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星の乙女は夢見たり
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――今からおおよそ二年近く前のことになる。
この国、聖教国ネメシスには『煉獄篇第五冠強欲』ベアトリーチェ・ラ・レーテが降臨していた。
ネメシス枢機卿アストリアは、豪奢な椅子に腰を下ろして、聖典の頁をめくっていた。
書物によれば、恐るべき
このうち聖剣については最早恐るるに足らぬ。アストリアの盟友たるエルベルト・アブレウはとっくに
後は冠位魔種による侵攻を待てば、いかに国王にして教皇シェアキム・ロッド・フォン・フェネスト六世と言えども、権威は地に墜ちよう。クーデターの後に、教皇選定権を有す枢機卿たる自身が教皇の地位を握れば、天の杖も得る。政治はアブレウに任せることが出来れば、聖剣もランタンも、どうとでもなろう。
ベアトリーチェに対する切り札を保有したまま、従っていれば問題ない。いざとなれば
策謀は順調そのものであり、成就は時間の問題と言えた。
「猊下、温かいものをお持ち致しました」
「ご苦労……なんじゃこれは」
アストリアはゴブレットを一瞥し、助祭をじろりと睨んだ。
「汝は妾が、就寝前の共を
「このところ、猊下は激務続きのご様子。いずれも尊き聖務にございましょう」
「ほう、続けてみよ」
声を一段低くしたアストリアの返答に、助祭は緊張の面持ちで生唾を飲み込んだ。
「そのうえ床に就く寸前まで聖血の清めともなれば、いかな神聖でも過ぎて毒となりましょう。ですから、どうかお身体をお労り下さりますよう、どうか。伏してお願い申し上げまする」
「次に間違えれば容赦はせぬと心得よ。汝に神の正義があらんことを――下がってよろしい」
なるほど。
知らねば再教育が必要な所だった。もちろんその
鼻を鳴らした彼女は、蜂蜜を溶いた温かな山羊乳を一口啜った。
助祭の言い訳――その理屈は明確に詭弁であったが、アストリアは口八丁による教義の形骸化を、この国で生きる上での知恵だと考えている。形骸化しきった教義を口八丁を上回ることが当たり前となれば、物を言うのは純然たる力になるだろう。即ち知力、財力、権力、武力である。やがて腐りきった教義をそれらの力が上回り、新たな時代が訪れることになるだろう。そうなれば良い。
元を正せば王権と宗教権威の同居こそ、腐敗の元凶ではないのか。長い伝統の上にあぐらを掻き、教義の歪みと恣意的な運用を許しているのは、
教義とは本来、ただ守れば良いというものではない。それは長い時間を積み重ねた叡智であり、人が生きる上で必要としてきた知識の蓄積物であり、助言の手引きである。断じて虎の巻ではない。
政を治める者が世を導き、教が手助けをするが、真っ当な世の中であろう。
――そう考えるアストリアは、強欲の
魔種が発する原罪の呼び声によって、反転した末路である。
だから彼女も例に漏れず、かつてサンタレガネスという町の老修道女であった。
彼女の場合、ある日の掃除中に、書類の計算違いを教えてやろうとしたのが発端である。
裏帳簿だと気付いた時には、もう遅かった。
彼女に降りかかった嫌疑は『修道院の帳簿を書き換え、修道院長と司教を陥れようとした罪』だ。
教えたのは、素朴な優しさのつもりだった。
だが異端審問官に断罪され、崖に投げ落とされ、死の間際に始めて気付いたのだ。
自身の本当の過ちは、裏帳簿であることを気付きながらも、見て見ぬ振りをするために、己自身に嘘をつき、計算違いがあったなどと偽りの報告をした『怠惰』であったと。
ことそこに到るまで、己が身に、何の力も積み上げてこなかったことであるのだと。
怠惰にも、知力、財力、権力、武力から目を背け続けてきたからだと。
だから――
――
谷底へと舞う彼女は、原罪の呼び声へ、そう応えた。
こうして、白髪のままに子供の容姿を取り戻した老修道女は、星の乙女アストリアとなったのである。
アストリアが得た二度目の生は、彼女に彼女が求めるだけの力を与えてくれた。
やがてこの国を正すためと信じるに足る、絶大な力を。
力を以てネメシスを新生させる。それは――相手が覚えているかは定かでないが――アブレウや、アストリアが信を置き頼りとする司教や部下に語って聞かせたことのある、謂わば彼女の夢であった。
いかに高邁そうな志とて、多くを騙し、殺し、私腹を肥やした事に違いはないが。
市街に入り込んできた特異運命座標共は、間違いなく教皇側の差し金であろう。
だがアストリアが手ずから鍛え上げた
――計画に大幅な狂いが生じたのは、そんな翌日の事だった。
「ええい、何をしておる。草の根を分けてでも探し出させい!」
「はッ!」
度重なる会議は、残念ながら順調さとはほど遠い。
銃士達の報告によれば、交戦を開始したものの、特異運命座標が圧倒的に優勢であるとのことだ。
「……コレット・ロンバルドと申すか」
激昂したアストリアは報告者を滅多打ちにし、戦場へととんぼ返りさせ、そう呟いた。
特異運命座標は、いずれもアストリアの想像より遙かに強力らしく、戦況報告はどれも散々な有り様であったが、特に数名の特異運命座標が脅威と言えた。コレットはその筆頭である。
直々に対処したい所ではあったが、急速に動き出した事態はアストリアにそれを許さなかった。計画の狂いを修繕するには、時間などいくらあっても足りなかったのである。
「このままでは、各個撃破の憂き目に遭いましょう。どうかここは退いて再起を念頭に」
述べたのは、聖銃士小隊の一つを任せている男だ。名をフェルナンという。
「……」
神経質そうな面持ちでフォン・ルーベルグの地図を眺めたアストリアは、椅子に身体を預けてうな垂れた。
盤面上の聖都は全て特異運命座標が優勢という状況が、克明に見て取れる。
「……イレギュラーズ一人に三部隊ずつを集結させ、速やかに対処すればよかろうが」
激昂寸前のアストリアは盤上の駒を移動させ、吐き捨てた。
息をのみ黙りこくった配下達は、彼女が落ち着くのを十分に待ってから、おずおずと口を開く。
「これらの隊は、既に負傷しておりますゆえ。戦力は落ちております」
またも沈黙は続いた。
「ルシエンテス、リエスゴ、カベーロの隊は、無傷ではないか。汝もであろう、フェルナン!」
「ですので、無事な隊を集結させ、ここは聖堂へと退き」
「アブレウはどうなる」
「……は」
「妾がここで退けば、アブレウはどうなると聞いておる」
「執政官閣下は、独自の軍勢を元に行動頂けるものと推測し――」
「推測とはなんじゃ、推測とは! 事実を示せい!」
「はッ、しかしながら。聖銃士隊すべてを交戦させている以上、情報収集の滞りが」
「この不信心者共が! 妾を舐めるのも大概にせよ!」
「……申し訳ございません、猊下」
「先程からなんじゃ。無理だ、出来ぬ、しかし、ですが――まともな報告一つできんと申すか」
口元を震わせるアストリアは、ひどくゆっくりと肘掛けに両手をつき立ち上がる。
それから一同の顔を舐めるように見回すと、突如両腕で盤面の駒を打ち払った。
「いい加減にせよ! 成果以外は聞きとうないと言うておるのが分からんのか!」
「……猊下、どうか猊下! ――ッふぐ」
アストリアに近づいた司祭の一人が、なだめる仕草で着席を促すが、彼女は杖でその腹を突いた。
「権威か!」
司祭の帽子をひったくり、踏みつける。
「金と申すか!」
銃士の胸ぐらを掴み、金ボタンを引きちぎって顔面に投げつける。
「ご自慢の武力はどうした!」
マスケット銃を奪ったアストリアは銃身を掴んで振り上げ、床尾で机をたたき割った。
「この上、何が足りんと申すか! 全て与えてやった上ではないか! この痴れ者共めが!」
聖職を枢機卿まで上り詰めたアストリアであるが、軍略の才はない。
結局のところ、イレギュラーズの各個撃破を目指したまではよいものの、完全に逆手に取られた格好だ。
「三メートルの巨人などというものが、見つからぬはずがなかろうが!」
コレットを見つけられないのではない。
この期に及んで、アストリアは未だに思い違いをしていた。
本当は幾人かの部隊長達が言う通り、さっさと大聖堂に全部隊を集結させて籠城すれば良かったのだ。
アブレウは馬鹿ではない。勢力が孤立しても上手くやる度量はあるのだから、信じるべきだったのだ。
アストリアの失策は、コレットに完全な形で利用されていた。
このタイミングで聖銃士隊が特異運命座標を相手に、ある程度の敗北を期したとしても、早期にサン・サヴァラン大聖堂へ集結する手を打っていれば、これ以上の事態悪化は防げたはずだ。だがアストリアは、コレットのあまりに鮮烈な戦果そのものに、まんまと焚き付けられ、乗せられてしまったことになる。
かくして天義聖銃士隊は、文字通りに壊滅した。
これこそが転落の始まりであり、枢機卿にとって
結局いざ決戦で大聖堂に集結した際には、取り返しがつかない状態となった。
盟友アブレウはきっちりと大援軍を率いて戻ってきたにもかかわらず。
――認めるものか。
断じて、認めてなるものか。
アストリアは自身というコマが残って居る限り、勝敗を覆す機会はあるはずなのだと信じた。
信じてはいたが、覆すことが出来ぬであろうことは、理解出来ていた。
けれど、やりなおしたいとは、もう願わなかった。
忠実な配下であったフェルナンが大聖堂を尻目に逃げ出したのは、そんな時の事だったらしい。
アストリアは討伐され、アブレウは逃亡し、ベアトリーチェは滅んだ。
こうして特異運命座標は歴史上類を見ない偉業を成し遂げたことになる。
そんな歴史の一頁に、コレットの名もまた刻まれたのだ。
…………
……
薄暗い室内で、天井付近の小さな通気口から吹き付けた微風に、蝋燭の炎が揺れた。
堅牢な石壁に背を預けたフェルナンの両手両足は、重い鎖に繋がれている。
コレットはこの日、彼の部下や連んでいた盗賊達のうち、罪の軽い者達の身請けを申し出ていた。
それにしても――コレットは窮屈そうに身を屈めている――狭い場所だ。
フェルナンはひとしきり語り終えた後で、ただ歯を食いしばり涙を流していた。
ファルベライズ事件でのフェルナンに対する刑罰は、未だ決定されていない。だがコレットの申し出に政治的な力が乗り、極刑は免れる可能性も生じている。
「……そうか。ならば、よかった」
部下達に対するコレットの言葉を聞いたフェルナンは、喉から絞り出すようにそう述べた。
「あなたに機会を作ることは出来ませんでしたが」
「どうなるにせよ。これから長く、罪を悔いる時間を、くれたじゃないか」
「――」
コレットはどこか吹っ切れた様子のフェルナンに背を向け、地下牢を後にした。