SS詳細
ホワイトアウト
登場人物一覧
家に真っ白な子がやってきてから一月ほどが経つ。
闇奴隷市の現場で、鉄の籠のなかから必死に手を伸ばして服の裾を掴んだあの日から、彼女――『ましろ』はかんなの家の住人となった。
かんなとて人付き合いの上手なほうではない。まして奴隷を買って住まわせるなんて考えたこともなかった。自分には分不相応なものだからと中央教会を通じて孤児院に預けることを検討したものの、施設に連れて行ってもかんなの服の裾を掴んで離そうとせず、施設の人間達をひどく怖がるせいで預けることもできなかった。
施設へ手を引いて連れて行った日の、自分の背にぴたりとしがみついたあの震えを、肩越しにいつも思い出す。
『仕方ないわね』とため息をついて家に連れて行き、人間のまねごとみたいにして買った缶詰豆スープと白パンをやると、かんなの顔色を見ながらちびちびと食べ始めるのだから。
いつも賑やかな声と音楽が聞こえるローレットのギルド酒場。ボードには大量の依頼書が貼り付けられ、何人ものローレット・イレギュラーズが酒を飲むなり食事をとるなり歌って踊るなりして愉快に過ごしている。
かんなはこの空気へ積極的に混ざるクチではないが、かんなと同じように関わる者も多い上登録者数一万人とも言われる巨大ギルドゆえ、それを咎めたりむりに引き入れるような空気はいまのところない。
だが今日は珍しくというべきか、かんなは酒場の端にあるテーブルへとついた。
「やあ、来てくれてありがとう。本来ならこっちから出向く所なんだけど……どうもこのところ忙しくてね」
向かいの席へと座り、紙束を置くショウ。ローレットの情報屋だ。
「依頼されてた調査の結果が出たよ」
そう言って紙束に目を下ろす。
かんながそれを掴もう――としたところで、ショウはトンと抑えるように指を置いた。
「先に聞いておくね。この結果……見たいかい?」
「……」
どういうこと? と視線だけで問いかける。
ショウは薄く笑って続けた。
「あまり気持ちの良いことは書かれてないよ。優しいパパとママの所在とか、返すべき古里とか、彼女の帰りを待つ親族とか、回収すべき財産とか、そういうものはない。閲覧を拒否するなら、情報量はナシでいい」
「私にそんな気遣いは無用よ」
情報量にあたるコインを置くと、そっとショウは指をあげた。
帰路の夕焼けが石畳を茜色に照らして、走る子供の影をおどらせる。
彼らは夕飯の時間だからと自分の家に帰るらしい。
そんな風景を横目に、かんなはただ前だけを見て、表情を変えずに歩いていた。
「……」
ましろの故郷はラサと幻想の間辺りにあるハーモニアの隠れ里であるという。
少し前におこったハーモニア奴隷バブルに乗じるかたちで奴隷商とその傭兵たちが隠れ里を襲撃。里を燃やし住民のすべてを奴隷として売りに出したという。
しかし奇しくもそれはラサにおける奴隷売買に実質的な規制が敷かれた頃のこと。偽ザントマンも妥当され砂の都も潰えたことで、奴隷商人たちは在庫を抱える結果となった。
リスクカットの意味もあり、奴隷達は各国へバラバラに売り払われ、ここ幻想の土地にて『在庫処分』の一環が行われていたようである。抱える在庫より先に自らの命を失うことになったのは、ひどい皮肉だが……。
『奴隷が抜け出して故郷へ逃げ帰るなんてことがよくあるからね。里ごと燃やして帰る場所が無くなったことを思い知らせるっていうのは、奴隷商がよくやる手なのさ。今彼女の隠れ里には灰と骨くらいしか残っちゃいないよ。それすら残っているかどうか……』
ショウが情報のついでにと教えてくれた言葉が、脳裏をよぎる。
気付けば、自宅の前までたどり着いていた。
自分は、どうだっただろうか。
帰る場所どころか、家族だっていない。死体に神殺しの業を押し込めた人形であった自分とましろは、どう違うのだろうか。
あるいは、だからこそなのか……。
扉を開ける。
待つ者のなかった家のなか、椅子にちょこんと座ったましろがこちらを振り向いて、そして小走りにやってくる。
服の裾を掴んで、ぎこちなく微笑もうとする彼女に。
「ただいま」
かんなもまた、ぎこちなく微笑もうとした。
今でも夢に見る。
まどろむ黒い海のような、暗くて怖くて冷たい記憶のなかで、それだけは美しく映った。
怪物を切り裂く白い怪物の姿。
槍で怪物を貫き、白い睫でまばたきをするその一瞬。
もう戻れないと知った故郷の、かつて幸せだった風景が、忘れようとしていた風景が、脳裏に蘇った。
「ぁ――」
気付けば、手を伸ばしていた。
唯一すがれる岸辺を、みつけたみたいに。