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ティル・タルンギレは泡沫に消ゆ
登場人物一覧
- ネーヴェの関係者
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あなたが傍に居てくれること。
四季の揺らぎ、揺蕩い。
そのすべてが、愛おしかったのです。
春。温かな日射し降り注ぐ季節。
頬を撫でる春風。息吹く新芽。柔らかな春の色。
美しく彩られていく花々。あなたの笑顔。
夏。青い青い空と海。
照り付ける太陽、空へと向かうひまわり。
蝉の鳴く声と火薬の匂い。あなたの大きなてのひら。
秋。実り行く果実。
織り成す暖色。失われ行く熱。
安らぎと安寧。あなたのまなざし。
冬。煌めく銀雪。
淡くとけゆくましろ。降り積もる想い。
幾星霜の夜空。あなたの想い。
どれも、どれも、とくべつで。かけがえのない。
わたくしの、大切なかけらだったのです。
●真実のゴブレット
安寧を。祝音を。そうして、健やかにこの子が、歩める日が来ますように。
母の祈りはつゆしらず、少しずつ背丈も伸びた少女は遊びたい盛りだ。
――ああ、退屈だ。
この窮屈な檻を抜け出して、どこかへ出かけたい。なんて願ってしまうのは我儘だろうか。
不変の日々は緩やかに軋みだし、安寧の檻は、音を立てて崩れ落ちる。
いつもと変わらぬ日常があったはずだった。穏やかであたたかな、変わらぬ日常が広がるはずだった。
ネーヴェが願えさえすれば、それは簡単に手に入るものだった。ありふれていて、ちっぽけで、何の変哲もない『あたりまえ』。
ネーヴェの脳裏を占めた悪魔さえいなければ、の話だが。
(お屋敷の皆は、優しいけれど……わたくしの自由は、あってないようなもの)
どこへ行くにも誰かが一緒で。
あまり遠くには行けないから、屋敷よりもうんと遠い『外』の国にもあまり行ったことはない。いや、ないかもしれない。小さいころの記憶は、定かではないから。
このまっしろな天井がずっと付きまとって、記憶の中すらも埋めてしまいそうだから、考えるのを止めた。
ぽふんと柔らかいリネンの海に身体を預ける。手を伸ばす。遥か空は遠い。
たとえ梯子を一生かけてみたとしても、届くなんて言えないだろう。
この手は届かない。
ならば、自由を掴むのも? いいや、そんなことはない。そうに決まっている。
(お外に頻繁に行くことは叶わなくとも、きっと、何かを叶えることはできるはず、です。
だってそう。物語の勇者さまや英雄さまは、諦めることをしなかったからこそ、魔王に勝つことができたのだと、そう、思うから)
お気に入りの本を少しずつ詰め込んだ本棚に並ぶそのひとつ、勇者たちの冒険譚。諦めることなく手掛かりを探し、ときに道を阻む敵を、壁を壊して歩み続けた。
己が彼らのように振る舞い、行い、進み続けるのは常人の何倍も難しいかもしれない。けれど。
「ねばーぎぶあっぷ、ですよね」
ぎゅっと握った拳は固く、されど小さく。
少女の確かな意思を示しているかのようだった。
医者との会話を終えたのであろう父が穏やかな顔で戻ってきた。きっとこういう顔の時は自分の容体が安定しているときだ。嬉しそうに微笑む父の顔を見ていると自分も嬉しくなるし険しい父の顔を見ていると胸が痛くなる。
家の中に居るのが退屈だと告げたなら、父はきっと困ったように眉根を寄せてほほ笑むのだろう。そんな顔はさせたくはない。
「お父様、今度ね、晴れた日に、お出かけを、したいのです」
ちらりと伺う。この表情に父は弱い。
内に秘めた好奇心は隠し。あくまで『お願い』の域を越えないように。
「お忍びで、行ってみたいの」
「……」
父の笑みが消え、険しいものに変わる。それは予想していたけれど、少しへこんでしまう。
「なんでもないのです、お父様」
困ったように、笑って。
ぐしゃりと整えた髪を乱雑に乱し、頭を撫でる父の掌の温度が、余計に胸を締め付けた。
だから。
彼なら理解ってくれると思ってしまった。
「ルド様、ルド様、聞いてください。皆が、とても、とても、過保護なのです!」
「ん、どうしたんだ?」
「お出かけを……1人のお出かけを、許してくれないのです」
「1人でお出かけ、ねえ。……どこへ行くつもりなんだ?」
「妖精のくに、ティル・タルンギレへ!」
――アルティオ=エルム。美しき木々のくに。
しかし、彼女が言う冒険(おでかけ)を行うには、自分がもっと強くないといけない。
彼女の願いを叶えるのは今の己では――不可能だ。
「いやそれは…ダメだろ。ネーヴェ、俺とお前じゃ違うんだぞ」
「……どうして?」
無垢なる乙女は罪を知らず。
果敢なる男は災禍を知らず。
「どうしてもこうしても……ない、だろう」
うまく伝えることが、できない。
絡まった舌がもつれて、うまく音にならない。
息を吸う音が聞こえた。
「……どうして、ルド様まで、そんなこと言うの!?」
「ッ、ネーヴェ……」
眉根を寄せて、ほろほろと。
零れだした涙は止まることをしらず、ぽたぽたとリネンに染みをつけていく。
「……ルド様なんて、大嫌い!!」
バタン、ドアを押し開けて、弾む息も痛む心臓も見て見ぬふりをして、駆けて、駆けて、駆けていく。
ルドラスが己の名を呼ぶ声も、何もかも聞こえないふりをして。屋敷の奥、広い庭の奥、薔薇の森でしくしくと。
薔薇は寄り添うように身体を震わせ風に花を散らす。そんな慈しみも何もかも、耳をふさいでしくしくしく。
あなたのことを、しんじていたのに。
(ルドさまの、ルドさまの、ばか、いじわる)
しとしと、頬を伝う雨は嵐を呼び。少女の虚弱な躰に熱を齎した。
寝込み、魘されるように手を伸ばし、ルド様とつぶやいた少女の手を握るのは父と母。
そこにルドラスの姿は、なかった。十日の間も高い熱にうなされて、汗をかき、魘されて、涙して。声を出すことも儘ならず、飲食をして身体を強くすることもできない。もだえ苦しむ少女の原因がわからず、両親は夜も眠れぬ日々を過ごした。
十一日目の朝、ゆっくりと目を覚ましたネーヴェを見て涙を浮かべた父と母を未だに覚えているのはきっと驚いたからだろう。
ああ、ルド様はいないのだ、と。父も母も大好きだ。それは変わらない。ただその大好きの中にはルドラスも含まれていて、そのひとつが足りないことに違和感を覚えたのだ。
ネーヴェは少しずつ元気を取り戻していった。針を刺し外を眺め、紅茶を飲みゆっくりと眠る。そんな変わらない日常に満足していた。そんな風に見せていた。けれど心の中は空虚で、ルドラスを失ってしまった喪失感だけが彼女を支配していた。大好きだった紅茶の味も何もかも、わからなくなってしまった。
ルドラスが来なくなってしまったことを屋敷の者は不審に思わなかった。きっと些細なすれ違いだ。何も知らない者から見たら、そうだったのかもしれない。
けれどああ、それだけでは足りない。違う、違うのだ。
深くつながっていた縁が、突然途絶えてしまったことへの喪失感は酷く大きいものだった。歳幼い少女にとって、頼るべきしるべを失ってしまうことがどれほど大きいか。
ネーヴェはこの日より、冒険譚を望むことが少しずつ減っていった。
楽しい記憶を置き去りにするように。
時計の針が死者を置いていくように。
宝物を秘密基地に仕舞い込むように。
彼女は、その記憶をセピアの檻で閉じ込めた。
いつしか、彼は扉を開くことはなくなった。
彼の声は、温度は風化して。
ネーヴェの中から、消えそうになっていた。
●Answerer
セピア色の思い出をただのシネマへと。いつかほんとに忘れてしまうような、風化してしまいそうなほど脆い記憶へと変えてしまえたなら。
砂糖色の睫毛がふるりと震える。
真っ赤に熟した柘榴の瞳は秒針を追う様に左右にきょろきょろと揺れる。
「……懐かしい、夢」
柔らかなベッドを購入してみた。あまりにもふかふかで気持ちよくて、お日様のにおいがしたものだから、ついうっかり眠ってしまった。
酷く懐かしい夢を見た。
幼い自分がルドラスを困らせてしまう夢だ。
今ならば少しは理解はできる。ルドラスの考えも。けれど、それがどこまで本当かはわからないし、今更再会したところで自分に何が言えるだろうか。
ルドラスの在り処を訪ねても「旅に出るといっていたよ」といっていた父や母の言う様に、彼はこの国からすっかり姿を消してしまったようだった。自分が行方を追ってあの時の事を謝罪したとて、あの時のようにまた仲良くなれるとも限らない。
自ら壊してしまったのだから。
ため息が零れ落ちる。よくないとはわかっているけれど、落ち着かない気持ちになって針を取り出した。けれど集中できずにやめてしまう。
ゆっくりと焚いていた薔薇のアロマを消して、空気を入れ替える。春を待ちわびる冬の息吹が頬を撫でた。
「ルド、様……」
どこにいってしまったの。