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永遠の夢
登場人物一覧
少女は夢を見る。
それは悲しい夢。それは楽しい夢。それは虚しい夢。それは優しい夢。
それは、愛しい夢。
*
その日、ジャン・ポールは酷く浮かれていた。
明日は恋人の誕生日。満開の花が咲き乱れ、花を愛する彼女が喜ぶ季節。
首尾よく恋人とデートの約束を取り付け、なかなか席を取れないレストランにも予約を入れて。知人友人にサプライズの協力も取り付けて。明日で付き合って丁度五年目、プロポーズには打って付けの日だ。
満開の花々を見せたらどんな顔をするだろうか。気の良い友人連中の笑顔は彼女を喜ばせてあげられるだろうか。差し出す指輪は受け取ってもらえるだろうか。彼女にとって、いっとう幸せな日にしてあげられるだろうか。
夜も更ける前から跳ねる心臓は到底収まりそうもなく。気持ちを落ち着かせるためにと散歩へ出てきたは良いものの、彼方此方に恋人との愛しい思い出が脳裏をよぎり却って目は冴えるばかり。
いっそ徹夜して行ってしまおうか、なんて思って、酒に眠りこける自分
いっそ予行演習だとでも割り切ろうと辿り着いた最後の場所は、夜の公園。満開になる直前の桜が、溢れる花の香りを伝えてくる。今夜の月は一欠片足りないが、朝にはきっと満月が満開の桜を照らしてくれる。旅人が持ち込んだというその花は、今やこの地区には欠かせない春の代名詞。
美しい景色と横に並ぶ恋人を瞼の裏に描いて、自然と頬が持ち上がった。
「まぁ、あなた、とっても嬉しそう」
鈴を転がすような声が耳をくすぐったのは、そんな時だった。
誰もいないと思った公園に可愛らしい少女の声が響く。聞き覚えはない筈なのに、どこかで聞いたことがあるような親しみを覚える声。辺りを見渡すと、すぐそばの桜に可憐な少女が佇んでいた。
「こんばんは、お嬢さん。良い夜だね」
どうして気が付かなかったのだろう、恥ずかしさを堪えるように声を掛ける。いくら夜とはいえ、輝く月が照らしている。この距離ならば一人で笑っている姿も見えてしまったに違いない。
「えぇ、えぇ、こんばんは! 素敵な夜が嬉しかったの?」
違うでしょう、と確信を伴った喜色の声音。目の前の青年が嬉しそうなのが嬉しいと、何を喜んでいるのか知りたいと、善性の好奇心が伝わってくるかのよう。
「実はね、明日、ここで恋人にプロポーズをするんだ」
きっと喜んでくれると思ったら、嬉しくて。
可愛らしい少女の可愛らしい問いは、いとも容易く青年の警戒心を紐解いた。否──青年は最初から、この可憐な少女を
だから、問いへの答えは何の抵抗もなくこぼれ落ちた。
これがきっと、最初の過ちだった。
「まぁ、まぁ、素敵ね、素敵だわ!」
物語のような一幕を想起させる言葉に、驚きと憧れを乗せた瞳が煌めく。
「それじゃあ、あなたは明日、家族ができるのね?」
誰かの幸福を自身のそれと感じるような喜びを感じさせる声は、まるで砂糖菓子のように甘やかで。
「ねぇ、あなた達のお話、もっと聞かせて?」
いつの間にか、辺りは甘い香りで満ちていた。
*
迎えた翌朝、不思議な少女とのお喋りで彼の気分は最高だった。
愛しい恋人との出会いや結ばれた経緯まで、事細かに──勿論、たくさんの惚気と共に──聞かれるままに、聞かれる以上に少女に話し。少女はそれを無邪気に喜んで、もっともっととせがんでみせた。
聞き上手な少女の相槌はプロポーズへの緊張を収めるのに大変役に立ったし、彼女との思い出を一から振り返ったお陰でより一層愛しさが募った。芳しい香りがまだ残っているかのような、充実したひと時だった。
眠る時間は少々遅くなってしまったが、そんなものは些細な代償だ。
待ち合わせ場所で待っていた彼女はいつもよりも愛おしく感じ、彼女の隣を歩くだけで幸福を覚えた。
最初に渡した誕生日のプレゼントは彼女が気に入っていた蒼の宝石で作ったペンダント。着けてとせがむ彼女が可愛くて、わざと手間取ってみせて。「似合う?」と尋ねる彼女は世界一可愛らしくて──彼女との話をせがむ少女が脳裏を過ぎる。
一般開放された植物園で花を愛でる姿は微笑ましく、時折嫌いな虫を見つけてしまっては背に隠れる仕草に心擽ぐられ──あの少女もここに来たら同じような反応を見せるだろうか。
人気のレストランではひとつひとつの食事があんまりにも美味しくって、二人で顔を見合わせ瞳を輝かせて──あの少女が食べたならどんな顔をするだろうか。
店のあちこちに隠れていた友人知人が当然踊り出したのには驚いていたけれど、お祭りのような様相に声をあげて笑う姿に成功を安堵しては一緒に踊って見せて──こっそり教えたサプライズを羨ましそうに聞いていた少女にも見せてあげたかった。
薄暗い夜の下を二人歩く時間はなんだか静かで、自然と手を繋いで──甘い香りが鼻腔を擽って。
公園に着いても手は離さずに、満開の桜に見惚れる彼女から目を離せずに──目の前にいる彼女に、似る筈もない少女の姿が重なって。
ずっと考えてきた
焦れた彼女がつつくように引っ張る様子がまた可愛くて──期待するような眼差しに、好奇心に輝いていた少女の瞳を見出して。
青薔薇の瞳が煌めく様子をまた見たくて──この瞳じゃない。
砂糖菓子を溶かしたような甘い声をまた聞きたくて──この声じゃない。
金糸のような艶めく髪を、陶器のような滑らかな肌を、ほっそりと華奢な手足を、──
どうしてあの瞳が見えない? どうしてあの声が聞こえない? どうしてそばにいるのがあの少女じゃない?
愛しいはずの恋人が路傍の石のように思える。愛を囁こうとしたことに嫌悪感すら募る。ひと時話しただけの少女を求める渇望は違和感を押し流し、優しく繋いでいた手を乱暴に解いた。
甘い香りが鼻を掠める。
「!!!」
あの少女がここにいるかもしれない。そう思うだけで心が躍った。もしかしたら、自分にまた会いに来てくれたのだろうか。今度はどんな話をしようか。──引き留めるように付き纏う女が鬱陶しくて、力の限り振り払う。
どうして隠れているんだい、そう甘く声をかけて。ビスクドールのような少女の姿を探す。──倒れた女はそれでも足にしがみついて邪魔をするから、思い切り足蹴にする。踏み付ける。
ぐにゃり、ごぎ、ぐちゅ。
ようやく静かになったそれから、噎せ返るような血の香り。甘い香りが押し流されて、少女しか求めていなかった筈の視界がクリアになって。
自身が踏み付けている何かは、愛しい愛しい彼女の形をした
誰がやった?
──自分がやった。
どうやって?
──思い切り踏み付けて、蹴り上げて、追い払おうとして。
どうして?
──愛しい誰かを、探そうとして……それは、誰?
──思い出せない。
──分からない。
──どうして。どうして。どうして!
夜の公園に響く絶望はやがて途切れて。満開の桜と満ちた月が見守る中で、無惨な死体に被さるように事切れた。
*
「ルミエール」
「知らないわ、識らないわ。私は夢を見せてあげただけ。ただ、あの人は夢に酔いやすかっただけ」
「それでも、だよ」
「だって、だって。羨ましかったんだもの。愛おしかったんだもの。これならもう、ずぅっと一緒にいられるでしょう?」
鈴を転がすような甘い声はすぐそばに。その手に青い薔薇を持ったまま。
甘い香りが満ち満ちて、永遠になった二人はやがて桜に隠れて消えていった。