SS詳細
Alternative
登場人物一覧
幼い頃の『聖アルト』アルト(p3p004652)の一日はいつも、誰よりも早く寝床から抜け出すところから始まっていた。
辺りにはそれぞれの形で眠る、たくさんの『兄弟』たちの姿。彼ら彼女らを不必要に起こしてしまうことを恐れて、寝返りより大きな音を立てぬようにそっと立ち上がる。
抜き足。差し足。忍び足。
大きな鉄騎種の手の重さに耐えながら、寝ぼけ眼で寝室を出てゆく彼女の姿は、誰の目にも留まらない。けれども……それでも十分なのだ。だってそんな彼女のことを、かみさまだけはきっと見てくれてるはずなんだから。
そっと、誰もいない礼拝堂の扉を開ける。ひんやりとした静謐な空気に触れたのならば、おのずと背筋が伸びるのが自分でも解る。
聖像の前に進み出てひざまずく。それから両手を組み合わせ、ひとり、目を閉じお祈りをする。
(きょうこそ、おかあさんがむかえにきてくれますように)
かみさまが、そんなにすぐに願いを叶えてくれるわけじゃないことはもう知っていた。だからきっと、今日ではないいつか、かみさまがわたしを幸せにしてくれる日が来るのだろう……けれども自分がどれだけ『おかあさん』という物語に聞く素敵な女の人と会いたがっているのか、それだけはかみさまに知ってもらわなくちゃいけない。
いつか、そんなお願いをかみさまが叶えてくれると信じているから、彼女は今日も一日を頑張ることができる。
手早く朝食を食べ終えた他の『兄弟』たちは、早くも好き放題遊び回ってる。その手からすれば小さすぎるナイフとフォークを苦労して操って、ようやくアルトも食事を終えた頃には、テーブルの上にはジャムやソースのついた食器が山ほど重なったまま。
『おにいさん』や『おねえさん』たちは誰もやろうとしないし、『おとうと』や『いもうと』たちはまだ上手くできないから、それを片付けるのも彼女の役割だった。そればかりか脱ぎ散らされた服を集めて洗濯に回すのも、幼い彼女ばかりがやることだ。
彼女とて、おそらくは遊びたくなかったわけじゃなかっただろう。けれども彼女の無骨で鋭い爪は、一緒に遊ぶ『兄弟』たちを怖がらせてしまう。恐れられ、こっちに来るなと邪険にされれば、結局は彼女はどこかで独りきり、ただ佇むことのほかできはしない。
……だから。
こうして『皆のためのお仕事』をできるというのは、彼女にとっては光栄なことなのだ。
大きな手は一度にたくさんのおさらやおせんたくものを運べるし、同じくらいの背の誰よりも高いところに手が届く。長い物干し竿さえも、この手の重さからすれば苦にならない軽さ。きっとこの手はかみさまに授かった、大切なお仕事をたくさんできる手なんだろう……。
いいことをたくさん積み重ねれば、かみさまがいいことを恵み返してくれる。かみさまについて書かれた本は、そんなことを彼女に教えてくれていた。大切なお仕事をたくさん手伝うことは、もちろん、とてもいいことのはず。毎日かみさまにお祈りをして、毎日いいこともしている彼女には、どれだけ素敵なお恵みが待っていることだろう? アルトを嫌っていた他の『兄弟』たちも、その時はきっとうらやましがって、毎日いいことをしていた彼女を褒めてくれるのだ。
午後には遊び疲れた小さな『兄弟』たちを、絵本を読みながら寝かしつけてやる。みんなが大人しくなったなら、次は、アルト自身が本を読む番だ。
例の、かみさまのことが書いてある本。かみさまがどれだけ偉くって、いいことをする人に優しくて、悪いことをする人には厳しいか。何度も読んだ本だけど、いつ読んでもほっとする。自分がやっていることは正しいことばかりだ。きっとかみさまはわたしのことを見守ってくれているんだ――まだ、わたしのところには来てくれないのだけど。
夕食が済む。またテーブルは食器の山。
夜だというのにみんな元気が有り余ってるから、夜も後片付けはアルトの仕事だ。
全てが終わった頃にはみんな、すっかり疲れて眠ってしまった。だから星降る静けさの中で、彼女はもう一度礼拝堂でお祈りをする。
(きょうも一日がんばりました。あしたこそ、おかあさんがきてくれますように)
その時自分の身に起こった出来事の意味を、幼いアルトはまだ理解しきれなかった。けれども血筋――ローズレッドの星詠みの瞳は、確かに彼女に何事かを囁いてみせたのだ。
(あしたは、なんだかいいことがありそう)
それが何であったのか、彼女は全くわからない。けれどもきっと今までのアルトの祈りと行ないに、かみさまが応えてくれたに違いない。
だから明日は――彼女は思う――いつもとは、何かが違う日になるんだと。