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アントワーヌと行人の話~触れてみたいの~
登場人物一覧
「やあいらっしゃい」
「お出迎えしてくれるのか」
「行人君が我が家に来てくれるのだから、それくらいはするよ」
アントワーヌは微笑んだ。まるで白薔薇が咲いたようだ。朝露に濡れた可憐な白薔薇が。
しかしそれだけではないこともよーく行人は知っている。この『王子様』はことあるごとに自分を甘やかしたがる。そうしないと自分が崩れてしまいそうだというように。芯の強さの中へ、ふいに儚さをにじませてくるのだから始末が悪い。
とはいえ、一緒にいるのは心地よい。先日は「大好きだよ」なんて言わせてしまった間柄。居心地悪いわけがない。
玄関マットで靴底を拭き、アントワーヌの部屋に入る。白を基調にした清楚な雰囲気の部屋だ。天蓋付きのベッドや、窓際のチェストの隣の観葉植物が楚々とした雰囲気に華を添えている。
行人はハート型の葉を茂らせる観葉植物をつついた。
「こいつ、元気いっぱいだな。花は咲かないのか?」
「ウンベラータのこと? 咲くよ。咲くというか、茎にぽこぽこっと、緑の虫みたいなのが出てくるのだけど」
「隠頭花序というやつかな。おもしろい、咲いたら教えてくれ」
「行人君が望むなら、喜んで」
アントワーヌはそう言いながら行人をダイニングのソファに座らせ、マカロンと紅茶をキッチンから持ってきた。ふんわりと甘い香りが広がる。尖っていた神経を和らげ、心を穏やかにさせる香りだ。
「レモンティーでよかったかな?」
「ああ」
短く会話し、氷のたっぷりはいったレモンティーを受け取る。汗をかきはじめたグラスへ口をつけ、一息に飲みこむ。
「行人君てば、ビールじゃあるまいし」
ころころとアントワーヌが笑う。
「仕方ないだろう、今日は急に暑くなったんだから」
言い訳がましく二口目。体内の暴力的な熱が追い払われていく。
「いやまったく、ちょっと寄っただけで汗まみれだ。希望が浜の環境設定はどうなっているんだか。セフィロトへ行けば快適空間が待ってるってのに、わざわざ夏暑く冬寒い中へ身を置きたがるのは理解できねえな」
「寄ったってことはなにか用事があったの?」
「おう、教材研究をちょっとな。次の授業に向けての下準備と言ったところだ」
「真面目だね、伏見先生?」
「真面目というか……学園に潜伏する上で、社会的地位ってのは身に沁みて解ってるから、仕事は真っ当にやる。手は抜かん」
「真面目じゃないか」
「真面目じゃねえよ、普通だ」
「そのふつうのコトが出来るのを、真面目と呼ぶんじゃないかな?」
アントワーヌは目を細めて笑った。獲物を前にした猫の笑みだ。これはかなわない、さっさと降参するに限る。
「あーまあ、子供たちが真剣になってるから、こっちも真剣にならざるを得ない訳で……」
「ふふっ、認めた」
「真面目でも不真面目でも非真面目でもかまわねえよ。ついでだ、ちょっくら寝かしてくれ。ちょいとばかり暑さにあてられた」
「ベッドを使っていいよ?」
「いや、ソファでいい。30分程度だから」
「じゃあせめて薄掛けを使用すること。家主の命令だよ」
「へいへい」
行人はアラームをセットすると、メガネを外し赤いネクタイをしゅるりと抜いた。
目を覚ますとアントワーヌと視線があった。驚いてあたりを見回すと、行人はアントワーヌに膝枕されていた。時計を見ると2時間は経っている。
「やってしまった、すまないアントワーヌ」
「いいんだよ行人君。アラームが鳴っても爆睡してるお姫様はそのまま寝かせてあげたくなるじゃないか」
行人はいそいでメガネをかけた。伊達ではあるがレンズ越しの視界はどこか無機質で行人を落ち着かせる。
「いや、その、少し疲れていたのは、まぁ。事実だが……」
不覚、というやつだ。行人は体を起こし、ぼりぼりと頭をかいた。
「おつかれ行人君にはイヤーエステをしてあげよう」
アントワーヌがにっこりした。ちょっと不吉なくらい機嫌がいい。
「イヤーエステ?」
「あれ、知らないの。最近地味に流行ってるよ。私もやってもらって驚いた」
「なんのことだ」
「耳かきなんだけどね」
「それならそうと言え。なんでも横文字にしやがって」
「いやなの? いやじゃないの? どっちなんだい?」
「う……」
これは、受けるべきだろう。耳かきぐらい自分でできるけれども、なにせアントワーヌがおそろしくにこにこしている、これを断ったらご機嫌は急転直下。とばっちりはくらいたくない。
(腹くくるか……)
行人は大きくため息を付き、白旗ポーズ代わりに軽く両手を上げた。
「それじゃ準備してくるから、待っていてね」
耳かきに準備もへったくれもあるのかと思っていたら、大量のコットンパフとベビーオイル、それからタオルと石鹸とフィンガーボールが出てきた。耳かき? もちろんばっちり用意してある。綿棒もいっしょに。
「はい、それでは横になってね、行人君」
「ちょい待て、何する気だ」
「イヤーエステだよ。まず耳全体を洗って、それから耳かきをするんだ」
なるほどそういう算段か。それならこの荷物の山も納得だ。行人はフィンガーボールを睨みつけ、アントワーヌへなんとも言い難い視線を返した。
「ふふん、いまさら嫌がってもやめないよ。さあ膝の上に頭をおいて、行人君」
しかたなく行人はアントワーヌの膝へ頭を乗せた。もっちりとした感触が頭部を包んだ。正面にある荷物の山へ視線を固定し、雑念を払う。アントワーヌはベビーオイルを軽く塗った両手で行人の右耳を軽く掴み、ほぐすように伸ばしていく。
「耳には何百というツボがあるらしいよ」
「ツボ、ねえ。理科教師としては神経節と言ってほしいぜ」
「はい、ここが目のツボー」
アントワーヌが耳たぶを軽くつまむ。耳たぶの、上半分のあたりだ。たしかにそこをつままれると痛痒い感触がして気持ちいい。
「ここすこし硬いね。目を酷使してるからかな。行人君、気持ちいい?」
「……ん、まあ、悪くはない」
「もっとすなおでいいんだよ、ほらほらほら」
「あででで、ぐりぐりするな」
「痛いのは凝っている証拠だよ。その証拠に私はほとんど力を入れてないよ?」
そうなのか。まあ普段から目は疲れやすい場所だ。特に今日は希望が浜でデスクワークをしてきたから特にそう感じるのだろう。
「ではお耳を洗おうか」
アントワーヌが石鹸を丁寧に泡立てていき、泡をコットンパフへ付けて行人の耳をなぞる。
「おわっ」
「ふふふふふ。なに、ぞくっとした? 私も初めてされた時はそうだったよ」
「うう……」
なんだか今日は手のひらの上だ。まあ頭部という人体の最も重要な部分のメンテナンスを任せているのだから、自然と上下関係ができるのだろう。と、行人は思案した。アントワーヌは綿棒で円を描くように行人の耳を拭っていく。……正直、気持ちいい。
「はーい、ここはね、たくさんツボがあるところだからね、じっくりやっていこうね」
「好きにしろい……」
アントワーヌは耳の裏側まで丁寧に泡を伸ばし、汚れを取っていく。上機嫌というやつがあれば、今の彼女がまさしくそれだ。ワインでも開けているかのような気分で、鼻歌なぞ歌っている。
「なにがそんなに楽しい?」
「余裕の仮面が剥がれてる行人君というのは貴重だからね」
「うっせえわ、見世物じゃないぜ」
「ふふっ、ふふふふっ」
アントワーヌは変わらず笑顔だ。
パフでぬぐって洗浄を終わらせると、行人の耳朶はすっきりした。細かいところまで気を配ってくれたのだとわかる。からだは正直というやつで、爽やかになった耳が相方もそうしてほしいと言っている。が、まだまだロードマップは続いている。
「それじゃ本番行くよ。大人しくしててね? 痛くしたくないから」
アントワーヌが張り詰めた声を出した。耳かきを取り出し、そっと行人の耳の穴へ。内側の粘膜を心地よくひっかき、汚れを外へかき出すように。痛くもない、痒くもない、抜群の力加減。行人は思わず吐息をこぼした。
(あーやべえ、癒やされる……)
このまま彼女へずっと頭をあずけていたくなるような、そんな感触。ふわふわの真綿にくるまれて、眠りに沈み込む一歩手前のような快楽にふける。
「行人君どうしたの、おねむ?」
「ちげーよ」
否定してはみたものの、ほけらっとした自分の顔はしっかり見られているだろう。その証拠にアントワーヌはにんまりしている。勝者の笑みだ。なんだかくやしい。くやしいくらい気持ちいい。これがアントワーヌじゃなかったら、絶対自分は許さないだろう。なにがなんでも断って、自分で済ませてしまうに決まっている。それが何をどうしてこうなった。自問自答しても、もう遅い。
「いちばん奥まで行くよ。頼むからじっとしててね?」
カリッ、と耳かきがそこへ届いた。あまりの気持ちよさに行人の唇から「おお」とつぶやきが漏れる。
「なんだったか、迷走神経だっけか」
「そうそう、よく知ってるね。さすが理科教師」
一番奥のへろへろになる部分をいじくられると、さすがに抵抗する気も失せてくる。行人は目を閉じると、心の中のいろんなものをぶん投げた。陶酔の時間が終わり、ぼんてんで耳の奥を丁寧に掃除される。
「はい、今度は左耳だよ」
「へいへい……っ!」
ごろりと位置を変えた行人は思わず息を呑んだ。この格好は、アントワーヌの腹へ顔を埋める形になる。やわらかな曲線を描くなだらかな腹。こころよい香りが鼻孔をくすぐる。助けを求めるように顔を上げてみれば、たわわなしたちち。
これは……さすがに言っておかねばならぬことがある。行人は真剣に、まっすぐにアントワーヌの目を見た。
「誰かれ構わずやるなよ? こういう事。勘違いする奴も出てくるぜ、流石によ」
「行人君以外にしないよ?」
そういうセリフがするりと出てくるから自分は困るのだ。などと言ったところでキョトンとされるだけだろう。ああ、まったくこの『王子様』は!