SS詳細
心のコンパス
登場人物一覧
●生死からの出会い
胸が痛い。
心臓が悲鳴を上げているのがわかる。
無理もない。武芸一般の教養を身につけているとはいえ、ついこの間まで平凡といっても差し支えない貴族の娘だったのだ。
”命の危険”を感じて、必死に逃げることになるなんてカケラも想像していなかった。
「……クッ!」
『幻想の冒険者』リーネ=フローライト(p3p007892)は唇を噛んだ。
特異運命座標《イレギュラーズ》となったことで何かが変わっただろうか。そんな気持ちを確かめる為に、街道沿いに現れるモンスターで腕試しをしようとした。一人でだ。
結果、追い詰めたゴブリンを仕留めそこなり、森の中へと深追いし、そして増援に対応出来ず逆に追われる羽目になった。
(一人じゃなければ……)
特異運命座標になって、活動という活動はほとんどしていない。武芸全般について自信はあったが、周りのイレギュラーズは数々の国難、世界的脅威たる魔種を倒してきたという。
多少、腕に自信があったとしても、自分には圧倒的に経験が足らない。
だから、少しでも自信をつけるためのモンスター退治だったのだが……。
「無様ね……けど、もう少しで街道に出られる……そこまでいけば――あっ!?」
もうすぐ森を抜けられる、そう思って流れる木々が途絶えた瞬間。そこには待ちかねたように武器を構える数体のゴブリン達がいた。
待ち伏せされていた……!?
頭の中に焦りと恐怖が駆け巡る。
「なんとか突破して……!」
焦りと恐れは、短絡的解決を本能的に導き出す。
焦りのままに打ち込んだ一撃は、わずかにゴブリンの肌を傷つけるに留まった。そして、恐怖のままに構えた身体は、反撃の一撃を満足に受け止めること叶わず、命の手綱たる武器を手放してしまった。
「あ……」
下卑た笑いと共にゴブリン達が近づいてくる。
醜悪な舌舐めずりをしながら、矮小な手でリーネの豊満な胸を鷲掴みにした。生まれ育った地方の伝統的な戦装束が引き裂かれようとしている。
「い、いや……ッ!!」
恐怖に縛られる。
この混沌《せかい》において死は絶対だ。死を与えられたものの運命が覆ることはありえない。
(嗚呼……私はここで……こんなところで……)
まだ何も始まってない、何も始めていないのに。
悔しさと、後悔と、情けなさで、閉じた瞳から涙が零れる。
何もかも諦め掛けたその時――身体を押さえるゴブリンの感覚が消えた。
そして、次々とゴブリンの悲鳴が聞こえはじめて――閉じた瞳を開くと、そこには小さな身体に大きな大剣を持った金髪の少女と、黒衣をまとった長身の少女がいた。
わたしは助かったのだと、リーネが理解するまでにしばらく時間がかかった。
●
ローレットのテーブルに座っているリーネは目の前の命の恩人達を観察していた。
テーブルの上に山盛りに盛られたパスタを美味しそうに頬張る金髪の少女――ルーニャがゴブリン達を倒して追い払った。
「情報もなくモンスター退治だなんて勇気があるわね。この”混沌”は情報の精度が命の担保にも繋がりやすいのに」
そういう黒衣の少女はリリィというらしい。このローレットに懇意にしている情報屋だそうだ。
「なんにしても助かってよかったわね! この世界マジでヤバイから!」
すごく説得力のある言い方するルーニャ。それはともかく食べカスが飛んでくるので咀嚼し終わってから会話して欲しい。
「そ、そうね……次からは気をつけるわ」
「心配なら相談に乗るわよ? 伊達にローレットの情報屋をしてるわけじゃないもの」
そういってリリィは依頼の受け方、選び方を話す。
「大事なのは依頼の中でリーネちゃんが何をしたいかだと思うわ。
強敵と戦ってみたいでもいいし、誰かを助けたい、自分の力ならこれができるんじゃないか?
そういった想いをちょっとでも持てたのなら、その依頼は狙い所よね」
それに、とリリィは付け加える。
「みんな最初はリーネちゃんと同じだったし、何したらいいか相談してみると喜んで色々教えてくれるんじゃないかしら?
恥ずかしがらずに聞いてみるのが一番の近道だったりするかもね」
「なるほど……ええ、確かに一人でなんとかしようと思っていたのかもしれないわ」
「うん、大事なのはリーネちゃんの心の方向だからね」
リリィに言われて、どこか腑に落ちたようにリーネは思う。
特異運命座標として選ばれたのだから何かしないといけないと思い込んでいたのかもしれない。
何をしたいかは、常に自分の心のコンパスを見ながら考えればよかったのだ。
きっとその先は未知の世界が待っているだろう。そこには不安と恐怖も多分にあるかもしれない。
けれど、その未知の先に、リーネ=フローライトという人間が生きていく道が繋がっているはずだ。
恐れずに進む。難しいかも知れないがそれが第一歩になるだろう。
リーネはギュッと右手を握りしめ、未来への扉へと手をかけた――。