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……He was smiling
登場人物一覧
――恋も愛も甘味の様に蕩けるのだろうか。
リア・クォーツの思考は陽光を浴びながら穏やかに流れていた。
ここはクォーツ修道院。彼女が住まう地であり――帰る家でもある場所。
豊穣の動乱……巫女姫達との死闘が執着を迎えてから暫く、ようやく一息つく事が出来た。が、落ち着けばこそ脳裏に渦巻く感情もあるものである。
それは――ずっとこの胸に抱き続けている『想い』の行く末。
「……伯爵」
零す吐息に籠っているのは熱か、それとも――
今まであの背を追いかける事に一生懸命だった。
遊楽伯爵と称されるバルツァーレク伯へ……好意は、もちろんあっただろう。ただその好意とは『尊敬』や『敬愛』の類だと思っていた――
けれど。
あの腕の中に抱かれた聖夜の舞踊――あの一時の胸の高鳴りは……
「なんぞやリア。身体ばかりでかくなったと思っておったら、しっかり心も育っておったのか」
「――うぉわあああ!? オ、オクターヴさ……え、いつの間に!? どこから!?」
「わはははは! 所用があってのぉ!」
瞬間。物思いに耽るリア――の背後から掛けられた声は、女性のもの。
それはオクターブ・ド・リッシュモンだ。幼子の様に見えるが幻想種である彼女の年齢はリアよりも……まぁ年齢はともかくオクターヴはリアの事を昔から知っており、知古の間柄と言えた。
「年頃じゃのう。じゃが、そういうのは積極的にいかんとなぁ。
いつまでも相手がフリーだと思っておったら手の届かない存在に……なんての」
「も、ももももう! その、その! 私にも色々あるんです!!」
捲し立てる言葉――だけれどもオクターヴの言う事は尤もだ。
いや別に今すぐ距離を詰めようとか、この心の『意味』を自覚しよう……だとか。
そう思った訳ではない、ただ。
「いら、っしゃるのかしら……」
ふと――伯爵自身はどうなのだろうかと思ったのだ。
実はそういう相手がいるのではないか? 秘密にしている様な相手が。
いやきっといないだろう。だけれども『そう』だと確信できるほど、自らは知っているか?
相手の事を。伯爵の事を。
……知りたい。
そして――自分の事も知ってもらいたい。
何故? 何故かって、分からない。
分からないけれど心の奥底から『そうしたい』『そうなってほしい』と溢れ出てくる。
「それじゃセッティングするかの?」
「――えっ?」
「遊楽伯の事じゃろう? なぁにラジ坊の頭の髪をちょっと人質にすれば、坊がなんとでも出来ようて! お題目は領地にごろつきが溢れてて~とかなんでもいいんじゃ、このオクターヴに任せておけい!!」
「ちょ、オクターヴさん、ま、オクターヴさん!! オクターヴさ――ん!!」
慌てて手を伸ばして制止せんとするが、俊敏に動くオクターヴがあっという間にすり抜けて修道院の表口から走り去っていく。わはは――! という特徴的な声が凄まじい速度で遠ざかっていけば、リアは手遅れな事を悟って――
「成程。サミットが開かれてから統治が始まった筈ですが……
リアさんの所は実に順調に運営が行われている様ですね。セキエイでしたか」
翌日。伯爵邸から修道院に招待の手紙が送られてきた時には、オクターヴの有能ぶりに頭を抱えざるをえなかった。どうしてこんな事に……!
「どうされました? どこか、体調でも?」
「あ、いえ、その、お褒めに預かり光栄です! 山賊が出たりとか、賞金首が現れたりとか色々大変だったりもしますが……」
目の前にいるは遊楽伯爵――彼の執務室とも言える場所だ。
彼以外に他の者はいない。護衛に関しても遠ざけているのだろうか……少なくとも部屋の中にはリアとガブリエルのみ。小さい机を挟んで、その御顔がこんな至近にあると思うと――ああ心臓の鼓動がまずい。
思わず『頭痛』もしてくる程だ。が、落ち着こう。大丈夫だ不安なんてない……!
「時々、悪い御誘いもあるのが困りものですけれど……
難しいんですね、統治するというのは」
「ええ――良い事ばかりでなく、しかし悪い事ばかりだけでもない……清濁の中で、己を見失わず生きていく必要があります。それを成せるだけで立派ですよ」
流通の街、セキエイ。袖の下が使われたり奴隷売買の呼び声があったり……
――善良たるリアの精神は悪意を跳ねのけ、善意に関しては全てに手を伸ばさんとする。
彼女の心は澄んでいる。それこそ水面から底まで伺える湖の如く。
……それは時として彼女自身を蝕む。清らかすぎるというのは『楽』ではないのだ。
それでもリアは――己を見失わない。
多くの助けを借りながら、セキエイと共に在る。
「ふむ――しかし、今のところ一通り問題ないように感じられますが……ラジエル殿が言っていた『悩み』とは一体?」
「えっ!? え、あ、いや、えーと……そ、そうですねぇ……!!」
あのジジィ、詳細は全部伏せてブン投げやがったな!?
ラジエルの顔が脳裏に思い浮かぶ。いけない、領地の話であればまだ比較的落ち着いていられたが『本命』の話となれば話は別だ――ッ! しかし今更逃げる事など出来ようもない。
瞼を伏せて精神に平常を。
脳の奥を劈く痛みの様な『何か』を――必死に無視しながら。
「……伯爵。私自身の事で申し訳ないのですが、聞いて頂きたいんです」
「なんなりと」
「私は、五歳より前の記憶がありません」
紡ぐ。
自らには記憶がないのだと。厳密には五歳以前の記憶が――だ。
古い記憶。遡ろうとしてもまるで空白の様に何も思い出せない。
だからだろうか? いつも自らには疎外感があった。
誰しもにある筈の過去が無い。皆にあって、しかし自分にはないのだ。
……シスターアザレア、ラジエル、オクターヴ。あの人達は良くしてくれたし、心を許せた。けれど耳を閉じても聞こえてくるクオリアの祝福は。
「私を――ずっと縛っていました」
絶対音感の耳がコンマの単位で聞き分ける。
善意はいい。けれど悪意は。憤怒は。怨嗟は。
負の感情は耐えがたいものだ。
人を人と認識できず、まるで彼らは音色の化身。脳髄を疼かせる全ては――まるで敵の様。
来ないで欲しい。こっちに来ないで。
――その祝福がより孤立させる。
「唯々怯える毎日でした」
「……苦しかったのですね」
「はい――でも、今は違います」
自室のベッドの上で窓の外を眺めるだけの幼少期。
……あの日々を忘れる事は出来ないだろう。
けれど。
けれど――『皆』がいた。
「シスターアザレアはずっと一緒に居てくれました。オクターヴさん達も、ずっと気に掛けてくれました。みんな皆――優しい人達ばかりでした」
そうして少しずつ、解けていきました。
クオリアが聞かせてくる音色は恐ろしく。けれどその中に心地よさもあるのだと知って。
窓の外を眺めるだけの日から、窓の外へと往く日へ。
窓の外より至る子達と接して、今度は私が。
「与えられてきた優しさを返したいと……願ったんです」
いつか一緒に窓の外へ行こうと。
あの日。シスターアザレアが手を引いてくれたように、今度は私が。
震えそうになる声を絞り出し、喉の奥から零して。
……さすれば常にまっすぐに視線を向けていた伯爵が――紡ぐ。
「なぜ――貴方の。貴方だけの秘密を、私に話してくれたんですか?」
それはきっと語らざるべき過去の灯なのだと。
余人に容易く紡ぐ御伽噺ではないのだと――けれど。
「どうか聞いて頂きたかったからです」
貴方が。
「貴方が、私のスコアに色彩をくださったからです」
何も知らなかった私に、貴方が新しい旋律を教えてくださったからです。
貴方は私にとって『知っていて』欲しい人なのです。
余人あらざるべき。『貴方』は……
「なんてことない日常の中でも、貴方の旋律を思い出すと力が湧いてくるのです。貴方の顔を思い浮かべればどんな困難も越えられるのです――苦難も絶望も、その先にある光があると知っていれば」
あの日、窓の外に手を伸ばせたように。
どこへでも歩んでいけるんです――伯爵。
「私は……太陽の様な人物ではありませんよ」
「いいえ。伯爵ご自身が何と言おうと、私は貴方を信じてます」
謙遜が如く否定するガブリエル。
そう言うだろうと思っていた。でも。
「あの誕生日の日。私は救われたんです」
忘れもしない――悪意に満ちた下衆に魂を蹂躙されそうになった日。
それを妨げたのが貴方だった。
暗闇に落ちてでもと思っていた私を引っ張り上げてくれた……
「伯爵が、立場上やりたい事をできないと言うのは、私も分かっています。
なら……私は、貴方がやりたくてもできない事はなんだってやります」
私は貴方の手となり足となり、剣となり。
「時には翼となって貴方の助けになりたいのです」
「リアさん、そのような――」
「だって」
不要です、と伯爵。貴方は言うでしょう。
お優しいから。自らに余人を巻き込みたくなど――ないだろうから。
でも、それが嫌なんです。
だって。
「私の……大切な人、ですから」
私は貴方の『余人』でなどありたくはない。
吐露した言の葉は瞳が潤うと共に。
どれだけ心を決めても紡げなかった一言が――こんなに、素直に。
ああ……やっぱり、そうなんだ。
私は。
――貴方が、好きです。
確たる思いが今自らに芽生えた。土の下に在り続けた感情が、光を求めて顔を出した。
迷いはない。間違いもない。
リア・クォーツという一個人の魂は――彼に寄り添いたいのだ。
一秒、二秒。
時計の針が刻む沈黙は、否定か、それとも。
「……我がバルツァーレク家の事を、貴女はご存知ですか?」
瞬間。ガブリエルの声が紡がれる。
「私は幼少の折より民と共にあるべしと教えられてきました。貴族として、人の上に立つ者としての責務だと――それは他の家でも同じかもしれませんがね。しかしバルツァーレク家はそれなりの力を持っていれば尚更に自覚せよ……という事です」
「……ノブレス・オブリージュですか」
彼は淡々と紡ぐ。ガブリエルは当然として、生まれた時から貴族だ。
幻想の国家の中でもより上澄みに位置していると言えるだろう。
だからこそ彼は何不自由なく生を謳歌出来る立場にあった。
幼少に苦労を重ねたリアとは……対照的とまでは言わないが、異なる生い立ちだろう。
「私はその考えと在り様に誇りを持っています。
ですが――随分とまぁ、苦労するものです。夢を抱き続けるというのは」
幻想の腐敗が進む度に正しさは苦境に立たされる。
三大貴族とされる一角ながら勢力的には最も脆弱とされるのも……それ故だろう。
「だから、ですかね。私は一度『嘘』を付いた事があります」
「――嘘?」
「ある日の事、ほんの些細な事です。私はその嘘で一人の人間を破滅に追い込みました」
リアの身体が固まる。伯爵が人を――破滅させた?
あり得ない。彼ほどの人物が、と。しかしそれ以上の動揺を見せる事も無かった。
彼の言葉を聞くのが優先だから。
「それは芸術家の方でした。フルートを扱われて……素晴らしい音色を奏でる方でしてね。一時期懇意にさせて頂いた事があります。一個人としても話が合う人でして、私もいたく気に入っておりました」
しかし事態は急転した。
その人物が――憲兵に逮捕されたのだ。理由は……
「それは、違法な犯罪組織の工作員という話でした」
「――」
「幻想国内、特に私の領内でスパイ行為を行っていたという事です。同時に私に接近し、芸術家の振りをして便宜を図ってもらおうとしていた様でした……私が許可を出せば、色々な所に入る事も出来ますからね。公演の名の下に」
結局、目論見は失敗した様だが。
……そして重要なのはここからだ。その芸術家に扮した工作員――と親しかった伯爵に念のためにと確認の声が掛かったそうなのだ。『この人物を伯爵はご存知ですか?』と。
「私は知らないと答えました」
知っていると答えれば。或いは庇えば。
あの人物は少なくとも助かったかもしれない。無論そんな事をすれば自らの立場が危うくなる可能性もあった――しかし。
弁を尽くせばどうにかなったのではないか?
力の限り思考を巡らせれば自らが不利になる事無く救えたのではないか?
もしかすれば工作員というのは何かの間違いで……それを確かめる為にも……
――されど予断許さぬ政治情勢の渦の中にいるガブリエルは最も『楽』を選んだ。
「それが私の嘘です」
「しかし――それは――」
「ええ、でしょうね。しかし私の心に確かに残ったわだかまりでした。真実を知らなければ、もっと仲を深めていた人物だったでしょうし……なにより……」
一息。
「『彼女』の事を傍に置いたかもしれない程には――気に入っていました」
静寂。その時のリアの胸の内に走ったのは――なんだったか。
それも一瞬の事ではあった、が。
「……昔の話です。今更にどうだという程の話ではありません。
些細な事があったと、それだけです」
「ですが――その話を、何故私に?」
「貴女と同じ理由ですよ」
だから、言う。
「これは些細ではありますが――余人には今まで話したことが無かった。
貴女が私に話してくれたように、私も貴女に知って欲しい事だったのです」
貴女が教えてくれたから。私も貴女に知って欲しかった。
お互いが知る、お互いだけの過去を――秘密の共有をしたかった。
「ふふっ、これでお揃いですね」
「えっ、あ――」
「リアさん」
もしも貴女がよいのなら。
「いつかどうか、貴方も私と同じ夢を見てください」
そして私も。
「貴方の夢を私にも見させてください。
共に見ている所が同じならば、いつか必ず辿り着けます」
「――どこへ?」
「お互いが交わる所へです」
ガブリエルが、リアの頬に手を添える。
暖かく心地よい――拒む意思など欠片も生まれず。
「私も貴女の事が、大切です」
近付く影。重なる狭間が無くなる時に。
柔らかい感触と共に――世界の時が止まった気がした。
やがて離れる一時が訪れるまで。
そして――
「……リアさん?」
リアは夢を見る。
伯爵と多くを語り。彼を知り、心に確かな充足感を得て。
彼とより深く繋がったのだと。確信すれば……
――眼球の奥を食い破られるかの様な激痛に襲われた。
昏倒する。ほんの一瞬で頭痛は脳の全体を侵食した。
彼と繋がりが深まれば深まる程、旋律を聞けば聞く程――彼女の脳髄は激しく悲鳴を挙げるのだ。
だめ。一緒に居たい。近寄らないで。もっと傍に――
超速度で進行するソレは今までの比ではなく。
相反する想いと蝕みが拮抗する中、ガブリエルの声が耳に届けど流れて消える。
衣が剥がれるかの如く崩れていく意識。魂に響くのは別のナニカで。
さつりくの うたが きこえる。
はめつの いのりが きこえる。
ああ きっと これが ……
くおりあ の ――