PandoraPartyProject

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覗いてはいけない向こう側、もしくは本当に近くの知らない隣人

登場人物一覧

ハインツ=S=ヴォルコット(p3p002577)
あなたは差し出した
ハインツ=S=ヴォルコットの関係者
→ イラスト


 木と蝶番が不快な音を立てて、事務所の扉が開かれる。
 痛み始めてから随分と長いのだが、何かと理由をつけて業者を呼んだりはしていない。これはこれで、鳴子代わりになっていいものだと寂しい財布の中身に言い訳を落としながら。
「うーっす、行ってきたぜぇ」
 そう言って、スリーピーススーツの男が入ってくる。相変わらず格好ばかりの安物で仕立ては良くないが、最近は靴の踵を踏むのをやめ、紐もしっかりと結んでいる。いざという時に走れなければ、命に関わると悟ったのだろう。
「おう、おかえり。悪いな、野暮用頼んじまって」
「こんぐらいどうってことねえよ。それよりちゃんと休んでんのかい? クマ、ひでえぜ」
 瞼の下を指でなぞって示してくる男に対して、ハインツは顎髭を撫でながら呻いた。こころなしか、動きの全てが普段よりも精細さで欠いている。
「どうにも仕事が重なっちまってな。目ぇ覚まそうと、メアリアンが珈琲を淹れてくれたところだよ。お前さんも飲むか?」
「……今、何徹め?」
「ざっと48時間」
「…………やめとく」
 きっとゲロニガイ泥が出てくるんだろうなとは、思っても口にしなかった。この事務所での最優先事項は、メアリアン女史の全肯定である。顔を見たことはないし、近いうちに会いたいとも思わないが。
「それより確認してくれよ。連中、変な渋り方しててさ。俺も確認したけど、変なことされてたらわからねえし」
 そういって、厚みのある封筒を差し出してくる。仕事の支払いを受け取りに先方まで出向くつもりだったのが、どうにもスケジュールが合わず、代わりにスリーピーススーツの男―――Nが代行を請け負ったのだ。
 実際に手にとった札束におかしなところもないだろうが、念には念である。この業界、自分で意識している埒外の事象が起こることは珍しくはないのだから。
 一枚一枚、指でめくって確認していく。
「ひぃ、ふう、みぃ、よ、いあ、いあ、はす、たぁ―――」
「いや数え方怖ぇよ」
「そうか? 依頼人には比較的ウケが良いんだが」
「ミーハーだろそれ……」
 問題はないとハインツが告げると、Nはホッとしたように胸をなでおろした。魔術的、呪術的な細工を仕掛けられていた時、彼では判別がつかないためだ。
「そろそろわかりそうなもんだがなあ」
「いや、無理っしょ……お、これなんだ?」
 そういえば、今朝届いたばかりの品を机の上に放り出していたのを忘れていた。それほど目立つものではないはずだが、目ざとく見つけたようで、手にとってまじまじと眺めている。
「いや、勘は鋭くなってるよ。それだけじゃあ、危ねえが」
「んー……片眼鏡、モノクル?」
 ハインツは一度腰を上げると、ポッドから自分でメアリアンが淹れてくれたという珈琲をカップに注ぎ、またソファに座り直した。
「ああ、補正機だ。チャンネルのな」
「チャンネル?」
「ああ、えっと……位相、もよくわからんか。とにかく、この世界で俺たちが認識できないものを見るためのものだ」
「あぁ、紫外線とかそういう?」
「近いが、もっと精神や魂魄側の話だ。種族、いや、生物として本来ならお互いに触れることのない存在にアクセスするための道具だよ」
 上手く伝わらなかったのか、Nが首を傾げている。なにせ、本来なら全く理解しなくていい概念の話である。興味を持つからには答えてやりたいが、生憎と、ハインツもそこまで教え上手ではなかった。
「よくわかんねえけど、今度はこれをつければいいのかい?」
 いつも危険な魔術書や道具が絡んだ事件に巻き込まれるせいで感覚が鈍っているのだろう。Nは何を思うでもなく、その眼鏡を自分にかけた。
 この世界、最も恐ろしいものは『慣れ』であるというのに。
「ちがっ、待て!!」
 ハインツが慌てた頃にはもう遅い。Nは既に、眼鏡越しに世界を見てしまっている。これだから『慣れ』は恐ろしい。路傍の石のように転がっているはずの、危険への意識を薄れさせる。
 いいや、この場合、己を酷使したハインツが判断力を低下させていたことにも一因があるだろう。臍を噛み、間に合えと力の限りに声を荒らげた。
「目を閉じろ! 何も見るんじゃない! 向こう側に目をつけられるぞ!!」
 だが、その声はNの叫びによって掻き消される。


「うわああああああああああああああああああああ、なんだ、なんだよ!!?」
 迫ってくる。目の前にそれが迫ってくる。表現はできない。目も鼻も口も腕も足もNが知っているどれとも当てはまらない。そもそも、目という器官なのか、鼻という器官なのか。それすらもわからない何かが自分を見つめている。顔が触れるくらいの距離で見つめている。
「どこから、どこから入ってきた!?」
 違う。違うのだと、理解できる。彼は、彼らは始めからそこにいたのだ。こちらから認識できなかっただけで、向こうから干渉できなかっただけで、位相が違っただけで、彼らは始めからそこにいたのだ。
 それは(どこからどこまでがそれかわからないが)、Nにまとわりつき、舐めるように触れて、脳の奥から響くような音で言う。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき」
 振り払おうにも、こちらから触れることはできない。それなのに、彼らはもう泥のようにNの全身を包み込んでいる。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき」
 それは同じことを繰り返す。ぎゅっと目を瞑っても無駄だ。一度合った位相は、認識できてしまった現実は消えてなくならない。
 生物の形が違う。壁の材質が違う。窓から覗く景色が違う。物理的な法則が違う。
 オーロラのように色を変える水源が空を満たし、複眼の魚が泳いでいる。その群れを桃色のクジラがパイプ状の口で飲み込んでいく。
 顔が、少なくとも顔だと思うものがNの前にきた。それはドリル状に捻じくれた指を彼の心臓に向けると、ゆっくりと、ゆっくりと入ってくる。
 痛みはある。痛みしか無い。二本、三本。やがてそれが彼の心臓を掴んだ頃、Nは意識を保つことができず、暗い暗い闇の中へと落ちていった。


「気がついたか!!?」
 目を覚ますと、おっさんの顔があった。開目一番でハインツの顔はとてもつらかったが、心配をかけたようだと理解できたので、身を起こすことにした。
「大丈夫か? 頭痛はないか? 変なものが見えたり、聞こえたりしてないか?」
 矢継ぎ早の質問。この男が普段、これだけ慌てるのはなかなか珍しい。だがそれだけ、危機的状況であったということなのだろう。
 だから迷いなく、頭を下げることにした。
「その、ごめん。もっと警戒しなきゃいけないよな。ちゃんと、アンタの話を聞かなきゃいけなかった」
「そんなことはいい。それより、なんとも無いのか?」
「ああ、大丈夫さ。もう変なものは何も見えねえよ。それよりさ、喉乾いちまって。何か淹れてくんない?」
「それなら、メアリアンの珈琲がまだ残ってるぞ。すぐにとってくるからな」
 そういって、ハインツが部屋を出ていくと、部屋にはNと、『それ』だけになった。
「嘘つき」
「知ってる。どうせなら、メアリアンさんが見えるようになりたかったよ」
 まだ会いに行くつもりはないので、どうにかしなければならないが。

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