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<虚飾染鴉・中>漆黒へ語る

登場人物一覧

閠(p3p006838)
真白き咎鴉
閠の関係者
→ イラスト
閠の関係者
→ イラスト

 おにいちゃん、と舌足らずに呼ぶ声がする。景色はぼんやりと曖昧で、何故そう呼ばれたのかもわからない。それが『誰か』の記憶の断片なのだと理解することはできたが、それ以上のことを私は知り得なかった。知らなくても良いことだと何度も命じられてきたからだ。私は『私』ではなく『私達』であるからだ。それでも——ああ、その声が『私』に向けられたものだったことだけは確かな筈だ。こんなにも深く深く奥底から愛おしいと思うのだから。そして、私は顔も名前も思い出せない『弟』に答えるのだ。

「閠」

 目が覚めた。開けた視界に主人の姿を認めた瞬間、舌先に残った音の名残は跡形も無く消えていた。
「良い夢でも見ていたみたいだね?」
「……声が聞こえました、旦那様」
 椅子の上で不快そうに鼻を鳴らす主人を見れば、それが失言だったとわかる。望まれた通りに答えたつもりだったけれど、と首を傾げた直後、この主人が私に『旦那様』と呼ばれることを嫌っていたことを思い出す。
「申し訳ありません、紫釉(シユ)様」
 未だ寝惚けた頭で居住まいを正し、つまらない奴、と下された評価に安堵する。見下ろす瞳はすぐに温度を失くして逸らされた。
「それで」 
 短く促すのは最初の問いへの答えだろう。
「申し訳ありません、誰かに兄と呼ばれる夢であったこと以外は」
 じゃらり、と拘束で儘ならぬ動きで床へ手をつき、頭を下げた。繰り返される謝罪の上に吐かれた溜め息と煙。頭の芯を揺らすような甘ったるい香りが夢の中に似た朦朧とした感覚を呼び覚ます。
「とても、懐かしいと感じた、ような気がします」
 これは記憶について探るなという命令への違反になるだろうか。そっと窺った高貴な紫は否を伝えない。続けても良いようだ。ぼやけた映像の輪郭をなぞりながら舌に乗せていく。
「明るい、春の日差しのような、霞の向こう側に萌黄が揺れて」
 はあ、とそこで大きく煙が吐き出された。止めろの合図だと理解して口を閉ざす。
「お前は誰だ」
 私は『私達』だ。
「お前は漆(シチ)だ。織綾においてありふれた黒を纏うもの。傷口から溢れ出たもの。触れれば掻き毟りたくなるもの。真に『色』を持たない哀れなこの家そのものだ」
 『私達』は漆だ。貴方がそう在れと定めた。
「……まぁいいさ、どうせすぐに忘れてしまう。お前は出来損ないの『人格』だからね」
 『私』はこの体に囚われた継ぎ接ぎの魂の一片、ただそれだけだ。本当の『私』の残滓に過ぎず、夢として浮かんだものも手繰ることを諦めれば瞬く間に沈んでいく。その度に、この主人はつまらないと溢すのだ。
「退屈凌ぎに、面白い話を聞かせてやろうか」
 さらり、と痺れるほど甘い煙を纏った髪が間近で滑る。夢で見た緑よりも暗い色をした前髪の奥、思いの外上機嫌な瞳に覗き込まれながら促されるままに頷けば、弧を描いた唇から紡がれる物語。それは夜長の月を濡らすような、無力な兄弟の悲劇だった。



 『黒』を尊ぶ一族から分かたれた『白』を尊ぶ一族の当主には、ふたりの子供がおりました。

 先祖返りの白を持った兄・雪珠(セツジュ)。誰からも跡目としてお家の再興を切望され、たくさんを与え育てられた存在です。
 誰とも違う薄緑色を持った弟・閠(ジュン)。誰からも疎まれ、跡目争いが起きぬよう秘され、女子として育てられた存在です。

 周囲の思惑に振り回され、けれどそれを裏切って彼らはとても仲の良い兄弟でした。
 織綾が所有する敷地の外れ、深い森の中に置き捨てられたように暮らす弟のもとへ兄が人目を忍んで通う程に。
 境遇を思えば、嫌悪や憎悪を伴う関係になっても何ら可笑しくはないというのに。

 ふたりの逢瀬は夜に、昼に。跡継ぎとしての勉学に追われる雪珠の僅かな余暇に行われました。
 知られれば罰を受けるのは立場的に閠であるが故に、供も連れず慎重に。日課の散歩に出かけた先で幽霊と遭遇する、という体で。

 敷地内とはいえ本邸から遠く離れた別邸。世間話ひとつも無く、業務が終われば帰っていく世話役。衣食住は足りようとも幼子の飢えは満たせません。
 人と触れ合える唯一の時間を閠が心待ちにし、そのぬくもりを日々の支えにするのも当然の環境でした。
 そして、雪珠にとっても欲望と権力と打算で汚れていない弟は拠り所だったのです。



「求めても振り解かれない腕。抱き締め返してくれる小さな体。自分へと向けられる柔らかな言葉。泣くことを許してくれる優しい瞳。『黒』には染まらぬ、ふたりだけの兄弟……彼らがたったひとりを信じ愛するのも必然と言えましょう」
 あぁ羨ましいこと。そう溢した感情は烟る甘さの向こうから透かせない。淡々とした語り口に時折混じるあれは、訊ねれば今度こそ聞き分けの悪い雀を黙らせるように舌を切り落とされてしまうだろう。
 鏤められた単語にざわめき疼くこの感覚が主人の意図通りであることを願い、私は噤み、傾聴する。
「大人達に翻弄された哀れで微笑ましい兄弟愛で済めば良かった……けれど、弟に示された次なる選択肢が、確かに一歩、執着への階段を昇らせたのです」



 家から更に遠ざけられた地で飼い殺されるか。
 死すら恐れず敵を屠る、兄の『影』となるか。

 閠の前にふたつの道が敷かれたのは、自身の置かれた状況を朧げに理解し始めた頃のこと。
 共に在るためならば、何も迷うことはありませんでした。
 たとえどんな仕打ちを受けようと構わない。どんな形でも、兄を支えられるなら——そんな決死の覚悟も大人達の思惑のうちでした。
 いつしか暗黙の了解となっていたふたりの逢瀬。分家と罵る輩を黙らせるべく躍起になり、爪弾きにした者まで利用しようと画策する者達。
 問えば其方を選ぶだろうと誰もが疑わず、自らの手で選び取らせることで逃げ場を奪ったのです。

 兄の影武者として求められる知識、作法、立ち居振る舞い。
 闇に紛れ、お家の敵を始末する暗殺者としての技術、経験。
 連日連夜、容赦なく叩き込まれるそれらはまだ柔く未完成な閠の心を削っていきました。

 止める権限を持たず、何より弟の想いを否定もできず、ただ見守るしかない雪珠は揃いの長さまで伸ばされた髪を梳き、ひとつに編みながら心に誓います。
 当主の座に就いた暁にはこの愛しい弟を家の呪縛から解き放ってあげるのだ、と。



 ふぅ、と一息吐けば上書きされる香りは甘さの内に苦味を孕んだものに変わっていた。
 向かい合ったまま、ずっとその言動の全てを見ていた筈なのに何故、と今更に気付く。酩酊するように定まらない思考は起き抜けのそれだけではなかった。
 煙に巻かれる。その文字通りに魔力を込めた煙に、言葉に、踊らされているのだ。貴方が命じれば『私』の自我など煙より簡単に吹き飛んでしまうのに。
 どうせ忘れると嘯く割に徹底している主人は、下僕の心中など気にもせず続きを綴る。
「……そうして、その日は訪れます」



 声も無く涙を溢す瞳に映るのは赤に染まった手。
 温かく沈み込み、断ち切った感触。
 地面に転がる人だったもの。
 耳に残る呪詛と断末魔。
 幾度となく閃いた刃の色。
 眠った森の匂いを殺す生臭さ。
 足元から引き摺り込もうと広がる水溜り。
 見開かれた金色と同じ団々たる月が見下ろす有様に、ぐらりと揺れた視界は遠退く。
 崩れそうになった芯が端から冷えていけば、もう飛び散る赤色に嫌悪しか抱かなかった。

 ギフトの発現。
 初めて人を手にかけたのが余程効いたのでしょう。閠は敵として見定めた対象を一切の躊躇なく殺められる人格を作り出したのです。
 『弟』でいるための防衛機構として、閠の心が壊れぬよう庇護するもうひとつの存在として、別人格の彼が立ち塞がりました。



 可哀想な弟君。そう呟く言葉と浮かべる感情が一致しない。まるで見てきたように惨状を並べ立て、あれは至極愉快だったと誤魔化すこともしない。
「当主の右腕をしていた魔術師の男は、それを『敵視の金眼』と名付け、とある進言をしました」
 胸の奥が痛む。ちりちりと。喉元まで迫り上がってくるものを押し留める。これは私が抱いてはならない感情だ。その筈だ。
「一向に染まらない兄よりも、染めやすい弟を傀儡にして椅子に据えてしまえ」
 盾を鉾に。兄弟が互いを想う心を踏み躙るだけでは飽き足らず、最後の砦までも悪用しようというのか。
「かくして弟は持ち上げられ、魔術によってギフトを歪められ、力で政敵を圧する人形に」
 怖気が走る。私は——
「兄は次期当主の座を追われ、深くへ幽閉され、弟を椅子に縛り付けるための生きた枷に」
 ——いや、『私』は知っている。
「本当の悲劇の始まりですよ」
 悲劇を啜り謳う蜜のような声を。愉悦に眩む毒花のような瞳を。腐り落ちた果実から滲むような、破滅を手招く笑みを。
「一人前に睨むなよ、残り滓のお前が」
 ぎりぎりと歯噛みする私の目前で悠々と足を組み直す様も『私』は知っていた。記憶は像を結ばず、由縁も何も思い出せずとも、無力感と共にこびりついているのだ。
「……あぁ、でもその目。そっくりだね、体は違うのに」
 語り部をやめた男が蔑みを吐いた唇を柔らかく緩めて宣う。まるで懐かしむように、親しみすら込めて。
 敵視の君、と呼んであげていたっけ。吐き気を催す香りを燻らせながら伸ばす手に身構えても、顎をとられ額が触れ合う距離から覗き込まれても、反抗を許されていないこの身は拘束具を鳴らす以上の術が無い。
「あの子は何処に行ってしまったんだろう。ねぇ、雪珠様?」

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