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姫騎士せんせいのどきどきレッスン
登場人物一覧
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これは同人サークル『姫騎士乳業』作、イレギュラーズオンリーイベント出品同人誌『姫騎士せんせいのどきどきレッスン』の内容である。
混沌世界に実在する人物団体くっころが似合う姫騎士おねえさんとは一切の関係がありませんことよ。
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●第零章 思えば青春が始まった日
ピアノと夏と、先生があった。
セミの声がうるさい夏の庭を歩いていた時のこと。窓ごしに見つけた先生の姿に、ぼくはどうしても目を離せずにいた。
先生は黒いグランドピアノの前に椅子を引いて座ると、赤いクロスをつまみ上げた。優しく親指と人差し指でつまんだクロスがあがっていくさまが、遠いセミの声と共にスロウに引き延ばされていく。
先生の長い指が。
先生の手の甲に走る青白い血管の線が。
ぼくと違って骨のでっぱりのない、へらでなでたホイップクリームのような腕が、半袖のTシャツの袖と、その内側にできる影が。
その内側にわずかにあたった光と、白さが。
目にまぶしく、ぼくは慌てて目をそらした。
半分あいた窓からぬけて、ピアノの音が聞こえる。
セミが、強く鳴いていた。
ぼくが少年でなくなってからも。
蝉の声と強い日差しと、そしてピアノの音を感じるたびに思い出す。
あの日たしかに、ぼくは青春の中にいた。
先生の、なかに。
●第一章 アルテミア先生
たいくつというもの、ぼくは当時知らなかった。
望むものは何でも手に入ったし、お父様とお母様はぼくが何を望むかを察するすべに長けていたからだ。
喉がかわいて息を切らしたことも、空腹にうなだれたことも、触れたいものに触れられずに泣いたこともなかった。
貴族というものはそういうものだと召使いのジェニスは言ったけれど、そうでないひとの暮らしや気持ちを、ぼくは知らずにいた。
そんなぼくが黄金学園の中等部にあがる前の年。
必須科目であるところの騎士道を予習すべきとしてお父様が家に家庭教師をよこした。
学校は社会性の学習と優劣の競い合いを行なう場所であって、本来的な勉強はみな家でやるものだった。世界のすべてがそうでないと知ったのはずっと先のことだったが、当時のぼくにとってそれは当たり前のことで、新しい課目が生まれるなら新しい家庭教師がやってくるのは当然のことだと思っていた。
けれど、思っていたことと違うことが、ひとつだけあった。
音楽教師のオヴィリア先生や、文学教師のゲッヒニズ先生のように、今度も年老いたひとがやってくると思っていた僕に対して、お父様は若い女の人を紹介した。
お父様が商談にひとを招くときのようなきっちりとしたベルベット服を着たそのひとは、青い生地と美しい刺繍のはいった胸元に手を当てて、ぼくにたいして笑顔を作った。
「アルテミア・フィルティスといいます。今日から騎士道のお勉強をさせてもうらうわ。よろしくね、ぼく」
そのとき。なぜだろうか。
ぼくは目をそらして口ごもり、お父様に挨拶なさいと叱られた。
「いい、ぼく。騎士道っていうのは、礼節と道徳の強さを学ぶものなの。
どんな国にも同じような武道があるけれど、私たち貴族に伝わっているのはこれ」
訓練に使う細身の剣を垂直に持って、アルテミア先生は祈るように目を閉じた。
「――PROWESS。
――COURAGE。
――HONESTY。
――LOYALTY。
――GENEROSITY。
――FAITH。
――COURTESY。
――FRANCHISE。
この十個の美徳を戒めとして心に刻むの。ほら、一緒にやって」
先生はそう言うと、ぼくの手を取って剣を握らせて、同じような姿勢になるように剣を垂直に立てさせた。
ぼくの後ろに回って、まるでお母様が膝で本を読み聞かせたときのように身体をつけて、ぼくの耳元で一つずつ戒めをとなえた。
ぼくはそれを復唱するばかりで、ひとつも頭に残らなかった。
頭に残ったのは先生の声と、耳にかかった暖かい吐息と、ベルベット生地に施されたあの美しい胸の刺繍がぼくの首のうしろをこする感覚だけだった。
●第二章 ぼくの戒め
初めて紹介された日から週に一回、アルテミア先生はうちに通って騎士道の勉強を教えてくれた。
貴族が学ぶべき勉強は、一科目だけ切り取っても多かった。
剣の振り方。貴族の歴史。政治と法律。教会の寄与とありかた。王家と階級。けれど先生が一番熱心に教えてくれたのが、貴族としてのあり方だった。
「PROWESS。騎士が最初に口にする戒めだよ。
騎士は強くなくちゃいけない。だから鍛えることを怠ったらいけないし、戦うべき時に戦えなくちゃいけない。
きみも今はお父さんとお母さんに守られているけど、もうすぐに一人で戦う時がくるのよ。
そしてそういうとき……十戒の最後はなんだったか覚えてる?」
ぼくが一呼吸ほど迷ってから『FRANCHISE』と述べると、先生はぼくの頭を小さく撫でた。
「人をまとめて、導く人にならなきゃだめ。
貴族はそのためにいて、そのために税金って仕組みがあるんだから」
中学校に上がってから、ぼくの成績は目に見えて良くなった。
特に騎士道の成績が良いからといって、お父様はぼくをよく褒めた。
けれどなぜそんなに良くなったのかと聞かれて、ぼくは答えにこまっていた。
答えはわかっていたけれど、答えてはいけないように、ぼくには思えていたからだ。
アルテミア先生が家に通うようになってから、ぼくは眠れない夜が多くなった。
剣の握り方を伝えるために僕の手の上から指を置くアルテミア先生の暖かさを。
耳元で唱えた声の暖かさを。
首の後ろに感じた布の刺繍を。
ぼくは夜目を閉じるたびに思い出して、寝付くのに苦労した。
無理に眠ろうと目を瞑っていた時などは、窓をあけてアルテミア先生が部屋に忍び込むさまを想像していた。
蒸し暑い夜の窓が開き、白いレースカーテンがおおきく膨らむと、そのなかに青白い影が見えるのだ。
長くて白い指がカーテンをかき分けて、のぞいた先生の顔がぼくに笑いかける。
シーツの上で丸くなっていた僕の膝に手を置くと、先生は頭をなで、頬を撫で、首から胸へ、胸から腹へ、ゆっくりとなぞるように中指をはわせていく。
そんな想像をするたびに。
ぼくは、どうにも眠れなかった。
それがいけないことのような、とても悪いことのような、先生への裏切りであるかのような気がして、ぼくはベッドサイドに置いた騎士道の教科書を開いて、オレンジ色のランプと月明かりのなかで文字を追うのだった。
●第三章 病
「今日の剣術練習はやめにして、お茶の時間にしましょう」
ある日のこと。アルテミア先生はそういってラグマットとバスケットを抱えると、ぼくを手招きして庭の芝生へと連れた。
学校の成績が良くなったことと、目に隈をつくったことから、きっと健康を気遣ったのだろう。
当時のぼくはそんなことにも気づかずに、ただ夢心地のような顔をして先生についていった。
その日の先生は涼しげな格好をしていて、白地に控えめなレースが施されたワイシャツを半袖にめくり、膝丈まであるジーンズ生地のパンツをはいていた。
セミの鳴く庭にマットを広げて、皿とスコーンを並べて、ポットをひとつとティーカップをふたつ、ぼくらの間に置いていく。
蒸し暑さからか、それとも先生の人柄なのか、首元のボタンは外されていて、先生が皿を並べていくたびに、身を屈めるたびに、首から肩にかけての白い肌に薄青色の線がみえた。ワイシャツにうっすらと透ける色合いからそれが布の胸当てだとわかったけれど、ぼくはそのラインから目をそらすことが出来なかった。
ちらりとぼくの顔を見上げ、先生が『大丈夫?』と声をかけるまで、ぼくはただ黙ってそのラインを見続けていた。
見続けていたからこそ、問いかけられたと気づいたときに驚いた。
固まるぼくの頬に手を当て、親指で目元をそっと撫でていく。
「目に隈なんかつくって。勉強熱心もいいけど、ちゃんと休まないとだめだよ」
うっすらと微笑む先生から、ぼくは目をそらした。
「ね、ぼく。今日は先生と」
先生は頬から首へ、中指でなぞるように撫でていく。
それが。
なぜだか。
毎夜の想像に重なって、ぼくは先生の手をはねのけた。
驚くように目を見開く先生に、ぼくは何も言えない。
ただ立ち上がり、ぼくの名を呼ぶ先生から逃げるように、背を向けて走ることしか、ぼくにはできなかった。
先生はしらない。
ぼくが毎夜なぜ眠れないのか。
ぼくが先生を毎夜、どんな姿で想像しているのか。
ぼくがこんなに先生を裏切っていたことを。
しらないのだ。
きっと、しらないままで。
●第四章 罪と赦し
それから一週間を、ぼくはどうやって過ごしたのかを記憶していない。
ちゃんと眠れたのか。ちゃんと食べられたのか。ちゃんと勉強ができたのか。
少なくとも生きてはいたようで、次の週を迎えることはできた。
けれど。
「今週はフィルティスさんがいらっしゃらないので、わたくしが本日の教育を務めさせて頂きます」
屋敷の絨毯の上で、見知ったゲッヒニズ先生がそんなふうに言ったのを、覚えている。
ぼくが手にしてたティーカップを取り落として、それが絨毯をはねたのも。
きっと先生は知ったのだ。
ぼくの裏切りを。
ぼくの罪を。
ぼくが毎夜、先生に何を想っていたのかを。
時間は風のように過ぎるもので、その日の勉強は流れるように終わり、気づけばもう夜が更けていた。
ベッドにひとり座り込み、教科書を開く。
PROWESS、COURAGE、HONESTY、LOYALTY……。
戒めの言葉を唱えるたびに、アルテミア先生の声が耳元で聞こえるかのようだった。
きっともう、先生はこない。
ぼくが諦めるように教科書を閉じた、そのときだった。
部屋の窓が開き、ふわりとレースカーテンが風にふくらんだ。
レースの向こうに見える青白い影。
白く長い指がカーテンを掴み、覗くように、アルテミア先生の顔がこちらを覗いた。
「こんばんは、ぼく」
軽鎧に身を包んだ先生が、ぼくに笑いかけた。
脱いだ鎧が部屋の絨毯に転がっている。
胸元までしかない半袖のシャツとホットパンツだけの先生が、ぼくのベッドに腰掛けていた。
「ごめんね、この前は驚かせて。胸に虫がついてたの、恐かったのかな」
そんな風に語る先生の横で、ぼくはベッドに腰掛けて、自分の膝に両手を置いていた。
先生はしらなかった。
けれど。
ぼくは。
「アルテミア先生」
ぼくは、自分の膝を見たまま言った。
「ぼくは病気かもしれない。先生のことを考えて、眠れなくて」
その先を言うべきか迷うぼくの、手に、先生はそっと覆うように触れた。
「話して」
「先生が、ぼくにさわることを考えて」
「うん」
「それが、悪いこと、みたいで」
「うん」
先生のもう片方の手が、僕の頬に触れた。
「先生を、裏切って」
「うん」
先生の中指が、僕の頬から首へ、首から胸へ。
「大丈夫」
僕の胸のボタンを、ゆっくりと外していった。
「大丈夫だよ」
ぼくはその夜から、ぐっすりと眠れるようになった。
●終章 ぼくとアルテミア先生
思えばアルテミア先生は、ぼくが夏の日に見た幻だったのかもしれない。
天義の祝勝会に立つ姿を遠くに見るとき、王都から仕事に出かける先生をみるとき……あの夜ぼくの胸をなぞった指を思い出す。
「PROWESS、COURAGE、HONESTY、LOYALTY……」
口ずさむ『私』に、それはなんですかと商人の男が尋ねた。
「先生からの教えです。大切な」