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Amor vincit omnia et nos cedam
登場人物一覧
- レべリオの関係者
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夜を否定するように明かりが幾つも地上に咲いている。
練達の一区画に存在する再現性東京――その夜。無風の路地に軽く靴音をたてて歩くレべリオは、1年前を思い出していた。
空と大地に挟まれて2人。自分を見上げる子供の瞳。風が囁くような声で紡いだ言の葉にあの時、自分はその子に何かを提案したのだった。
『――するよ』
その子は将来、世界を滅ぼすのだと云われていた。
『とても……』
小さな手を掴んだ夜。指先を撫でれば、冷たかった。その冷たさに、何かを思った。だから言ったのだった。
懐から手紙を取り出してちらりと見る。恋人が送ってきたのだ。或いは――『元』恋人と呼ぶべきなのかもしれない。なにせ、1年もまともに会っていない。
レベリオは仮面の奥の瞳を軽く伏せた。心の奥に澱んだ重い感情の渦がある。
思い出す――、
『子供を殺せ!』
送り込まれた刺客が子供を狙う刃。レベリオが咄嗟に下から振り上げたナイフが弧を描き鮮やかに刃を弾く。悲鳴めいた金属音が一帯の空気を神経質に震わせた。痺れるような聴覚。手ごたえを感じながら動きを止めず、勢いのまま全身を捻り、舞踏めいて回転。視界がぐるりと巡る。
(メイヴィス)
目の前の敵に対応しながら、頭の中では敵方の支援をしている恋人、メイヴィスの存在に驚き戸惑っていたのをリアルに覚えている。振り返れば、混乱しつつも状況は理解していたように思う。メイヴィスはその時、レベリオが護衛する子供を殺しに来た刺客の一員だったのだ。遠目にも彼女の表情には動揺と困惑が見て取れた。互いに、思いがけず敵対してしまったというわけだ。
『支援を!』
『……ええ』
敵の傷がメイヴィスにより癒される中、レベリオはダンスのステップを踏むように膝を柔らかに使ってバネのように跳ぶ。子供を凶刃から守るため。
『その子供は世界の敵なのだ!』
刺客が吠える言葉が毒のように忌々しく勘に触ってならなかった。間違っても本人の前で言わせてはならない。そんな言葉だった。
『だったら何だというんだ』
レベリオの脚があがる。上体がくるりと風を巻く。跳躍。長い脚が鋭い蹴りを紡ぎ、敵の武器を弾く。一連の動作は電流が流れるように一瞬だった。着地と同時に風を斬るのは回転の勢いをのせたナイフだ。血飛沫が世界に色を添えて、愛しい声が悲痛な響きを漏らすのを遠く聞いた――その日から、2人は。
歩むうち、明かりが乏しくなってゆく。
薄暗い一角は、きらきらと光溢れる都市からそう離れてはいない。眩い光が濃い影を生むように、清潔感溢れて整然とした都市風景から一変した廃墟がそこにあった。
(ここだな……)
乾燥を感じて舌先で唇を軽く舐める。音を成さない程度に気を付けながら、唇の間から微かに息を吸い、吐く。『彼女』との待ち合わせ――1年ぶりの。依頼ともまた違う緊張感だ。
廃墟に足を踏み入れると、彼女はいた。黒を纏う白。繊細で儚い花のようでいて凛とした佇まいのメイヴィス。遠目に全身を見て、視線を少し下げる。目を合わせにくかったのだ。
「ルーイヒ」
レベリオの本名を呼ぶのは、恋人の声だ。
彼女の失った声を取り戻すために過ごした日々が色鮮やかに蘇る。離れていた期間を物ともせず、隣にいた感覚が蘇る。唇が音を発することがない間から美しいと思っていた瞳を近くで見たいと思った。
「久しぶりね。来てくれて嬉しいわ」
頷き、何か声を返したように思う。曖昧な言葉。無難な応えだ。
「最近どう? ……仕事で忙しいわよね、私のために貴重な時間を割いてもらうのに迷ったのだけど」
「君と話す時間は他の何にも代えがたいさ。いつでも……」
どんな言葉を紡いだものかずっと考えていたのが嘘のように、声を聞くと反射で喉から応えが零れ出た。
そして、思う。
(彼女が手紙をくれなかったら、もう会う事がなかったかもしれないな)
気づけば、1年が経っていた。その事実が2人の間に見えない壁を作っていた。壁は1日1日厚くなっていくようだった。それを感じながら過ごしていた。
「話をしたかったのよ――、」
目を合わせにくい自分に彼女がそっときっかけをくれる。だから、今度こそ視線をあげて瞳を見ることができた。
「私と――話を、してくれるかしら?」
深く惹きこむ青の中に感情が窺える。懐かしい色だ。強さとやさしさと、……傷。
「もちろん。話そう。ゆっくりと、少しずつでも」
仮面の下で頬が笑みを象る。痛ましさがこみ上げる。手を伸ばせば触れられる距離に大切な彼女がいて、以前のように微笑みを交わしている。けれど、以前と違った距離は間違いなくある。
時間は戻らないのだ。
そうして、2人は1年間前の話をようやくすることができたのだった。
無風の廃墟に白く細い髪が揺れる。無機質な壁の隙間に差し込む光は弱弱しく、けれど暗い室内を確かに照らして空中を彷徨う細かな塵を浮かび上がらせていた。
仄暗い室内に外持雨めいてぽつりぽつりと代わる代わるに声が落ちて、消える。
「君の仲間を殺してしまった。君が守ろうとした生命を」
なにより、その心を傷つけてしまった。
「私も、ルーイヒが守りたかった子を殺そうとしたわ」
名前を呼ばれる。
そのたびに胸の奥に固まった氷めいたものが小さな灯で溶けていくようだった。
「仕事だった、互いに」
「そうね」
でも、それで済ませてはいけないわね――、メイヴィスが行先を見失った迷子めいた声で呟いた。
「世界が滅んでしまう。私は、それが必要だと思ったのよ――いいえ」
メイヴィスは首を振った。三つ編みが可憐に揺れる。共に冒険をしていた頃、毎日器用に編むものだとよく感心していたものだった。揺れる三つ編みを戯れに手にとって撫でることができた距離。今は、どうだろう。
「いいえ。言い訳したいわけじゃない。許されたいわけじゃなかった」
自分を責めるように呟き、メイヴィスは悩まし気に吐息をはいた。
「だめね。私、狡いわ。あなたの選択肢を狭めて、誘導するような事を言ってしまう。そんな意図で手紙を書いたわけじゃないのに……いいえ。本当は、」
そんな計算が胸の奥にあったようね。そう自身を分析するように呟いてメイヴィスは首を振った。
「俺は、自分を重ねてたんだ」
レベリオは声を挟んだ。彼女が自身を責めるような思考を遮りたいと思ったのだ。メイヴィスは一瞬目を見開いた。すぐに思い至ったのだ。レベリオの過去は、以前行動を共にしていた時に打ち明けていたから。
レベリオは、特異な超能力を有している。そのため、元の世界で命を狙われたのだ。
(そうだ)
仮面の奥の瞳が瞬いた。
(あの子供に自分を重ねていたんだ)
「君は仕事だった。世界を守ろうとした。仲間を守ろうとした」
メイヴィスの視線が自分に向く。レベリオは言葉を重ねた。
「あの子を守りたいと思った。昔の自分みたいでね……ああ、これは、完全に言い訳だね」
軽く肩をすくめる先で、今にも溶けてしまいそうな雪めいて愛しい人の白い髪がさらりと揺れる。そう――大切な人だ。
(悲しませてしまった。傷つけてしまった)
「君を苦しめてしまった」
許しを求めているように聞こえなければいいが、と思った。思いながらも、ずっと抱えていた彼女への言葉をひとつひとつ紐解いてゆく。
「君の仲間を殺してしまった。君が仲間を生かそうと支援し、尽くしていたのを見ていたのに」
ぽつりぽつりと言葉は交わされた。
互いに、許しを請う言葉を零すことはなかった。
また、相手を責める言葉もなかった。
ただ、事実を語り合った。あの日互いの身に起きた事。考えていた事。それから、今日までの想いを。
「私」
メイヴィスが悲し気に吐息を零した。
「私は、言うならば……幼いルーイヒを殺す側の人間なのね。世界中があなたの敵に回る時に、あなたの味方になれないタイプの人間なのだわ」
罪なき子供を殺そうとした。世界のために。
選択と決意の事実がなによりも彼女の心を苛んでいる。それを見てレベリオの心が痛んだ。
「私は、誰かがやらなければと。世界が――世界が滅んでしまうと思ったから……けれど」
悲痛な声が呟く。世界中がルーイヒの敵になっても、私は味方でいたかったのに、と。
「事件は起きてしまったんだ。それに、あの子は俺じゃない」
見かねてレベリオは考えを止めようとした。彼女が自責の念に苦しむ姿は見たくないのだ。
「……」
「それに――、」
レベリオは苦々しく声を吐いた。
「世界が滅んでしまうという事は、君も巻き込んでしまう事でもあった。君が生きる世界なのだから、俺は守る選択をするべきだと何度も考えたよ。それなのに、俺は君ではなく俺を選択し、守ってしまったわけだ」
「ルーイヒ、そんな言い方はよくないわ」
なかったことにはしてはいけないと2人ともが思っていた。相手に対する罪責感は話した後も変わらず重く胸の奥に抱え続けていて、それを離して解放される気も起きなかった。むしろ、ずっと抱えているべきものだと思うのだ。
互いに同じだけ大きな咎を抱いている。他者が許しても、自分が許さないと思う咎なのだ。
2人はその事を等しく正確に理解していた。
――いっそ罵ってくれたら、と思う。だが、互いにそんな性分でもなかった。
(なら、話してどうするというのだろう)
レベリオはため息をついた。
(互いに互いの傷を深め合っているじゃないか)
「過去は、やり直せない」
「そうね」
(過去は、覆らないんだ)
他の誰でもなく自分が定める自身の『罪』は、ずっと抱えて生きてゆくのだ。レベリオはそう思っているし、間違いなくメイヴィスも同じだろう。
そんなレベリオの耳朶に、メイヴィスの声が触れる。ゆったりとした落ち着いた声だ。
「ずっと会わないままでいる間に……、」
冬の雪が溶ける頃に頭上から柔らかに降り注ぐ春陽のような声だ。ずっとこの季節を待っていたのだと訴えるような少し切なくて優しい温度。愛情が籠っていることが感じ取れる、擽ったい気にさせる声だ。灰色のコンクリートに染み込むように、彼女が囁く声は室内に響いた。
「そのまま会わないで、私たちは終わるのかしら、と思ったのよ」
美しい声だ。
初めてその声を聴いた時にも抱いた感想を改めて思いながら、レベリオは緩く頭を縦に振る。
会わないでいる時間が長くなるにつれ、そんな思いが濃くなっていくのを感じていた。食事を取りながら、野営をしながら。依頼と依頼の狭間で。自分と関わりのない何処かで、彼女が幸せであることを願っていた。もしもこの先自分と関わる事が一切無くても、自分が見る事がない彼女が物語の中に描かれた理想のような幸せの中にいる未来を思った。
思い描く未来には隣に誰かがいる未来も当然あって、そんな未来を面白くないと感じる自分がいた。隣に自分がいない事が僅かに切なくて、けれど、その隣にいる人物が自分よりも相応しく、素晴らしい誰かであれば? ――自分が隣にいるよりも良いではないか、と考えて……、
「ずっと、2人で話したかったのよ」
甘やかな現実の中にいる。
ふと気が付けば、最初よりも物理的な距離は縮まっていた。まるで、以前のように。
――今、隣にいるのは自分なのだ。
それを喜ぶ自分をどうしようもなく自覚している。
全く、人の感情とは御しがたいものだ。レベリオは仮面の下に露出している頬を掻いた。
「俺もだよ」
「私たちは、話さない時間が長く続きすぎだと思ったわ」
「ああ。同意する」
するすると言葉が出て、軽く笑むと廃墟の隙間から吹き込んだあたたかな風がふわりと頬を撫でた気がした。鼻腔に感じられるのは、控え目に咲く花のような香り。
目と目が自然に合う。
手紙を貰わなければ、こうして会う事がなかったかもしれない。声をかけられ、話したいといわれなければ、目を逸らしたままだったろう。
(何から何までリードして貰っているじゃないか)
そう思いつつ、口には出さなかった。メイヴィスは才女で理知的な女性だ。感情に振り回されるのみで物事を解決できないタイプではなく、ゴールを見定めてそのために道筋を整えて行動できるタイプである。レベリオはそんな彼女をリスペクトしているし、好ましく思っている。だが、彼女自身は「計算高い自分があまり好きではないのよ」と苦笑していた事があるのだ。
見つめる瞳はシンプルに綺麗でピュアな輝きを放つだけではなく、悲劇的な過去を経験しつつも気丈に生きてきたからこそ醸し出せる深みのある情と叡智が湛えられている。いかなる空想上の物語に出てくる宝石よりも美しい、世界にただひとつの輝きなのだ。
そこに宿るのが、まぎれもない好意だった。
他の誰にでもない、レベリオへの好意である。
「手紙をありがとう。本当に」
心の底から感謝を告げれば、青色の宝石が嬉しそうに瞬いた。瞬く光のうちに自分が映っているのを見て、心が満たされる自分がいるのをどうしようもなく自覚する。
「ルーイヒ、それで」
「うん?」
愛しい彼女の肩が上下するのを見て、仮面の下の目が愛し気にほほ笑む。今この瞬間が何よりも貴重で、奇跡のようだとレベリオは思った。
「私の名前を、また呼んでくれるかしら?」
「えっ」
メイヴィスが花のように微笑んでいた。柔らかで、けれど見えない花弁の内側に傷がある。そんな花だ。
(そういえば、名前を呼べていなかった)
メイヴィスはずっと名前を呼んでくれていたのに。
レベリオはもう一度頬を掻いた。そして、口を開いた。
「……メイヴィス」
名前を音として紡ぐ。その瞬間、パズルのピースが嵌ったように心がしっくりときた。
――そうだ。
レベリオはゆっくりと打ち明けた。
「そうだ、本当はあの子を、メイヴィスに紹介しようと思ってたんだ」
「私に?」
小さな子供を思い出して、自分を重ねた。
「歌を聞きたがっていた。君たちが現れる前にね。その……君の話をしていたんだ」
愛しい人だと紹介をして、幼い自分のように思っていた子に幸せを分かち合うように話したのだ。結局、その後で事件が起きてしまったけれど。
(本当は、俺が聞きたかったのかもしれない)
そんなことを考えながら。
『保証するよ』
幼い子供が自分を見つめていた。その瞳に映る自分は、大人だ。過去から続く長い道を歩いてきて現在にたどり着いた大人だった。
自分の目には、子供が映っている。
これから長い時間を生きて、いろいろな物に触れて世界を知り、人と関わり、色々な事に悩み、悲しんだり喜んだりしながら大人になる――過去の自分をみていた。
――その子は将来、世界を滅ぼすのだと云われていた。
『とてもあたたかくて、少しくすぐったくて、気持ちが安らぐんだ』
だから、生きてほしい。
どんなに否定されても。
『大切だと思う。守りたいと思う』
そんな瞬間が、待っているから。
『……一緒に、生きよう』