと思うの」
例え、この夢の世界が夢幻であるとしても、絶対に、忘れるものかとティアは決意した。それがひとひらの気まぐれのような記憶で、触れれば触れた箇所から壊れていってしまうものでも――絶対に。
そうしてティアはゆっくりと腕を離し、改めてアマリリスの顔を見る。
アマリリスも、瞳が潤んでいて泣きそうな顔をしていた。
「最期にひとつだけいいかな?」
「そんな、最期なんて言わないで………ん、なぁに」
「ふふ。折角ティアさまがこんなところまで追いかけてきて下さったのに、別の人の話をして申し訳ないのですけれどね。その、………シュバルツは、元気ですか?」
「あ……て、今それ聞く?」
恥ずかしそうに聞くアマリリスに、ぷくっと頬を膨らましたティア。
「元気だよ。最近は闇市でお金をスっちゃって、ほぼ裸の状態で闘技場に放り出されたみたい」
「なぁにそれ」
クスクス笑ったアマリリス。やはり恋人が大好きなのだろう――、そうやって愛おしくて心の底から笑っているのを見て、ティアは悔しいような、それでも倖せであるのならいいかと認めるような気持ちになっていた。
その時、ティアの身体が半透明に透ける。翳した手の奥に、先の景色が見えて、かろうじて手があるのであろう輪郭だけが淡く光っているように。
『どうやら目覚める時間のようだ、ティア』
「まだ醒めなくていいよ」
「そちらの神様の言う通りだよ。あまり居たら、きっと戻れなくなってしまうかもしれないから」
そしてふわりと浮いたティアの身体。
ふわりふわりと浮いて、ティアの力では制御できない浮遊で。アマリリスを掴もうとしたティアの手が、アマリリスの身体を貫通してしまい、本格的にこちらの世界から追い出されようとしている事が痛いほど理解できる。
「待ってーーー待ってアマリリス!! まだ、沢山お話していたいよ!! まだ、一緒にいたいよ!!」
「うん、ありがとう”ティア”。でも駄目だよ、もうこんな所に来ちゃいけないよ。
あーそうじゃないな、出来るだけゆっくりこっちに来てね。シュバルツにも伝えておいて。
こっちに来るなら、ゆっくりと、ね? 私はずっとここで待っているから。何年だって、何千年だって待っているから――」
「アマリリス―――!!」
手を伸ばしたティアの手は悲しいほど短く、目覚めの世界に引き戻されるのを止めるには命の時間があまりにも持ちすぎていた。
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朝の陽ざしがカーテンの隙間から零れながら、部屋の中を照らしていた。
瞳の端から涙を一粒流してから、少しずつ目を開けていく。いつもに日常が戻ってきていた、彼女がいない世界の日常が。
少しだけ何も考えられず、そしてじわりじわりと瞳から大粒の涙がこぼれていった。
目が覚めても色濃く覚えている彼女と喋った記憶。一緒に歩いた庭園も、そこの香りさえ細かく覚えていた。
でも、夢は夢。
本当の彼女があそこにいたわけでは無い。
でも、ティアの記憶の中では彼女は本物のアマリリスで、それを否定するものは存在しない。
「またもし逢えるのであれば……友人になってくれるかな……」
虚空に解き放つ質問に応える人物はいなかったが、ティアの中でその返答は既にきっと、判っていた。
―――――パチパチと、炎が燃えている。
濁った汚泥のような闇の中で、数多の骸の腕に引き寄せられながら炎に焼かれていた。
その中で見た一筋の光に手を伸ばしたら、真っ暗な世界がヒビ割れて壊れて気が付けば戦場にいた。
『私を、私のままで殺して欲しいの』
「そんな――」
そんな事、言わないでよ。ずっと一緒にいてよ――ねえ、アマリリス。