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京司と武器商人の話~溺れるカミソリ~
登場人物一覧
生ぬるく、安堵を刺そう。こんな命など手放してしまいたいんだ。ただ安穏と静かに眠っていたいだけなのに。
僕が生粋のこの世界の存在なら、いまごろどんな姿だろうか。ぜえぜえと喉が鳴るのは開幕のベル。煮込んだ負け犬のシチューが胃の腑から溢れ出る。甘く噛んだ舌先を軽く食いちぎってあふれだした美酒に酔おう。明日には再生する躰。刷り込んだ魔術回路が僕を永らえさせる。背の上り藤は分かたれた者の証。家族から、想い人から、あの世界から。息苦しくてたまらないんだ。メンソールはどこだい? あの香りの中なら呼吸ができた。代わりに包みを剥いだ新品のカミソリを口へ。刃を噛んだ、冷たい硬い匂い、ぎいいと横へ引けば頬が裂けていく。あらゆる事象の向こうへ行きたいんだ、そうかもね、どうでもいいよ。僕だけが生き残っていい理由にはならない。僕を恋してくれたあの栄華はどこだった。僕を殺してくれたあの映画はどこへ消えた。支離滅裂、楽しんで、笑うしかないじゃない。ねえ。誰かそうだと言っておくれよ。誰にも会いたくはないけれど。
歌いながら憩う。丸くなって、くすくす。ついでにカミソリを細い足へ滑らせる。ぷつりと浮かぶ紅が、すっと糸を引いて、深まっていく。上皮、脂肪層、このへんはたぶん筋肉。ごりりと押し割いたら真っ白な骨が見える。子供の歯のような、ぬとついた白。せめてこれが真珠だったなら、僕にも価値は出るのでせうか。首輪をかけられて、セリにかけられて、さあさ道行く旦那さま、こたびの商品珍品名品、損はさせぬと申しております、お代はなんと一桁からです、ええ、いかようにもお使いください、ムチでぶつなりロウを垂らすなり、人間椅子にもよろしゅうございます。パレードみたいに、にぎやかな市。観客様は皆異物。空へ昇っていく風船ふわり。
「またずいぶん汚したね」
聞き慣れた声が耳朶をやわらかく包む。
「自分を慰めたいならここでおやりと言ったばかりじゃないか」
僕の義理の親は少々おせっかいだ。
いまだって自分の美しい衣へ血が染みるのもいとわず僕を抱き上げて廊下を歩いていく。ああ、こぼれていく血が。廊下が汚染されていく。ごめんなさいごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです。放って置いてください。ほうっておいてください。どうか僕を見ないで。言いつけを破ったのは我慢がきかなかったから。叱られますか。僕は、僕は……。軽い恐慌、萎縮する躰。ぶたないで、いい子にします。あの身を切る吹雪のような、冷たい視線をよこさないで。あなたはそんなことしないと知っているけれど。幾重にも重なる記憶が僕の喉を締める。
「おや、喘息も出ているね。こいつは重症だ」
カツンカツンと硬い靴音。浴室への扉、からり。そのヒトはカラの浴槽へ僕を静かに入れた。
「夢を見ておいで、兎が逃げるような、苹果が赤いような、開けてはいけない扉の鍵を手に入れるような」
節を付けてそういうと、そのヒトは蛇口の栓をひねった。とうとうとなまぬるい湯が注ぎ込まれていく。ああ、あたたかい、あたたかい。まるで日だまりにいるようだ。
「ここで見ているよ。邪魔なものは取り払っておしまい」
はいと言う代わりに僕は服を脱ごうとした。正確には脱ぐためにもぞもぞと動いた。皮膚にピッタリと張り付いた布地は重く、力の抜けた僕の手には余った。たかだ布切れなのに、鎧を着込んでいるようだ。僕は親を見た。餌をねだるひな鳥のような、散歩をねだる子犬のような、ひねこびた目で。
「しかたないコだね」
その声にはなんの感情も含まれていない。銀色に輝く球体がかすかに響き合うような無機質で無垢な音。僕の精神へ刺さらない、棘もない角もないつるりとした非人間的な声音。今の僕にはありがたすぎる。尊敬と憧憬と少しの恐れ。こわばったままの僕の体からそのヒトは服をひん剥いた。苹果の包装紙を破くように引き裂いて。赤く染まったシャツをだんだら模様の端切れに変えていく。
いらなくなったそれを洗い場へ打ち捨て、そのヒトは椅子を引き寄せ腰掛けた。とうとうと湯は注ぎ込まれている。裸になれた僕の肌をなめるように水位を増していく。ふしぎだ、型にはめられたか、僕は動けない。それとも動きたくない? このゆりかごが心地よすぎて。だけどスパイスが足りないの。煮込まれる負け犬には鷹の爪がお似合いだ。僕のカミソリはどこへいったの? ふやけて形を無くす前に痛みで固定しておかないと。さもないとこのまま溶けていきそう。顔のあたりまでひたひたと押し寄せる心地よさ。溜息をつくほどあたたかい。
ごぼごぼと息を吐くんだ。苦しい、つらい、楽しい、どうしてこの湯からはメンソールの香りがしないんだ。そうすればもっと楽しいのに。裂け切った喉へ湯が入り込む。押しつぶされた肺胞がゴロゴロと悲鳴を上げるんだ。ねえ、絶えてしまえこんな体、なのに耐えてしまうこの身体。あらゆる状況へ順応する、あるいは化物と、誰かはそう呼ぶのだろう。肺の奥の空気をすべて吐き出した。もがきたいのにもがけない。まぶたで遮ったつかのまの暗闇は絶景かな絶景かな、値百金百鬼夜行。こんなにも心地良い自滅を僕は知らない。おくるみのなかで甘やかされている。まるで赤ん坊じゃないか僕は。そう扱ってほしいのか。罪と罰、贖罪、手軽な犯行、マッチをするよりも簡単な。それが始まり。
違うんだ、違うんです。理由は消えてしまった。シチューのルゥみたいにこのぬくもりへ溶かされてしまった。ただNOと叫び続けるしか僕にはできなくて、それすらも引き裂いた内臓が反旗を翻している。あなたのぬくもりへすがりたい、すがりたくない。僕にはやらなければならないことが、なにもないんです。本当のことはすべて藪の中。取り残された盗賊がおいでおいでと手招きしている。こっちへこいよ、極楽気分だ。あいにく僕は、とうにからっぽあたま。判断などできないし、したくもない。生も死も善も悪もなすべきこともなさざるべきことも、藪の中放り込んだ。やさしいぬるま湯で、ぷかりと浮かびあがるたびに僕の親が僕をつついて水中へ戻す。
意識が侵食されていく。もしも一生のお願いとやらが使えるなら、内側すべてさらけだしたこの身、このままじっくり煮込んでくれないか。お砂糖もスパイスもバターもデミグラスソースも、この紅にはかなわないだろう? 薪を集めて火を付けてよ。カラカラになるまで強火でお願い。骨の欠片一つ残さず消滅したいの。できればあなたのおなかのなかで。
「落ち着いたかい?」
湯船から引きずり出された僕はそのヒトの腕の中でぼんやりとしていた。支離滅裂になったはずの身体がもとに戻っている。ああ、歌うシチューにはなれなかったのだ。今回も。なめらかな白を取り戻した僕の躰。また始まってしまうのか、明日なき明日への道程が。刃こぼれしたカミソリは寂しげに湯船へ取り残されている。僕の義理の親は本当におせっかいだ。いまだって僕の頭をなでてよいこよいこと言い聞かせている。よいこなものかこの僕が。すきあらば日常から零れ落ちたがるようなやつが。なのになぜ僕を包む。なのになぜ僕を世話する。かいがいしく雛へえさを運び、散歩へと連れて行くのか。よしてくれ、あなたと過ごす時間はぬるま湯のように心地いいのだから。