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犯罪者達の唯物史観
登場人物一覧
大抵の地獄は地下に存在する。
すり鉢状になった奈落の奥底に光は射さず、ただ暗黒と沈黙が広がるのみ。
角灯を手に螺旋階段を下る茫とした姿は、鎮魂のベルを鳴らす葬儀人のようでも、黄泉へと導く渡し守のようでも、出来の良い幻燈絡繰のようでもあった。
秒針が一廻り六十回。規則正しく時を刻むように、石壁に硬質な足音が反響する。
アルカモトラズ監獄、最下層。不透明な訪問者は闇に塗り潰された牢の前でようやく其の足を止めた。
杖の石突がコツリと石床を叩く。湿度と黴を含んだ冷たい空気が肺を浸した。
「やあ。久しぶり……という程でもないな。むしろつい先日貴方を刺したばかりだったかな」
男とも女ともつかぬ声。内容の物騒さを無視するなら、監獄に似つかわしくない穏やかな声色だ。
ぬるりとした炎に炙られ、声の主が闇の中から姿を現す。
全身を覆う白い外套は神聖さより亡霊や妖精といった幽世の白を彷彿とさせた。
顔の仮面は、万聖節の前夜に篝火へと投げ込まれた牛の頭蓋骨にも、黒死の病を啄んだ嘴の名残りにも見える。闇に佇む姿は貴族の邸宅に飾られた美しい剥製のようだ。
黒い丸硝子が嵌められた瞳から感情を伺い知る事は出来ず、ただじりじりと油を燃やす滑らかな朱色の炎を映していた。
「調子はどうだね? 体調が悪いのなら、私が診てやっても構わないが――」
「律儀者かァーー!!」
牢の中から聞こえた大声に対して、面会者ルブラット・メルクラインは沈黙で応えた。
ゆるゆると傾いた首に合わせて白髪が肩を撫でる。まさしくキョトンを体現した来客に、囚人……マーレボルジェと呼ばれた元剥製蒐集家の中で何かがキレた。
「何故此処にいる!」
「何故?」
「うん」
「面会許可は事前に得た筈だが?」
「そうじゃなくて!」
腕を組んで、はてな、と今度は逆側に首を傾げたルブラットに案山子のような少女は頭を抱えて絶叫した。
「普通あれだけの大事件があったら、少しは面会にだって時間を置くもんでしょう十三年くらい!」
「それは長過ぎる」
「そんでもって私の模倣犯による事件が起こって――」
「聞いてないな」
『いひひひ、随分と懐かしい顔ね。あまりに来ないものだから、私、すっかり待ち草臥れてしまったわ。酷い人』
『私はこれでも忙しい身でね。しかし、また会えるとは。奇妙で皮肉な巡り合わせだな、マーレボルジェ君』
『私にとって、貴方がまだこの世界で生き残っている事の方が、奇妙で皮肉な事象に思えるわ。さあ、この私に何が聞きたいのかしら。愛するルブラット』
「――なんて言う、ばりばりライバル心溢れる小洒落た悪人会話をするのが定石じゃない!?」
「ほう、そういう物かね」
「そういうもんよ」
「覚えておこう」
小さく首を縦に振るルブラットの姿は真剣そのもので、十三年後、一言一句違わず同じ台詞を言いかねない迫力があった。生真面目かとマーレボルジェは呟く。
「いや、やっぱり忘れて。超忘れて。というか今の一連の流れは聞かなかった事にして」
気が向けば、と付け加えてルブラットは観察するように視線を上下に動かした。
「それだけの元気があれば、君に十ニ宮図や祈祷歌による治療を施す必要はなさそうだな」
「いつの時代の治療よ!?」
「私は腕がいい。遠慮せずに言い給え」
「どこも悪くない! はあ、眩暈がしてきたけどね」
「眩暈か! ならば瀉血だな!!」
「しなくて良い。ってどこから出したその鉄盥と見覚えのあり過ぎるナイフは、仕舞え! というか、貴方腹から声を出せたの!?」
「生と死に対しては真摯に向き合うと決めている」
ルブラットは冷静な観察者の視点で、自らの在り方についてそう評した。
「それは貴方が相手でも変わりはしない。むしろ、貴方だからこそ生きていて欲しいと願う」
指揮者のように、執刀する医師のように、白い指が虚空をなぞる。
「マーレボルジェ君、私はある側面で貴方を非常に高く買っているのだ。私の知らない所で貴方が逝く、そう考えるだけで耐え難い痛みを感じる程には」
「へぇ?」
マーレボルジェの瞳に愉楽が浮かんだ。
「貴方の事だ。それはそれは、酷く愉快な死に方をするに違いない。私はそれを直接目にしたい。願わくば過程を含めて貴方の死に様を見守りたい。それまでは予期せぬ死や、病死などと言うつまらぬ終わり方を迎えてもらっては困るのだ。ああ、死にかけた時は連絡をくれ。予定を空けておこう」
「ねえ、ルブラット」
「何かね」
「貴方、友達少ないでしょ」
答えるまでに、僅かな沈黙があった。
「否定はしない」
「私に会いにくる時点で、貴方も割と正常からの落伍者よね。知ってたけど」
態とらしい溜め息と共に牢の扉が開く。ぼんやりと灯りに照らされるマーレボルジェの首には見覚えのある首輪がはめられていた。
「牢からの出入りは自由なのか」
「そうよ。大物っぽく見えるから入っていただけ。入る?」
「遠慮しておこう」
ぺたぺたと湿った足音を立て小柄なタキシード姿がルブラットの隣に並んだ。枝のような指が何も無い空間に触れると見覚えのある扉が音を立てて現れる。
「剥製蒐集箱。残っていたのか」
「今はただの空き箱。それでも客人用の椅子ぐらいは残ってるわ」
マーレボルジェは扉を潜る。ルブラットは躊躇なくその後に続いた。
「あのねぇ、少しは罠を疑いなさいよ」
「今の貴方は無力だ。ならば心配するだけ損だと思わないかね」
「ぐっ、言ってくれるじゃない。その発言、いつか絶対後悔させてやるんだからね!」
「楽しみに待っているよ」
以前までの悪趣味な豪奢さはなりを潜め、今の剥製蒐集箱はただのダイニングルームに見えた。栄華の凋落を体現した薄暗さと質素さは、心地の良い影をルブラットの心に落とす。
「以前見た時よりも殺風景だが、中々どうして、良い部屋じゃないか」
手近にあった椅子に腰を落ち着ける。ギイと軋んだ椅子は木製だ。腹の上で両手の指を組み、安楽を体現するかのように背もたれに体重を預けた。
「いひ。貴方が死んだら蒐集品一号にして、ここに飾ってあげる」
「いいとも」
「は?」
「構わないと、そう言った。死後に自分が剥製になろうとどうでもいい。むしろ自分の死で他人が満足するならそれは喜ばしいことではないか」
だらりと袖を垂らしながら、ルブラットは天井にぶら下がったシャンデリアを見上げる。黒く塗り潰された絵画を未だに掲げているのは、この部屋にマーレボルジェの心象風景が反映されているからだろうか。
「自殺願望はないし、宗教的に自殺は宜しくないので積極的には死にたくないがね」
「フン」
向かいの椅子に腰を下ろしたマーレボルジェが鼻で笑う。
「さっきの言葉、そのまま返すわ。貴方、死ぬ時には私を呼びなさい。助けてほしいと懇願し、痛みにのたうち回る姿を見て笑ってやるから」
「貴方が私達の世界に来ることは前例から顧みるに期待薄だと思うが」
「やってみなきゃ分からないでしょ! 貴方の死体は私の物なんだから」
幼子の癇癪を聞き流すようにルブラットは肩を竦めた。
「ところで飲み物はまだかね、マーレボルジェ君」
「監獄に飲み物があるとでも?」
「何と」
「何とじゃないわよ。ちょっと待ってなさい。探してくるから」
「ではその間、私は部屋の中を物色するとしよう」
「おい」
「言葉の綾だ」
常人を騙る戯れ。
光の世界から逃げ出した息継ぎめいた会話は誰か達の孤独をほんの少し、だが確かに埋めていた。